2021年6月21日月曜日

古甲州道、滝山

前回、古甲州道の日野をご紹介しました。

日野といえば皆、土方歳三、新選組を思い浮かべると思いますが、いやいや、日野と言えば、太陽信仰に基づく太陽祭祀を職業とした日祀部の一族、日奉氏の日奉宗頼だと。

日奉宗頼は936年に武蔵守の任期を終えると、冬至の日に富士山頂に沈む夕日が拝める日野の地に土着し、だから、古甲州道は任地府中と土着地日野とを結ぶ道であり少なくとも936年には既に成立していたと。そして、日野には日奉氏の痕跡がそこかしこに残っていて、また、日野の地名由来は日奉氏だと、そういう話をさせて頂きました。

今回はその先、滝山です。

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東光寺神明社の先で現在の谷地川流路を渡り、古甲州道はやがて都道153号の旧道に出合い、そこを左折します。

この都道153号の旧道は北に行くと多摩川を渡り、旧福島村、旧砂川村を経由して所沢に至る古道で、単に所沢道、あるいは大山街道所沢道と呼ばれている古道です。南に行けば鑓水峠、杉山峠(現御殿峠), あるいは七国峠を通って大山に、あるいは鎌倉に至る鎌倉街道でもあります。

さて、この辺りは八王子市小宮町ですが、"小宮" というと前回ご紹介した日奉宗頼を祖とする西党の一族、小宮氏の根拠地かと思いましたが、ここは江戸時代の大和田村、北大谷村、西中野村、粟ノ須村、北平村、石川村、宇津木村の7つの村が、明治22年(1889)に合併し、成立した小宮村がルーツということで、見当違いでした。

小宮駅入口のY字路から都道59号を行き、JR小宮駅を越すと再び旧道に入り、田島橋の五差路からは基本的に都道169号を行きますが、古道が残っている部分は古道側を行きます。

程無く、龍光寺に到着です。

龍光寺

八王子市史によれば、開創時期は詳らかならずも開山は1396年寂の清雅ということですから、永和年間(1375〜1379年)に京都醍醐寺から俊源大徳が高尾山に入り、飯縄権現を守護神として奉った辺りでしょうか。

こんな所と言っては何ですが、こんな所にこんな古刹が―――と、思いますが、法流は高尾山薬王院と同じ東密三宝院流の支流、松橋流ということですので、高尾山との関係が深いようです。真言宗系当山派修験道の中心的宗派です。

高尾山の信仰を広げる為に開創されたということでしょうが、ここがそれに適した場所だったということになります。"こんな所に" と言ってしまいましたが、ここは、古くから栄えていた所だということになります。

確かに、ここは鎌倉街道が古甲州道と交差する所、交通の要衝だったから、高尾山の信仰を広げる好適地だったんですね。

1880〜1886年に作図された迅速測図に、龍光寺(右)と、鎌倉街道と古甲州道の交差点(左)にマーキング。交差点の方は、南北に走る一際太い道が鎌倉街道、東西の道が古甲州道。龍光寺の東にある南北に走る片実線・片点線もひよどり山に続く鎌倉街道です。

引き続いて、埼玉神社です。

埼玉神社、夏というのもあるんだと思いますが、荒れ気味でしたね

1205年創建の伝承がある古社で、祭神は大己貴命、伊弉諾尊、猿田彦命、応神天皇です。

風土記によれば、埼玉神社ではなく埼玉権現社と書かれ、本地仏毘沙門天を祀るとのことです。

境内掲示によれば、宇津木には鎮守埼玉神社の外に、小字に五社の小祠: 字青木八幡神社祭神 応神天皇、字中村裏天照神社祭神天照大日孁尊、字権水日枝神社祭神伊弉諾尊伊弉冉尊、字久保山西青木神社祭神猿田彦命、があり後に合祀したとのことですから、引き算すると大己貴命が本地仏毘沙門天ということになりますね(天照大御神はどこに行った??)。

毘沙門天は、仏教世界を守護する四天王の一つ、仏神です。

仏なのに神社??, 権現とは??

ということなんですが、日本は元々は神様の国ですね。そこに仏教が入ってきて、仏教が隆盛となった時期、奈良・平安期に起こった考え方です。

日本の神様は本来は仏で、神様の形式で以てこの世に現れたとする考え方です。本来は仏で、姿は神様、これを権現と言いました。姿は神様だけど本来の仏様を本地仏と言います。

埼玉神社は元埼玉権現社で、本地仏は毘沙門天、しかし姿としては大己貴命だ、ということですね。

イヤイヤ、その前に何故八王子に埼玉??, でしょ!!

