2012年8月13日月曜日

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・徐家匯天主堂

徐家匯天主堂(1910)
聖母院(1869)

上海最大のカトリック教会がある徐家匯とは、徐一族の村という意味だ。徐家は、科学者徐光啓(1562-1633)に始まる。彼は、明が発達した文明国家となるには、西欧の宗教と科学を取り入れなければならないと主張した。

徐光啓は中国で最初にカトリックに改宗した人物であり、幾何学原本などの西欧科学書を翻訳し、西欧科学の普及に努めた。しかしながら明政府はこれを受け入れない。徐光啓の主張が受け入れられないまま、徐光啓は死去した。その直ぐ後、明朝政府は滅亡する。清朝政府になっても、未だその主張は受け入れられず、西欧的宗教の禁止にまで至った。

しかし、アヘン戦争で状況は一変した。アヘン戦争によりキリスト教が解禁されると、フランスイエズス会の宣教師たちは、次々と上海を訪れた。選んだ場所は、『聖地』徐家匯だった。ようやく、徐光啓の願いがかなったのだ。中国と西欧の宗教と科学が、ここ徐家匯で交じり合い、新たな文化を作り上げることになったのだ。

1851年には、旧徐家匯天主堂が竣工される。1910年には、現在も残る天主堂が竣工された。天主堂のほか、次々と宗教施設が建てられた。今でも幾つか残っているが、天主堂と道路を隔てて向かい合う、現レストラン上海老站は1869年竣工のかつての聖母院だ。

ここ徐家匯は、復興公園やフレンチクラブから淮海路や復興路を西に数キロのところにある。復興公園やフレンチクラブがフランス租界の社交エリアなら、ここ徐家匯は、フランス租界の宗教的中心地だったのである。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・オークラ・ホテル(花園飯店) - 旧フレンチクラブ

オークラ・ホテル(上海花園飯店) - 二代目フレンチ・クラブ

科学会堂 - 初代フレンチ・クラブ

オークラホテルとして日本人にはお馴染みの、上海花園飯店は、元々は、1903年に設立されたドイツクラブが原型である。第一次大戦でドイツが敗れ、その施設をフランスが手に入れフレンチクラブとし、1926年には、現在の建物が竣工された。

暫くはフレンチクラブとして利用されていたが、第二次大戦後の国共内戦で共産党が勝利すると、ここは、中国共産党の高級官僚用の社交場、錦江クラブとなった。毛沢東らも訪れたという。

1990年には、野村證券がこの建物を購入し、オークラホテルとなった。

フレンチクラブとして長く使われたのだが、フレンチクラブとしては実はここは二代目である。一代目は、復興公園の北側、現在の科学会堂だ。1914年に竣工された。

私は近代建築が好きだがあまり詳しくない。この時代のフランス風の建物とは、一見山小屋のようで、屋根がとんがっており、そのスペースに屋根裏部屋があって、だから、屋根に窓が付いているのが特徴という。

このエリアは、旧フレンチクラブがあり、旧フランス公園、現在の復興公園があり、新フレンチクラブがある、フランス租界にとっては重要な地域だったのかもしれない。

是非、この辺りを散策して、屋根に窓がある建物を探してみていただきたい。見つけたら、それは、フランス租界時代の建物です。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧パーク・ホテル

パーク・ホテル(1933)

旧四行儲蓄会総本部(1934)

大光明大戯院(1932)

旧アメリカ・クラブ

Moore Memorial Church
プシケーの館

1933年に竣工した、ハンガリー人のラディスラウス・ヒューデックが設計した旧パーク・ホテル(現国際飯店)は、1980年代まで、上海で一番高く、上海の黄金時代を象徴する建物だった。

パーク・ホテルは、上海で最初の電動式エレベータ、客室には自動消火器を備え、飲料水は地価200mから汲み上げられていた。1935年には、中米間初の長距離電話サービスの開通式が同ホテルで開催され、1945年には、上海の初代市長・陳毅が就任式を行った。ロビーにある小さなテーブルは、1950年に市が平面図を作り直す際、測量技師により屋上の真ん中に立つ旗を市の公式の地理的中心としたことを今に伝えている。

