2012年10月13日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Futako-michi / 世田谷区の古道、二子道

滝坂道の経堂南道を思い出していただきたい。小田急線ガード南側に道標を兼ねた庚申塔があった。

滝坂道 南道 小田急線ガード下庚申塔

『南ふたこ道』

と、彫られている。道標に従い南下すると、現農大通りとの辻に出る。

そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

滝坂道 南道 農大通りとの辻にある庚申塔

『南二子道』

又、道標に従い南下すると、農大の手前でT字路となり、そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

二子道 農大とのT字路の庚申塔

『南大山道』

大山道は、つまり、二子道だ。大山に行くには、二子の渡しで多摩川を渡らなければならない。

と、いうことで、世田谷区の古道、第三弾は、二子道(大山道)としたい。

さて、農大さえ無ければ簡単そうなものだが、農大により、二子道は消失している。

と、いうことで、いきなり、明治初期の古地図で推理してみる。

明治初期の古地図では、農大は無く、二子道はそのまま、ほぼ、真南に南下している。やがて津久井道とぶつかり、津久井道に沿って品川用水があり、ちょうどこの地点で品川用水が南下しているが、この品川用水と袂をを断つように南西に伸びる黒い実線が二子道ではなかろうか。雑草地、畑、茶畑を縫うように走るこの道、途中には天神さんと池もあるようだ。やがて、旧大山道と新大山道の追分に向かっている。

明治初期の古地図

二子道消失部分、緑の囲み上が農大、下が馬事公苑

現代の地図と見比べると、農大、馬事公苑で二子道は消失しており、馬事公苑以南も、区間整理されているようで、二子道は残っていない。辛うじて、馬事公苑西端の道の一本西の道が、一部、残っているかな?!と、いう程度だ。

現代の地図


より大きな地図で 二子道消失部分 を表示

さて、推理も済んだので実走しよう。

農大通りを南下し、烏山川を越え、再び台地をひたすら上ると、ここに出る。

二子道と六郷田無道(上)との出合い

ここが、二子道が農大で消失している場所だ。カーブミラーの左脇に庚申塔が見える。

農大を迂回し、津久井道に出て、少し西に行く。ちょうど、農大の正門の正面に、馬事公苑の東端に沿う道があるが、その道に入った所に、北見橋跡の碑が建っている。既述した品川用水に架かっていた橋だろう。この通りは、品川用水を埋めた道ということになる。

北見橋跡

この通りを馬事公苑南端まで行き、覆馬場との間の道を西に行き、馬事公苑西端の一本西の道に入る。少しばかり入った右手に、用賀本村稲荷があった。

用賀本村稲荷

インターネットで調べたところ、このお稲荷さんの近くには天神さんもあり、この辺りは天神山と呼ばれていたという。明治初期の地図にあったあの天神さんだ。やはり、この道が、辛うじて、二子道と重なっている。

天神山から緩やかに下る。真福寺の北端の道を東へ。馬事公苑東端の道を南下すると、大山道にぶつかる。

品川用水と大山道出合い

大山道を西へ。すぐ交差するのが、真福寺の参道だ。大山道は、この辺りだけ、古道が残っている。

真福寺

大山道は、直ぐに都道427号に接続する。やがて、首都高を過ぎ、暫くすると、追分にお地蔵さんがあった。と、いうことは、ここで分かれる道も、古道ということになる。帰り道はこちらを通ろう。

追分のお地蔵さん

さて、大山道は、瀬田の交差点で環八に接続する。大きな交差点の向こう側、道なりの道が大山道だ。暫く行くと、追分だ。左側が古道である。

暫く行くと、行善寺があった。

行善寺

開基は長崎伊予守重光、法名行善。長崎重光は、後北条氏に仕えていたが、秀吉による小田原征伐で滅亡すると、この地、瀬田に土着した。行善寺は、小田原征伐の前、だから1590年より前、永禄年間に開かれたとされている。