ですよね。はい、分かりませんでした。

恐らく、埼玉は、"さいたま" ではなく、"さきたま" と読むんだと思います。で、所謂、埼玉県のことを指しているんじゃないと思いますが、ハッキリとしたことは分かりませんでした。完全なる私の予想ですが、さきたまの、"さき" は、"前" ですから、多摩の前に位置していたから、というくらいですね。

引き続いて左入神明神社です。

左入神明神社

こちらも1190年、あるいは1204年創建の伝承がある古社です。

この神明神社も謎が多い。

風土記にはどうやらこの左入神明神社の記載が無いようですね。

東京都神社名鑑によると明治四一年二月、山の神社を合祀したとあり、いつもお世話になってます猫の足跡によると風土記の記載としてその山神社のみ記載されていますから、と言うことは、風土記が作成された頃は山神社であって神明神社ではなかったかもしれません。

山神社と言えば山岳信仰で、山岳信仰と言えば修験道です。ここも、龍光寺同様、ここ滝山の地の奥にある奥多摩山塊の山岳信仰に何か関係した信仰だったのかもしれません。

あるいは西党関係ですね。太陽信仰 = 天照大御神ですから。

ここは古寺古社が固まってますね。古甲州道が江戸時代の甲州街道より前に成立していたことの証左ということになります。

奇跡的に残る当時の面影を残す道筋

先を行きましょう、丹木御嶽神社です。

丹木御嶽神社

境内説明によれば、

―――往古蔵王権現社と称し高月村にあり、今の滝山城跡山頂に蔵王堂が鎮座。社の立は推古天皇代(五九五年)滝山城築城以前の開山とある。歳移り藤原時代康平二年(一〇五九年)源義家公社を再興し社殿悉く新築した。その後北条陸奥守氏照城郭造営の際現地に移したとある。この時天文十三年六月六日である。―――

という古社です。

古甲州道を進むと御岳山ですから、この神社は一の鳥居的な位置付けで、古甲州道は御岳山への参道の役割も持っていたのかもしれません。

丹木御嶽神社の山を降りて谷地川を渡った所に勝手神社があります。

勝手神社

勝手神社、聞かない名前ですね。祭神は押武日之命、これも聞かない名前ですが、安閑天皇のことです。東京都神社名鑑によれば、丹木御嶽神社の末社として創立されたとのことで、1349年に大石信重が懸仏一面を奉納したといいます。

勝手神社の本社は大峰山の鎮守社となる吉野八社明神の内の一つ。また、吉野川の水源に当たる青根ヶ峰は水神として崇敬を受け、山頂に金峯神社、山腹に吉野水分神社、山麓に勝手神社が建てられています。金峯山寺の蔵王権現、吉野水分神社の子守権現、勝手神社の勝手権現は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請されていたり、能の嵐山では、吉野から移植された嵐山の桜の花守である老夫婦が、勝手、子守両神の化身で、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三位一体であると語られるなど、勝手神社は金峰山修験本宗の総本山、金峰山寺と非常に縁のある神社です。

安閑天皇は蔵王権現と習合していますから、そういうことだということですね。

地蔵が佇む勝手神社から火防観音宝印寺へ向かう古甲州道旧道

続いて、宝印寺火防観音です。

火防観音宝印寺

宝印寺の御本尊は、薬師如来で行基の作、観音堂の御本尊は千手観音菩薩でやはり行基の作で、行基が諸国巡行の途中、この地に立ち寄り霊夢を感じこの像を彫刻し安置したとのこと。行基が暫らく留まった所と言うことで、地名が留所村(とどころむら)となったそう。

まぁ行基伝説はいつもの通りという感じがしないでもありませんが、冒頭言いましたように都道153号は所沢に向かう所沢道であり、所沢も行基伝承が多いところです

また、龍光寺の高尾山、丹木御嶽神社の武蔵御嶽神社にも行基伝承がありますね。

ここは行基伝承の中継地点のようです。行基自身がこの地を訪れた可能性は極めて低いと思われますが、少なくとも、行基の伝承を伝える人がここを通った可能性は高いということです。加えて、ここ滝山と交流があったということですね。