さて、設計者のヒューデックだが、数奇な運命をたどった人物である。1893年にオーストリア・ハンガリー帝国(現チェコ共和国)に生まれ、ロイヤル大学を卒業すると、ハンガリー王立建築家協会のメンバーとなり、建築家として歩み始めた。やがて第一次世界大戦が始まり、オーストリア・ハンガリー陸軍に入隊、戦闘中、ロシア軍の捕虜となり、シベリア収容所に送られたのだが、捕虜を乗せた列車が中ソ国境付近を通過している時、列車から飛び降り、満州を経由して上海にやってきたのだ。

上海に到着後、建築会社で働き始める。ヒューデックは、今日にも残る歴史的建築物を次々と設計したのだ。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・上海郵政大楼

上海郵政大楼
西から

東から

四川北路が蘇州河を超えた直ぐのところに建つ建物は、1924年竣工の、中国で3番目に出来た郵便局である、上海郵政大楼である。竣工当時から、変わっていない。

鐘楼基壇の青銅彫刻は、当時、上海で最も美しい青銅彫刻と呼ばれた。一方は、キューピッド、マーキュリー、ヴィーナスで、真ん中のマーキュリーは神の使いとして人類に神の意思を伝え、両サイドの天使たちは、郵便により人類に愛をもたらすことを意味している。他方の三体は、当時の郵便の輸送手段である、汽車、船(碇)、通信ケーブルを手にしている。

太平洋戦争後、蒋介石率いる国民党軍と、毛沢東率いる人民解放軍とが、蘇州河を挟み、ここで激戦を繰り広げた。上海郵政大楼は、奇跡的に当時のままの姿をそこに残している。国民党軍、人民解放軍の両軍も、天使を見たのだろうか。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築 上海・汪公館

汪公館

この、今は小学校となっている素敵な建物は、かつて、『汪公館』と呼ばれていた。『汪』とは、『汪兆銘』という人物のことだ。

汪兆銘は、1884年、広東省に生まれた。1904年には、日本の法政大学に留学している。留学中の1905年、孫文の革命思想に共鳴し、革命党に入党した。1911年、辛亥革命により清が滅亡し、翌1912年には、孫文を初代臨時大総統とする中華民国が成立した。この成立文書を作成したのは、汪兆銘である。又、1925年の孫文死去に際して、遺言を起草したのも汪兆銘であった。

孫文死後、蒋介石が台頭してくると、蒋介石の傀儡になることを嫌い、1926年、フランスに亡命、しかし、翌1927年に、蒋介石の呼びかけに応じ帰国。蒋介石は、南京に国民政府を組織したが、汪兆銘はそれに応じず武漢(中華民国は、広東にて成立し、その後、北京に移り、辛亥第二次第三次革命により再び広東に遷都していた。その後、北伐を開始し、武漢を制圧、武漢に遷都していた。) に留まるものの、その後、南京国民政府と武漢政府は合体することになった。しかし、汪兆銘は、共産党による広東蜂起の責任を取り、再び、フランスに行くことになる。

しかし、蒋介石の独裁に反発する反蒋介石派から出馬を要請され、1929年、北京にて国民政府を樹立した。が、1日で崩壊、しばらく香港に居たが、1931年、反蒋介石派が結集した広東国民政府に参加した。

しかし、満州事変を機に、蒋介石との統一機運が高まり、1932年、南京に国民政府を樹立した。1933年、汪兆銘は、関東軍との塘沽協定締結に携わった。以降、汪兆銘は、政府内の反発を受けつつ、日本とは和平を前提とした政策を進めることになる。

1937年、日中戦争が始まると、汪兆銘は、蒋介石の徹底抗戦による民衆の被害を思い、和平グループの中心的存在となった。そして、1938年からは、日本と中華民国の和平グループとの間で水面下の交渉が始まる。この交渉は頓挫したものの、1939年、南京に国民政府設立を宣言し、新政府として日本と和平条約を結んだ。日本との和平が可能であることを蒋介石に分かってもらう為だった。この汪政府は、1941年に日本が英米に宣戦布告した際、同時に宣戦布告している。しかし、結局、蒋介石は日本への徹底抗戦を止めず、連合国側として日本との戦争を続ける。(日本は、同じ中国内の南京政府とは手を組み、蒋介石率いる重慶政府とは戦争をしていた。)

そして1944年、名古屋で死去した。汪政府は終戦と同時に解散となった。

日本で学び、日本と共に戦争を戦い、日本で死去した汪兆銘。ここにも、日本が上海に残した足跡があった。

Modern Architechture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧日本租界

旧日本海軍特別陸戦隊本部(1932)