行善寺から先は、崖かと見まごう物凄い急勾配の坂だ。それもそのはず、古多摩川が削った国分寺崖線である。

行善寺坂

下り切ると、六郷用水、別名次大夫堀、丸子川だ。1597年に小泉次太夫により開削が開始された、これも歴史遺産だ。

六郷用水

道は、その後、再開発された二子玉川の駅前を通り抜け、やがて、多摩川に出る。ゴールだ。

二子道と多摩川出合い

さて、帰りは、約束通り、お地蔵さんの追分に向う道を行く。多摩川沿いを西へ。兵庫島を過ぎ、多摩堤通に合流して直ぐ右折がその道だ。

二子玉川小の手前の真っ直ぐな道は、1924年開業の嘗ての砧線跡だ。砂利採取の為の路線で、関東大震災の復興に大きく寄与したという。

砧線跡

NTT瀬田前の辻で再び六郷用水を渡る。この橋を『じだいゆうばし』という。勿論、六郷用水=次大夫堀から来ている。ここに、新しいものと思われるが道標と、世田谷区の説明板があった。

次大夫橋
説明板

この道が大山道であることが確認出来た。

この辺り、玉川寺に玉川太師、瀬田玉川神社、慈眼寺と寺社が集中している。が、何と言っても、国分寺崖線の急坂が凄い。これでも切り通しなのだろう、瀬田玉川神社の階段も急勾配だ。ここを昇る。

急坂

瀬田玉川神社

永禄年間に勧請し、その後、寛永3年(1626年)に、長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮した。行善寺と時期と長崎氏が共通している。この地の長崎氏との関わりの深さが分かる。

急坂をようやく上り切ると五差路となっており、西の道が慈眼寺の参道になっていて、入口に庚申塔などか建っている。

慈眼寺前石塔群

大山道、二子道はここを右に行き、二つ目の追分を左に行く。大空閣寺を過ぎ、環八を渡り、暫く行くと、お地蔵さんの追分に出る。ゴールだ。

二子道全工程地図


より大きな地図で 二子道(推定) を表示

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さて、二子道は大山道だった。経堂から二子に向かい、大山、阿夫利神社に向う道だった。

大山は、阿夫利神社があることから、別名、雨降り山とも呼ばれ、干ばつが続き飢饉になると、農家が雨乞いに参詣していたという。

経堂は、今でも畑が残る、江戸時代は農村地帯だ。沢山の農家が、この道を二子に向かい、大山、阿夫利神社に向かったのだろう。うちの大家さんも行ってたのかな?!

2012年10月7日日曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 7 / 世田谷区の古道、古府中道(滝坂道パート7)

滝坂道を、私の中の府中方面・西のゴールである人見街道の三鷹郵便局前まで行った後、人見街道をそのまま東に行き、真福寺の追分から古府中道を通って世田ヶ谷に帰った。

前回、滝坂道の全ルートを、古道真っ直ぐ原則、古道行政境原則、現代の地図、明治初期の古地図、地形図、実走までして推理したばかりだが、結論からいうと、早速訂正させていただきたい。だか、これは、前回の推理より自信がある。

では、推理の順番でご報告させていただく。

まず現代の地図だ。以下の点を頭に入れ、現代の地図を眺める。

1. 起点はヨークマート
2. 古道真っ直ぐ原則
3. 古道行政境原則
4. 府中へは、人見街道を経由

すると、以下の推理地図が出来上がる。


より大きな地図で 古府中道 を表示

これを、明治初期の古地図で検証する。律令の時代の古道を検証するのに明治初期の古地図が十分ではないことは分かっている。が、無いよりはマシだろう。又、地名5,000年と言われるではないか。地名が5,000年ならそれを繋ぐ道も、意外にも古いものが残されているはずだ。

古府中道 明治初期古地図

さて、精度の問題で、ピタッと一致はしてないものの、概ね、合っている。

ここまで来たら、実走だ。冒頭に戻る。

人見街道の真福寺の追分だ。ここに、日蓮宗高栄山真福寺がある。

真福寺

開山は目黒碑文谷の法華寺からきた日栄上人で、後北条氏の家臣、高橋綱種が建てた寺だ。

この高橋綱種は、天文六年(1537年)、扇谷上杉方の難波田弾正が拠る深大寺城に相対する為に牟礼砦を築陣した人物だ。だから、真福寺もこの年代に開山したと思われる。

この少し前、1530年には、世田谷城が、扇谷上杉氏に一度は奪われたという話もある。その直後、1532年頃ということであるが、当時の世田谷城主 吉良頼康は、北条氏綱の娘、崎姫(高源院)と婚姻を結んで、後北条氏と姻戚関係となっていた。

