2013年10月13日日曜日

The History of Setagaya, Ike-jiri and Ike-no-ue / 世田谷区の歴史、池尻と池ノ上

半蔵門線の渋谷の次の駅、池尻大橋は皆さんご存じだと思います。

それと、これは少しマイナーですが、京王井の頭線の池ノ上駅も知っている方いらっしゃると思います。

池尻という地名は全国各所にありますが、元々、池の尻、つまり、池から川に変わる部分、アウトレットの意味です。

地形図を見てみましょう。

池尻の地形図
山と谷の地形が分かると思います。北側の谷は北沢川が作った谷、北沢川流路です。南側は烏山川になります。この二つの川が合流後は、目黒川とその名前を変え、東に流れています。

北沢川・烏山川合流点
左が烏山川、右が北沢川、後ろが目黒川

目黒川になった後、東に徐々に目を転ずると、何か気付きませんか?
徐々に谷の幅が狭まっているんです。R246を過ぎた辺りから、等高線の間隔が短くなってますよね。

二つの川が合流し、その後、直ぐに川幅が狭くなる。水の流れはJammingを起こし、溢れ、池になりますよね。

だからここは池尻なんです。

地形図から、池跡を想定してみました。


より大きな地図で 池尻、池ノ上 を表示

現在地図の上部にあるポイント、これは池ノ上駅です。池の北側なので池ノ上。このことからも、池尻には嘗て池があったことが分かります。

現在地図にポイントした眺望ポイントから想定される池跡の眺望

眺望ポイントへは階段で上がるが、上がった所に、『馬神』の碑。
馬にとっても難所で昔はよく馬が疲れきって命を亡くすことも珍しくなかったから、坂道には馬頭観音が祀られていることが多い。これもその一種なのか。あるいは、ここは明治の時代、軍の施設だったからそこにいた騎馬に対するものなのか。滝坂道への古道の途中に池尻見晴らし広場があるが、そこには、明治の戦役で亡くなった兵士への忠魂碑があった。それについては後日ご紹介することにする。

池ノ上駅
眺望ポイントを北上すると滝坂道に出る。この道は江戸期から既にあった古道。滝坂道を西に行き淡島通り交番を過ぎると都道420号が右から合流する。それも古道でそれを北上すると池ノ上の駅に出る。

池ノ上駅からは森厳寺へ抜ける古道を使ったが、古道らしく、庚申様が祀られていた。
又、国登録有形文化財の富士見ヶ丘教会の場所も分かった。富士見ヶ丘教会については、後日近代建築散歩でご紹介することにする。

今回のルート


より大きな地図で 池尻、池ノ上サイクリングルート を表示

2013年10月2日水曜日

Modern Architecture in Shanghai, Footprints of Soon 3 sisters / 近代建築 散歩、上海に残る宋三姉妹の足跡

三姉妹の父、宋耀栄は、海南島の貧しい商家に生まれ、アメリカで茶の販売をしていた叔父の養子(これで姓が韓から宋となった。)となり、1875年、叔父について11歳でアメリカはボストンに渡った。

商人に学問はいらぬ それに反発した耀栄は、家出してボストン港に停泊していた船に乗り込み密航を図った。13歳の時である。

簡単に船員に見つかった耀栄だったが、チャールズ船長に見込まれ、名前もチャールズ・ジョーンズ・スーンと改め、キリスト教伝道師として高度な教育を受け、大学まで卒業した。

1886年、25歳になっていた耀栄は、伝道師として母国中国の上海に戻った。

・・・・・・・・・・

この話、似ていませんか?

八重の桜を見ている方ならお気づきだと思います。同志社大学の創設者、新島襄に本当によく似ているエピソードです。

・・・・・・・・・・

上海に戻った耀栄は、同じくクリスチャンだった倪桂珍と結婚し、三男三女を設けた。この三姉妹が、宋家の三姉妹といわれる宋靄齢、慶齢、美齢だ。

この三姉妹、何がすごいかというと、、、

・靄齢、孔子の末裔の大財閥の御曹司、孔祥煕と結婚。夫は後に国民政府財務部長となった。
・慶齢、孫文と結婚。夫亡き後も夫の意思を継いで共産党で中国革命に命を懸けた。
・美齢、蒋介石と結婚、毛沢東率い、姉慶齢がいる共産党に、国共内戦で敗れ台湾に逃れた。

正に、中国を作った三姉妹だったのだ。この宋家の三姉妹の足跡が、上海に残っている。

今回は、それを訪ねた。


景林堂、昆山路135号
宋耀栄、倪桂珍夫妻はこの近辺に住み、三姉妹を生んだ。宋耀栄はここで牧師もしていた。

沐恩堂、西蔵中路316号
ここはかつて耀栄が開校した女学校でもあった。キリスト教に基づく学校の開設、そこも新島襄と同じ。
三姉妹はここで学んだ。

宋公館、陝西北路369号
三姉妹は沐恩堂で学んだ後、アメリカに留学した。留学後、それぞれが結婚し家を出るまで、
三姉妹は仲良くここに住んだ。今は、残念ながら、写真のように高い塀で閉ざされ、中は窺い知れない。

孔祥熙邸、永嘉路383、385号
長女、靄齢は、結婚後、ここに住んだ。

孫文記念館、香山路7号
慶齢は孫文と結婚後、ここに住んだ。因みに、孫文と慶齢は日本で結婚式を挙げている。
東京は九段下の学士会館だ。近くのカフェで休んでいたら閉館時間を過ぎていた。残念ながら門の外からの撮影。

宋慶齢記念館、淮海中路1843号
孫文亡き後、慶齢はここに住んだ。

宋慶齢記念館は、慶齢が1963年まで住んだ家だ。裏庭は非常に美しい。このバルコニーから眺めたのであろうか。

蒋介石・宋美齢私邸、現上海音楽学院中等部、東平路9号
国共内戦により賊軍となった蒋介石と宋美齢。共産党の中華人民共和国副主席を務め、死の直前に
中華人民共和国名誉主席の称号を授けられた宋慶齢とは、やはり扱いが違う。

慶齢が88歳で1981年に亡くなった時、蒋介石の死後アメリカに移住していた美齢はその葬儀に出席しなかった。※靄齢はこの時既に亡くなっていた。

中国の激動に飲み込まれた宋三姉妹。上海で、その足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。観光案内には載っていない、違う上海が感じられます。

以上