多倫路文化名人街魯迅公園側入口

旧知恩院(1929)

旧日本海軍陸戦隊兵士宿舎

旧陸戦隊司令官官舎

旧三井洋行上海支店長宅

旧日本尋常高等小学校(1917)

旧福民医院(1924)

旧ユダヤ人難民収容所

1842年のアヘン戦争以降、上海は、パスポート無しで入れる外国となった。日本では、長崎に上海直行便のフェリーが就航し、多くの日本人が上海に渡った。

租界は、港に近い一等地(当時<物流は船中心)が、アヘン戦争の当事者英国の租界地、現在の外灘地区だ。かつての英国租界の競馬場、現在の人民公園より西がフランス租界だ。出遅れたアメリカは、仕方なく、蘇州河の北側のエリアを租界地とした。その後、フランスを除く各国の租界地を統合し、共同租界とした時期から、旧アメリカ租界地に日本人が多く住むようになった。現在の虹口地区である。

1932年当時、上海には約27,000人の日本人が居住していた。この居留民の警護を目的として、海軍陸戦隊1,000人が駐留していた。これは日本だけの措置ではなく、上海租界を形成していた各国でも自国民保護を目的とし、軍が駐留しており、租界の最高行政機関、工部局の幹部には、各国軍の司令官が就いていた。

1931年、江西省での共産党掃討に出ていた蔡廷鍇率いる19路軍は、満州事変を契機に、江西省より北の南京、上海方面へ向かった。兵力は30,000人規模だった。

日本は、防衛体制強化の為、艦隊10数隻を上海に送った。それを見た南京政府国民革命軍は、19路軍に撤退を指示したが、蔡廷鍇はそれを拒否、上海に留まった。

1/27、日本を含む租界を形成していた各国は、共同租界を分担して警備する方針を固め、日本は、利害関係の強い虹口地区を担当した。海軍陸戦隊の兵力は、応援の艦隊から1,700人を追加し、合計2,700人となっていた。

1/28の午後、とうとう、軍事衝突が始まった。第一次上海事変である。

以降、1937年の第二次上海事変も起こり、日中は全面戦争に突入して行くのである。

上海の虹口地区には、かつて、2万人以上の日本人が平和に暮らしていた建物、そして、戦争関連の建物が、今も残っている。

帰り道、魯迅公園に寄った。休日の中国の公園は、パフォーマーたちで溢れかえっている。カラオケマシンを持ち込んで一人歌う人、楽器の練習をする人、楽団を形成している人たち。ダンスの集団。そんな中、カラオケマシンを持ち込んでいたおじさんが歌っていたのは、中国でも人気の、『北国の春』だった。

最後の写真は、日本軍が管理していた旧ユダヤ人収容所だ。ヨーロッパから、パスポート無しで入れる上海に逃れてきたユダヤ人を、日本の同盟国ドイツは、処刑所を作り最終決着しようと日本に持ちかけた。しかし、ユダヤ人に偏見を持たない日本はそれを拒否、中間案として、収容所を作ったのだ。カーター大統領時代の元米国財務長官、M. Blumenthalも、ここに暮らしていた。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧横浜正金銀行上海支店

旧横浜正金銀行上海支店

外灘の旧中国銀行本店の直ぐ北に建つのは、1924年竣工の旧横浜正金銀行上海支店である。

横浜正金銀行と聞くと耳慣れないが、三菱東京UFJ銀行の旧東京銀行の前身である。戦後、GHQ指令により解体され、新たに設立された東京銀行となった。

横浜正金銀行は、1879年(明治12年)、明治政府樹立から11年後に、福澤諭吉や井上馨らの支援の下、設立された。貿易金融と外国為替に特化した特殊銀行で、日本の海外進出を金融面で支えた。

1893年には、南京路に仮店舗を出店、日清戦争(1894~5年)後は、日本政府の命により、清国からの戦争賠償金の収受と借款業務を一手に引き受けた。1924年に現在の場所の土地を、サッスーン社から購入、1924年に、現在も残る建物が竣工された。

横浜正金銀行が、ここ上海の外灘に存在しているのは、是非は別として、日本が、帝国主義の時代に、西欧列強に支配されまいとして大陸に進出した確かな証なのである。

尚、本店は、近代建築ファンなら誰もが知っている、現神奈川県立歴史博物館である。

神奈川県立歴史博物館(Wikipediaより借用)