行基、あるいは行基集団は、大山街道所沢道で所沢からこの地滝山に来て留まり、宝印寺、火防観音の観音様を彫り、その後、高尾山を開き、武蔵御嶽神社を創った―――。

そのルートが古甲州道だったのかもしれません。

ここは古多摩川の扇状地の扇の要の位置に当たり、よって、ここまでが武蔵野台地で、ここから、奥多摩の山々が始まる所です。

真ん中を示す十字の位置に滝山を配置。その上の黄緑色エリアが武蔵野台地。滝山の直ぐ上に扇の要がありますね。ここから多摩川の扇状地が始まります。逆に、ここまでが奥多摩山塊。ここは境目です。台地中に島のように見えるのが狭山丘陵。狭山丘陵は多摩川に流されず残ったんですね。滝山の下の黄緑色エリアは相模川の扇状地で、相模原台地です。両扇状地に挟まれた滝山も乗っているのが多摩丘陵で、三浦半島まで続いてます。

恐らくこの地形が原因だと思うんですが、龍光寺は高尾山の当山派修験道、丹木御嶽神社は武蔵御嶽神社の金峯山修験本宗ですが、既述しましたが、共に、一の鳥居的な位置付けだったんじゃないでしょうか。

元々町はそれなりにあったんだと思いますが、高尾山の当山派修験道、武蔵御嶽神社の金峰山修験本宗の信仰拡大の為、開創創建した寺社によって、益々盛んとなった、と、こういうことだと、ここまで来て、思うようになりました。

時代的な後先は分かりませんが、ここに、行基伝承が重なります。

古甲州道が江戸時代より前からこの地滝山で開かれていた証拠と言えそうです。

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如何でしたか?

滝山って滝山城しかないじゃん、滝山城は北条、遡っても大石氏じゃん、と、思ってました。

日野の、much better than expected振りに比べると面白みが無いかなと思ってましたが、意外や意外、地理的条件故の奥多摩山塊の山岳信仰への一の鳥居的な位置付けで早くから開かれていた町のようです。

古甲州道は、御岳山への参道としても機能していたと考えられます。

スマホのカメラなんで画角がこうなってしまって分かりづらいですが、多摩大橋から奥多摩山塊を望んだ写真です。画面ほぼ真ん中、奥に薄っすらと山並みが見えます。その手前、色濃い丘が先程行った滝山丘陵です。正にここ滝山は奥多摩山塊の入口だということが分かります。

2021年6月7日月曜日

古甲州道、日野

前回、古甲州道の府中エリアをご紹介しました。

今の多摩川の流路は1590年の大洪水によって出来たもので、それ以前、古甲州道の時代は、概ね、府中崖線のハケ下を古多摩川が流れ、今の多摩川には古浅川が流れていました。

多摩川の渡し場は石田の渡しや万願寺の渡しではなくNEC府中事業場正門の辺りだったし、新田義貞と北条軍の分倍河原の戦いは、正に、多摩川と浅川の間の、"河原" で行われたし、武蔵国一宮小野神社は対岸に遷座せざるを得なかった、そんなエリアを古甲州道は通っていた、だから古道につきものの庚申塔や地蔵、馬頭観音などは全く残ってなく(度重なる洪水で流された?!), 古道の面影は希薄で写真を撮る気にならなかった、しかしこのエリアは府中崖線の湧水や府中用水による水の都で、癒やしの風景が広がっている、そういう話をしました。

今回は、そんな府中の先、日野を行きます。

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だから日野は、古甲州道の時代、多摩川で府中と隔てられたエリアではなく、府中とは地続きでした。

真ん中右の一際太い青線の北の方が古多摩川、南が古浅川。紫線が古甲州道、オレンジは江戸時代の甲州街道です。

この地続きの日野に入って始めにあるのが、1604年時点の甲州街道の、万願寺の一里塚です。

万願寺の一里塚、上記地図の黄色ポイントです。

はい、ちょっと説明しましょう。

江戸時代の甲州街道は何度かその道筋を変えていまして、上記地図のオレンジ線はその最終形ですが、初期の道筋は古甲州道と同じだったと考えられています。だからなんですね。

さて、日野と言えば土方歳三ですが、確かに、日野に実際に行ってみると土方歳三推し、新選組推しであることは間違い無いし、立派なお屋敷だなと思い表札をチェックしてみると土方姓であることも少なくなく、そういった意味ではそこかしこに痕跡が残っているんですが、土方歳三は幕末の人で、今回のテーマは古甲州道ですから、今回はスルーします。

