2012年8月10日金曜日

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・上海市庁舎

旧工部局→初代上海市庁舎

旧匯豊銀行上海分行→二代上海市庁舎(1923)

(Japanese)


1845年、上海土地章程により、ようやく土地を自由にする権利を得た英米仏の三国は、更なる地固めとして、租界を管理する行政機関である工部局を創設した。

1853年、反清複明を目的とする清代の秘密結社、小刀会による蜂起が勃発し、上海県城は小刀会に占拠された。これにより多くの中国人難民が発生し、難民は、租界に逃れてきた。租界の人口は、500人から2万人に膨れ上がった。

1862年、今度は、1850年の金田蜂起を皮切りに勃発した太平天国の乱により、自らを天王と称する洪秀全率いる太平天国軍が上海を占拠する。更に難民が増え、租界の人口は50万人に膨れ上がった。人口が膨れ上がったことで、不動産が高騰した。小刀海による上海県城占拠前に比べ、200倍にもなったという。土地の所有者は英米仏の人間たちだ。難民に対し、無償で手に入れた土地を売り、大儲けした。

こうして工部局の財政は豊かになり、1854年に太平天国軍から租界を防衛する為に組織した工部局軍隊、義勇軍の管理範囲は大きく拡大された。工部局は、この財力と軍事力を使って清朝政府に迫り、次第に、上海における彼らの力を弱体化していった。こうして工部局は、単なる地方自治機構から、独立した行政統治権を持つ最高の行政機関に成長していった。租界は中国内の独立国となったのだ。

1932年の第一次上海事変、1937年の第二次上海事変により、上海は日本により実質的に占拠されていたものの、租界は残っていた。が、1941年の太平洋戦争により、工部局の董事会を含む、敵国である英米人は抑留され、実質的に、租界の歴史は終わりを迎えた。1943年7月には、日本が中国において擁立を画策していた汪兆銘政権下の上海市政府に、公式に、返還された。

1945年、日中戦争終結と同時に、日本軍の後押しで上海市を統治していた汪兆銘政権は上海から退く。その後、上海を治めたのは、蒋介石率いる戦勝国、中華民国だ。が、1946年6月、蒋介石率いる中華民国の国民革命軍と、中国共産党率いる人民解放軍による国共内戦が再び勃発、約3年に亘る戦いの末、1949年5月27日、人民解放軍の陳将軍が、国民党を破って上海市を解放した。この時、最初に解放軍の旗を掲げたのは、どこだったか。そう、この建物だったのである。租界の最高行政機関だった旧工部局であり、その後は実質的に日本のコントロール下にあった汪兆銘政権下の上海市庁舎であり、日中戦争後は蒋介石率いる中華民国下の上海市庁舎だった、この建物だったのだ。陳将軍は、人民解放軍の旗を掲げた後、そのまま中華人民共和国下の上海市長となり、この建物で仕事をした。その後、現東浦発展銀行の建物に移転する1955年まで、ここは上海市庁舎として使用された。

租界のある意味の象徴である工部局が入っていた建物は、漢口路の南、江西中路の西に、今も現存していて、今は、上海市民政局が使用している。陳将軍が上海解放後、真っ先に旗を掲げようとした、上海の象徴的建物とは、到底、思えない、ひっそりとした建物だ。

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