2012年8月10日金曜日

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・Sassoon

Sassoon House(1929)

Cathay Mansions(1929)

Cathay Cinema(1932)

Metropole Hotel(1929)

Broadway Mansions(1934)

Grosvenor Garden(1935)

Grosvenor Mansion(1935)

Embankment House(1935)
(Japanese)


旧アスター・ハウス・ホテルや旧パレス・ホテルの所有者だったカドゥーリ一族の創業者、Sir Ellis Kadoorieが上海に来て最初に勤めたのが、E.D. Sassoon & Co.だった。

サッスーン一族は、大英帝国による三角貿易の中核として、インドのボンベイで、綿花とアヘンの貿易を行い、インド一の大富豪となっていた。

1842年、清国が大英帝国にアヘン戦争で敗れると、密貿易ではなく公になったアヘン取引を行う為、サッスーン一族は、1844年、香港支社を設立し、2年後、上海支店を設けた。サッスーン一族は、清国にアヘンと綿花を輸出し、大英帝国へは、シルク、茶、銀を輸出した。

大英帝国は、アヘンの為の戦争に勝ち、公に、ここ上海で、アヘンの取引を行えるようになったのだ。サッスーン一族は、その仕組に上手く乗っかった。

Sir Victor Sassoonは、サッスーン一族の第四世代で、1924年に父が亡くなると、Sirの称号と資産を受け継ぎ、New Sassoon Companyの頭首となった。

この頃の中国、上海は、内戦が続いていた。1853年の小刀会による上海県城占拠、1862年の太平天国軍による上海市占拠、1911年の辛亥革命と翌1912年の中華民国成立。租界は、戦火を逃れんと非難してきた難民で溢れ、土地が高騰していた。ビクター・サッスーンはこれに目を付け、不動産事業を開始、上海の不動産王となった。そして、現代にも残るアールデコ建築を数々と建てて行くのだった。

しかし、スッキリしない。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧嘉道里公館

旧嘉道里公館
(Japanese)


北を南京西路、南を延安西路に挟まれた、静安公園の西隣の敷地に建つこの建物は、外灘の旧アスター・ハウス・ホテルや旧パレス・ホテルの所有者だった、カドゥーリ一族の屋敷だった。

1880年に、バグダッドからここ上海に来て、同じくユダヤ人であるサッスーン社に身を寄せ、我武者羅に働き、手にした500米ドルを元手に独立し、旧アスター・ハウス・ホテルや旧パレス・ホテルを手にするに至ったカドゥーリ一族は、戦争末期に香港に引き上げるまでの20数年間、この屋敷で幸せに暮らしていた。

戦時中、ユダヤ人は日本軍により閘北区のユダヤ人収容所に収監された。カドゥーリ一族も同じ扱いを受けた。創業者、Sir Ellis Kadoorieはこの収容所で息を引き取った。彼の遺体は、今でも、虹橋路の宋慶齢陵園に眠っている。息子たちは1944年に収容所から出されたが、この家に戻ることは許されず、付近の小屋に幽閉された。戦争終結直後、香港に引き上げている。

戦争が終わり、国共内戦も終わった1953年、この建物は、宋慶齢により少年宮となった。中国で最初の少年宮であり、現在も続いている。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧アスター・ハウス・ホテル

旧アスター・ハウス・ホテル(1909)

旧アスター・ハウス・ホテルのロビー・インテリア
(Japanese)


この建物は、1906年に竣工された、嘗て、上海で一番豪華なホテルといわれた、アスター・ハウス・ホテルである。

アスター・ハウス・ホテルは、1923年に売りに出された。買ったのは、Hong Kong Hotels LTD.だ。同社は、このホテルを買ったと同時に、社名を、Hong Kong and Shanghai Hotels LTD.に変更している。

Hong Kong and Shanghai Hotels LTD.は、上海で大成功を収めた幾つかのユダヤ人一族の内の一人、カドゥーリ一族である。Sir Ellis Kadoorieは、1880年、既に上海で成功を収めていたユダヤ人一族である、David Sassoon & Companyで働く為、上海を訪れた。ガドゥーリは、サッスーン社で我武者羅に働き、稼いだ500米ドルを元手に独立、ここ上海で、カドゥーリ王国を築き上げた。