上記地図の鳥居マークは神社、卍マークはお寺なんですが、全て、江戸時代より前の時代のもののみにマーキングしてます。

どうですか?, 江戸時代になってから開かれた町ではない、日野の歴史の深さがよく分かりますよね。

今回はこの辺りを紐解きながら、日野という町を、古甲州道を、見てみたいと思います。

まずはこちらです。

日野宮

日野市史によれば、、、

―――創建年代不詳も、伝によれば、武蔵七党中の西党の祝日奉宗頼は武蔵国司となり、任終ってここに土着し、居館を構えて祖神天御中主尊・高魂尊を配った。その孫宗忠は西内太夫と称して、西党嫡流の始祖となった。その子孫は永くこの土地に住み、先祖の宗頼・宗忠を併せ祀って日野宮権現と称したと言う。日野宮は日野の地名起源説の一となっている。

江戸時代には別当日輪山薬王寺、明治二年以後は八坂神社の神職が祭儀に当たっている。―――

薬王寺

日奉宗頼。名字は、"ひまつり" と読みます。日祀部という、太陽信仰に基づく太陽祭祀を職業とする一族の出身とのこと。

偶然か必然か、冬至の日、日野からは、富士山頂に沈む夕日が拝めるのです。だから、この地に土着したのでしょうか。

日奉宗頼は931年に京都から武蔵国に下向し、932年から、936年に藤原善方に変わるまで武蔵守を務めました。

ということですから、日野は、それまでに既に開かれていた可能性もありますが少なくとも、936年に日奉宗頼が開いて以降の歴史ある集落だということです。

日奉宗頼が武蔵守の時、詰めていたのは府中ですよね。

府中と日野を結ぶ道が、古甲州道だったわけです。

それ以前から既に武蔵国府府中と甲斐国府甲府を結ぶ道だったのか、まず、府中と日野とを結ぶ道ができて、それが甲府まで延長したのか分かりませんが、何れにせよ、この府中〜日野間の道は、936年の時点で既にあった道、ということになります。

さて、日野宮、その別当薬王寺の近くには、こちらもあります。

姫宮権現社

日奉宗頼の妻を祀るといいます。

少し西に進むと成就院があり、そこには、栄町5丁目の丁字路にあった東光寺が移設されています。この東光寺は、日奉宗頼の孫、西内太夫宗忠が、日奉館の鬼門除けとして建立したとのことです。

東光寺

また、東光寺神明社の背後にある台地に日奉館があったと考えられています。

東光寺神明社、太陽祭祀を職業とする日奉氏が天照大御神を祀った。

東光寺神明社から多摩川方面への眺めは、正にここに館があったのだと思わせる眺望でした。多摩川、東光寺、日野宮、姫宮権現社が一望できたはずです。

東光寺神明社から多摩川方面への眺望

さて、帰りには日奉宗頼の子、由井宗弘の直系、田村氏館跡と目されている安養寺に寄り道してから帰ります。

安養寺

八幡大神社、由井宗弘の孫、田村知実が1339年に創建との伝承、別当は安養寺

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如何でしたか。

日奉宗頼がこの地を選んだ理由が冬至の日のダイヤモンド富士だとしたら、ナント!!, ロマン溢れる物語となるか。

面白かったです。

2021年6月6日日曜日

古甲州道、府中

皆さん、

五畿七道

って、お聞きになったことございますかって、ないですよね?!

質問も終わらないうちに自分で答えてしまいましたが。。。

天武天皇の時代ですから673〜686年に始まったとされる行政区画です。

東海道とか東山道とか、そういったものなんですが、一番大きな単位が、"道" なんですね。道の中に、武蔵国とか相模国といった、"国" があります。

同じ道内の各国の国府、今で言う県庁所在地のような位置づけのものですが、国府を接続する道路があって、例えば東海道ならその道路のことを、"東海道" と言います。

はい、ややこしいんですが、行政区画としての名称と道路としての名称が同じなんですね。

―――――

既述のように、各道には、各国の国府と国府とを接続する道路があるんですが、甲斐国と武蔵国が所属する東海道の場合、甲斐国が山側に入った位置にあるので、隣国駿河国と甲斐国の国府を直接接続せず、"甲斐路" という支路で、駿河国の横走駅から甲斐国府へと接続されていました。

