2012年8月13日月曜日

Modern Architechture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・旧日本租界

旧日本海軍特別陸戦隊本部(1932)

多倫路文化名人街魯迅公園側入口

旧知恩院(1929)

旧日本海軍陸戦隊兵士宿舎

旧陸戦隊司令官官舎

旧三井洋行上海支店長宅

旧日本尋常高等小学校(1917)

旧福民医院(1924)

旧ユダヤ人難民収容所

1842年のアヘン戦争以降、上海は、パスポート無しで入れる外国となった。日本では、長崎に上海直行便のフェリーが就航し、多くの日本人が上海に渡った。

租界は、港に近い一等地(当時<物流は船中心)が、アヘン戦争の当事者英国の租界地、現在の外灘地区だ。かつての英国租界の競馬場、現在の人民公園より西がフランス租界だ。出遅れたアメリカは、仕方なく、蘇州河の北側のエリアを租界地とした。その後、フランスを除く各国の租界地を統合し、共同租界とした時期から、旧アメリカ租界地に日本人が多く住むようになった。現在の虹口地区である。

1932年当時、上海には約27,000人の日本人が居住していた。この居留民の警護を目的として、海軍陸戦隊1,000人が駐留していた。これは日本だけの措置ではなく、上海租界を形成していた各国でも自国民保護を目的とし、軍が駐留しており、租界の最高行政機関、工部局の幹部には、各国軍の司令官が就いていた。

1931年、江西省での共産党掃討に出ていた蔡廷鍇率いる19路軍は、満州事変を契機に、江西省より北の南京、上海方面へ向かった。兵力は30,000人規模だった。

日本は、防衛体制強化の為、艦隊10数隻を上海に送った。それを見た南京政府国民革命軍は、19路軍に撤退を指示したが、蔡廷鍇はそれを拒否、上海に留まった。

1/27、日本を含む租界を形成していた各国は、共同租界を分担して警備する方針を固め、日本は、利害関係の強い虹口地区を担当した。海軍陸戦隊の兵力は、応援の艦隊から1,700人を追加し、合計2,700人となっていた。

1/28の午後、とうとう、軍事衝突が始まった。第一次上海事変である。

以降、1937年の第二次上海事変も起こり、日中は全面戦争に突入して行くのである。

上海の虹口地区には、かつて、2万人以上の日本人が平和に暮らしていた建物、そして、戦争関連の建物が、今も残っている。

帰り道、魯迅公園に寄った。休日の中国の公園は、パフォーマーたちで溢れかえっている。カラオケマシンを持ち込んで一人歌う人、楽器の練習をする人、楽団を形成している人たち。ダンスの集団。そんな中、カラオケマシンを持ち込んでいたおじさんが歌っていたのは、中国でも人気の、『北国の春』だった。

最後の写真は、日本軍が管理していた旧ユダヤ人収容所だ。ヨーロッパから、パスポート無しで入れる上海に逃れてきたユダヤ人を、日本の同盟国ドイツは、処刑所を作り最終決着しようと日本に持ちかけた。しかし、ユダヤ人に偏見を持たない日本はそれを拒否、中間案として、収容所を作ったのだ。カーター大統領時代の元米国財務長官、M. Blumenthalも、ここに暮らしていた。

1 件のコメント:

Nan Li さんのコメント...

小野寺さんはよく見ているね^^