元々上海一豪華だったこのホテルは、カドゥーリ一族により、更に格を上げた。上海で最初の電灯、電話機、トーキー映画館を備えたのはこのアスター・ハウス・ホテルである。単に豪華なだけではない。サービスも一流だった。ある日、ホテルのベルボーイが宿泊客の財布を拾い、無事に届けた。お礼として中身の1/3をもらったそのベルボーイは、それを元手にタクシー会社を設立、今日の強生タクシーである。

上海に来た著名人は、当時、皆、このホテルに泊まった。哲学者、バートランド・ラッセル、アインシュタイン、チャップリン。チャップリンは、2度もここを訪れている。2度目は新婚旅行だった。

戦争により、このホテルは日本軍の管理となった。戦後、上海で栄華を極めたカドゥーリ一族は、上海を引き上げ香港に渡る。このホテルも他の人に渡った。

しかし、55年の時を経て、カドゥーリ一族は、創業の地、ここ上海に戻ってきた。2009年に、ここ外灘にペニンシュラ・ホテルをオープンさせたのだ。55年間、上海から離れていたにも関わらず、社名から、Shanghaiを取らなかったのは、絶対にこの地にカムバックしてみせるという思いからだったのかもしれない。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧香港上海銀行上海支店

旧香港上海銀行上海支店→二代上海市庁舎(1923)
(Japanese)


1923年6月竣工のこの建物は、旧香港上海銀行上海支店だ。香港上海銀行の英名は、Hong Kong Shanghai Bankで、略称はHSBC。HSBCは、皆さんも何度か目や耳にしているだろう。

建設に当っては、当時の頭取の指示で、金に糸目はつけず、見る者を圧倒するような豪華さを備えるものとして建設された。1853年の小刀会蜂起による上海県城占拠、1862年の太平天国軍による上海市占拠、1911年より始まった辛亥革命と1912年の中華民国の成立など、内乱による混迷が続く中国で、預金者を安心させるという意図と、一攫千金を夢見上海に来て、成り上がって行く人々の自尊心を擽る建物にしようという意図があった。

正面入口に配された二匹のライオンは、『慎重さ』と『安全性』と、名付けられている。建物内部に入ると、ドーム天井に、太陽の沈まぬ国、大英帝国の象徴、太陽神アポロが描かれた天井モザイク画がある。

1920年当時、この建物は、スエズ運河からベーリング海までの間で最も美しい建物と称された。

太平洋戦争が始まると、この建物は一時日本軍に接収され、横浜正金銀行の管理下に移された。が、1945年、日本が敗戦すると、HSBCの下に戻された。

共産党による中華人民共和国が成立すると、業務が大幅に縮小され、1955年には、ここに上海市庁舎が移されている。

1996年、浦東発展銀行がこの建物の使用権を買い取り、現在の姿となっている。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・上海市庁舎

旧工部局→初代上海市庁舎

旧匯豊銀行上海分行→二代上海市庁舎(1923)

(Japanese)


1845年、上海土地章程により、ようやく土地を自由にする権利を得た英米仏の三国は、更なる地固めとして、租界を管理する行政機関である工部局を創設した。

1853年、反清複明を目的とする清代の秘密結社、小刀会による蜂起が勃発し、上海県城は小刀会に占拠された。これにより多くの中国人難民が発生し、難民は、租界に逃れてきた。租界の人口は、500人から2万人に膨れ上がった。

1862年、今度は、1850年の金田蜂起を皮切りに勃発した太平天国の乱により、自らを天王と称する洪秀全率いる太平天国軍が上海を占拠する。更に難民が増え、租界の人口は50万人に膨れ上がった。人口が膨れ上がったことで、不動産が高騰した。小刀海による上海県城占拠前に比べ、200倍にもなったという。土地の所有者は英米仏の人間たちだ。難民に対し、無償で手に入れた土地を売り、大儲けした。

こうして工部局の財政は豊かになり、1854年に太平天国軍から租界を防衛する為に組織した工部局軍隊、義勇軍の管理範囲は大きく拡大された。工部局は、この財力と軍事力を使って清朝政府に迫り、次第に、上海における彼らの力を弱体化していった。こうして工部局は、単なる地方自治機構から、独立した行政統治権を持つ最高の行政機関に成長していった。租界は中国内の独立国となったのだ。