駿河国、甲斐国、相模国、武蔵国の東海道と甲斐路

甲斐国から行く場合、甲斐国府→甲斐路→駿河国横走駅→相模国→武蔵国といったようになり、下がって横行って上って、といった感じで遠回りになります。

一方で、甲斐国と武蔵国は隣国で、武蔵国府から奥多摩を経由すればそこはもう山梨県小菅村で、甲斐国に入ることが出来る訳です。

そういった場合、割と柔軟に連絡していたようなんですね。

ですので、武蔵国府と甲斐国府とを接続する連絡路もあって、今回はこれを行きたいと思います。

―――――

武蔵国と甲斐国を結ぶ古道、そう言うとまず思い浮かぶのは甲州街道だと思います。

家康江戸入府の際、五街道を整備しましたが、その内の一つが甲州街道です。

この甲州街道に対して、武蔵国府と甲斐国府とを結ぶ連絡路は、言ってみれば、"古甲州道", 今回はこれを行きます。

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大國魂神社、随神門

ここがスタート地点です。

大國魂神社の随神門前を横切る道、京所道と呼ばれる道が古甲州道です。

西に行き、JR武蔵野線、南武線の線路を陸橋で渡り降りた所が鎌倉街道で、この道が古甲州道となります。

鎌倉街道は分梅駐在所交差点で左に折れ、ここから先は御猟場道と名が変わります。

そうこうしてる内に道は新府中街道を渡り、NEC府中事業場に突き当たり寸断されますが、この敷地内の道筋に、1604年に整備された、甲州街道の一里塚があります。
※敷地内なので訪問せず、写真もありません。

これはどういうことかと言うと、初期の甲州街道は、古甲州道を踏襲していたようなんです。

NEC府中事業場を迂回し向こう側に行き続きを行きます。通りの名は日新通りとなりました。

古甲州道はやがて中央高速を潜り、いずみ大通りを越え、上之島神社を折り返し、いずみ大通りを北上し、R20の日野バイパス石田大橋を潜り、国立温泉湯楽の里辺りが石田の渡し場だったようです。

(なんとここまで写真を1枚も撮らずに来てしまいました。それほど、写真を撮りたいと思わせる風景がありませんでした。)

石田の渡し場

しかし、ここが渡し場なのは、1590年に、多摩川の流路が今の流路となって以降の話です。

府中市史によると、古多摩川の流路は下図のようでした。

古多摩川と古浅川の流路。紫線が古甲州道、黄色ポイントがNEC府中事業場内の一里塚。

一際太い青線が古多摩川と古浅川の流路です。北が古多摩川、南が古浅川です。

古多摩川は府中崖線に沿った流路、古浅川がむしろ今の多摩川と重なります。

1590年以前は、NEC府中事業場正門前が正に多摩川の渡し場だったということになります。

NEC府中事業場正門前を流れる古多摩川旧流路の名残、新田川

そして、石田の渡し場は勿論存在しませんでした。

ここには多摩川は流れてなかった。

足利尊氏も関戸の渡しではなく是政の渡しの方を選択するわけです。関戸の渡しの場合、多摩川と浅川と二度、渡河しなければならないわけですから。

是政の渡し場、足利尊氏は北条高時に新田義貞と同時に呼び出され、大雨による増水で足止めを喰らいましたが、最終的にここを渡河しました。

新田川緑道に新田義貞の分倍河原の戦いの碑がありますが、随分と多摩川から離れてるなと思ってましたが、それもそのはずですね。正にここが当時の多摩川流路だったわけですから。

分倍河原の戦いの碑

また、多摩川と浅川に挟まれたこのエリアは小野郷と言い、武蔵国一宮小野神社がありますが、2つの川に挟まれたエリアですから、やはり、洪水が多く、流され、対岸に遷座されています。
※府中観光協会より

小野神社

多摩川と浅川の洪水によって、何度も繰り返しリセットせざるを得なかった、その結果、古道につきものの、庚申塔、地蔵、馬頭観音が全く残っておらず、よって、古道の面影は無く、写真を撮る気にならなかったと自己分析します。

その代わりと言ってはなんですが、ここには府中崖線の湧水と府中用水の織りなす癒やしの風景が残っています。

ママ下湧水


ママ下湧水と矢川おんだしの間

矢川おんだしを矢川側から

三田氏館脇