つまり、世田谷城は、この頃既に、実質は後北条氏の城となっており、それを守らんが為に、後北条氏家臣、高橋綱種に牟礼砦を作らせたということになる。

話が横道に逸れた。元に戻そう。真福寺の追分の三角地帯に、古峯神社がある。インターネットで調べたが、云われは分からなかった。

古峯神社

追分を南に分かれ、道なりに進むと、東八道路にぶち当たる。そのT字路を東に行く。もうあとは基本的に一本道だ。自転車の速度も自ずと上がる。一瞬通り過ぎかけたが、久我山病院のすぐ先に、庚申塔などが大切に保存されていた。追分など無いのに何故ここに?と思ったが、保存のされ方を見ても、移設であろう。

久我山病院前 庚申塔等

先に進む。中央高速を潜ると、古道の雰囲気が出てくる。

古道の趣

そのまま行くと、環八の手前に医王寺がある。

医王寺

寺伝によると、承和元年(834年)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を、海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したのが始まりという。

医王寺を過ぎるともう環八だ。環八を南に行き一つ目を東に行く。突き当たりを南に行き、甲州街道を渡り、八幡山の駅のガードを潜り抜け、道なりに進むと、ヨークマートに出る。

さて、実走してみて真っ先に感じたのは、走り易さだ。行きは滝坂道だったわけだが、比較して、全然楽だった。理由は、アップダウンが無いからだ。ずっと、平坦なのである。

地形図で確認してみる。

古府中道 地形図

やはり、ずっと、台地上を行っている。

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走り終えてみて、確信した。滝坂道は、こっちだったのではないだろうか。

つまり、こうだ。

今の滝坂道は、家康が江戸に入府し、甲州街道を整備してから出来た。正に、滝坂を目指す道で、滝坂から甲州街道を経由し、府中も経由して、甲州に向かう道だった。

それ以前の滝坂道は、滝坂道とは言わず、古府中道と呼ばれ、ヨークマートから分岐し、人見街道に至り、武蔵国の国府、府中を目指した。

滝坂道は律令の時代から成立していたというが、それは、ヨークマートまでだったのではないか。滝坂道の核心部分は、ここだったのである。(東はやはり、日比谷湊か品川湊だろう。)

『地形』以外の視点での検証も試みる。

真福寺のいわれを調べてた最中に思いついた。ポイントは、深大寺城の扇谷上杉氏と世田谷城の吉良氏、後北条氏の、関東の覇権争いだ。

大永4年(1524年)1月、北条氏綱は、扇谷上杉氏の居城だった江戸城を奪う。朝興は、反撃を図るため、逃げ先の河越城から頻繁に南武蔵に出撃するようになった。享禄3年(1530年)6月、朝興は深大寺城に陣を敷き後北条氏と相対した。

子 上杉朝定は、江戸城奪還を図るため、天文6年(1537年)4月、難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築、しかし、同年七月、氏綱は深大寺城を迂回して河越城を直接攻め、朝定は松山城に敗走することとなった。その後、天文15年(1546年)、後北条氏と再び河越夜戦で戦い、戦死し、扇谷家は滅亡した。

この地図を見て欲しい。


より大きな地図で 後北条氏の城と古府中道、滝坂道の位置関係 を表示

赤ポイントが深大寺城、黄ポイントが世田谷城だ。深大寺城と世田谷城は、緑線の滝坂道と黒線の深大寺道できれいに真っ直ぐ繋がっている。扇谷上杉が、世田谷城に攻め入る場合、この道を使うのが普通だろう。

一方、紺線が古府中道、青ポイントは、後北条氏の砦や塁、城だ。後北条氏の砦や塁、城は、滝坂道沿いには全く存在せず、古府中道沿いに集中しているのが分かる。滝坂道が、律令の時代から成立し、戦国時代も使われていたなら、扇谷上杉氏の進軍ルートは滝坂道となり、後北条氏は、滝坂道に砦や塁、城を築いたはずだ。それが全く無い。

扇谷上杉氏は、赤線のルートで古府中道に至り、世田谷城に向かうつもりでいた。滝坂道ではない。

やはり、少なくとも、江戸時代までは、ヨークマート以西の滝坂道は無かったのではないだろうか。あったとしても、軍事や物資運搬などの公の目的では使われておらず、『道』としての認識はされていなかったのではないだろうか。