1932年の第一次上海事変、1937年の第二次上海事変により、上海は日本により実質的に占拠されていたものの、租界は残っていた。が、1941年の太平洋戦争により、工部局の董事会を含む、敵国である英米人は抑留され、実質的に、租界の歴史は終わりを迎えた。1943年7月には、日本が中国において擁立を画策していた汪兆銘政権下の上海市政府に、公式に、返還された。

1945年、日中戦争終結と同時に、日本軍の後押しで上海市を統治していた汪兆銘政権は上海から退く。その後、上海を治めたのは、蒋介石率いる戦勝国、中華民国だ。が、1946年6月、蒋介石率いる中華民国の国民革命軍と、中国共産党率いる人民解放軍による国共内戦が再び勃発、約3年に亘る戦いの末、1949年5月27日、人民解放軍の陳将軍が、国民党を破って上海市を解放した。この時、最初に解放軍の旗を掲げたのは、どこだったか。そう、この建物だったのである。租界の最高行政機関だった旧工部局であり、その後は実質的に日本のコントロール下にあった汪兆銘政権下の上海市庁舎であり、日中戦争後は蒋介石率いる中華民国下の上海市庁舎だった、この建物だったのだ。陳将軍は、人民解放軍の旗を掲げた後、そのまま中華人民共和国下の上海市長となり、この建物で仕事をした。その後、現東浦発展銀行の建物に移転する1955年まで、ここは上海市庁舎として使用された。

租界のある意味の象徴である工部局が入っていた建物は、漢口路の南、江西中路の西に、今も現存していて、今は、上海市民政局が使用している。陳将軍が上海解放後、真っ先に旗を掲げようとした、上海の象徴的建物とは、到底、思えない、ひっそりとした建物だ。

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・外灘

旧ユニオン・アシュアランス・カンパニーズビルからの眺望(50mm)
(Japanese)


当時、イギリスは、清国から大量の、茶、陶磁器、絹を輸入していた。イギリスから清国への輸出は、時計や望遠鏡など、富裕層向けに限られ、大量に輸出可能な製品は存在せず、イギリスの大幅な貿易赤字となっていた。当時清国は、銀本位制であり、イギリスは大量の銀を清国に流出させていたことになる。この貿易不均衡は、イギリスにとっては、悩みの種ではあったろうが、One of themでしかなく、これだけなら戦争は起こらなかっただろう。

イギリスは産業革命によって大量に生産した製品を自国だけでは消費し切れず、又、自国内で生産し消費するだけでは、国としての資本は増えていかないことから、大量生産した製品の売り先を求め、植民地政策を推し進めていた。

更に、アメリカ独立戦争が始まる。イギリスは、戦費確保の為、銀の国外流出を抑制したかった。

3つの問題をどうやって同時に解決するか。イギリスが考えたのはこうだ。当時、既に植民地でアヘンの栽培が盛んだったインドから、アヘンを清国に密輸出する。植民地インドを経由して貿易不均衡を解消し、大量の銀も手に入れることが出来る。

問題は、清国が、1796年から既にアヘンの輸入を禁止していたことだ。禁止令は、19世紀に入ってからも幾度となく発せられた。それでも、イギリスの三角貿易によるアヘン密輸出は功を奏し、一旦は貿易収支が逆転したが、清国内でアヘン吸引の悪弊が広まったことから、1838年、道光帝は、林則徐にアヘン取締特命大臣を任命し、徹底的なアヘン取締を行った。

これに対しイギリスは、艦隊を清国へ派遣した。麻薬の密輸の為に戦争を起こしたのである。1839113日のことだ。

1842年、戦争に敗れた清国は、香港島の分割譲渡などが含まれる南京条約をイギリスと締結した。その中に、上海の開港が含まれている。上海開港の翌年、1843年に、船長バルフォアが、上海領事として上海へやって来た。南京条約は、新たな貿易協定を結ぶための初歩的な原則を規定するだけで、外国商の商品倉庫や家族のための住宅建設、土地の賃借などについて、何ら規定がなかった。バルフォアは、上海道台の宮慕久に圧力をかけ、外国人専用の居住地域を設定するよう迫り、ついに、18451129日、2年間の交渉の末、「上海土地章程」を締結、海外の投資家はそれを上海基本法と考えた。その規定によれば、英国商人の居住地は、北は北京東路、南は延安東路、東は黄浦江、西は河南路の830アールの地域となり、そこは“十里洋場”と呼ばれた。租界、そして外灘の誕生である。