2013年9月11日水曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Summer No.66 "The Sannō Festival Procession at Kōjimachi itchōme"

Painted by Hiroshige in 1856
Photo by myself in 2013

さすがは皇居、当時のまま残ってます。画面右下の岬状の出っ張り、それに続く岸の緩やかな曲線、更に続く岬。

写真の土手、画面奥の芝の色が変わっている部分が半蔵門の土橋です。

さて、ここの名所の所以は山王祭です。山王祭は、城内に入り将軍直々にお見せする天下祭りでした。それが許されていたのは、神田祭と山王祭だけです。

その山王祭の山車が城内に入って行く様を見られるのがここなのです。

さて、山王祭の練り込みルートですが、現在の地図では三宅坂を下りて内堀通りに出ています。安政五年の古地図を見て下さい。三宅坂の辺りに三宅備前の屋敷が確認できます。これが、三宅坂の名の由来です。


より大きな地図で (糀町一丁目山王祭ねり込ルート を表示

安政五年1858年古地図、地図精度の関係でずれてますが雰囲気は分かると思います。
ちょうど、『広重立ち位置』の文字があるところが『三宅備前』の屋敷です。その南の道が三宅坂。

2013年9月9日月曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Summer No.67 "The Benkei Moat from Soto-Sakurada to Kōjimachi"

Painted by Hiroshige in 1856
Photo by myself in 2013
ほぼ、当時の景色を留める数少ない江戸百です。画面右の岬状の出っ張り2つなんかは象徴的ですね。

さて、広重に描かれた美しい赤門は、井伊直弼の屋敷です。今は国会前庭になっています。写真左に塔が見えますが、これは国会前庭北庭にある時計塔です。赤門の手前にある井戸は、江戸の名水、『桜の井』です。これが、名所の根拠となります。今も南庭に残っています。

地図の精度の関係で若干ずれているが

より大きな地図で 外桜田弁慶堀糀町 を表示

この写真、桜田門から国会前に向かい10mぐらいの所からの写真です。井伊、桜田門といえば、桜田門外の変です。この撮影ポイントを過ぎ桜田門の土橋に入った所で水戸藩の攘夷派に殺害されたのでした。

井伊の死後、遺品を整理していたら、洋書が多く見つかったそうです。井伊もこのままでは日本は立ち行かなくなる、開国が必要だと思っていました。その点では全く同じ思いだったんですね。ただ、その方法が違っていた。

Ref. http://yogismessage.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html

2013年9月7日土曜日

Modern Architecture in Japan, Tokyo Station, Marunouchi of Chiyodaward, Tokyo / 近代建築散歩、東京駅

夕日に輝く東京駅
東京駅の開業は、1914年、大正3年でした。

ドーム
日本の鉄道の歴史ですが、1872年、明治5年に新橋 - 横浜間で始まったというのは皆さんご存知の通りです。東京駅の南側ですね。その後、北は上野 - 熊谷間が1883年、明治16年に開通。西は1889年、明治22年に新宿 - 立川間が。1895年、明治28年には飯田町まで東に延長となり開通しました。東は、両国橋駅をターミナルとして1904年、明治37年に開通しています。


煉瓦高架橋、これも明治の遺産


東京駅の周りだけ、ポツンと空いていたんですね。

岩崎弥之助が一丁倫敦に着手したのを三菱一号館だと置くと1894年、明治27年のこととなります。

今の地図を見ると、丸の内の中心は東京駅ですが、それが無いまま、20年もの間、一丁倫敦だけが、ポツンと原っぱにあったということになります。だから、当時は、「三菱ヶ原」と呼ばれていたそうです。

東京駅開通後、東京駅から皇居に向かって西に真っ直ぐ伸びる行幸通り、ここに、大正7年、1918年に、海上ビルディングが竣工しました。続いて郵船ビルディング、日本工業倶楽部会館は大正9年、1920年。丸ビルは大正12年、1923年に竣工し、煉瓦造りの一丁倫敦に対し、アメリカ式鉄筋コンクリートのビル群が並ぶここは一丁紐育と呼ばれました。


このような意匠も残る。

現在の一丁紐育、東京駅より皇居を望む


ここ丸の内地区は再開発が行われ、今や、高層ビルが林立しています。が、よく見ると、百尺でデザインを分割し、嘗ての一丁倫敦、一丁紐育を忘れていないんだよというメッセージを発しています。

皇居より東京駅を望む


丸ビル、新丸ビル、日本工業倶楽部、日本生命丸の内ビルと高さ百尺でデザインが分割され統一的な景観を作り出している。

2013年9月3日火曜日

Modern Architecture in Japan, Mitsubishi Ichigo Kan, Marunouchi of Chiyoda word, Tokyo / 近代建築散歩、三菱一号館、丸の内

復元された一丁倫敦の象徴、三菱一号館

江戸時代は錚々たる顔触れの大名屋敷が並んでいた丸の内。

1858年の丸の内

維新後は、あの、大岡越前で有名な南町奉行所が在った関係からか、司法省が置かれたり、その他、練兵場など陸軍関係の施設が置かれていました。

明治13年、1880年の丸の内
歴史的農業環境閲覧システムより出典
明治21年、1888年、市区改正条例が出され、丸の内は、市街地へ転化されることになりました。陸軍は丸の内を売りに出します。当時の相場の何倍もしたそうですが、三菱創業者、岩崎弥太郎の弟にして二代目岩崎弥之助が買い取ります。造船所視察で英国に滞在中だった弥之助の腹心、荘田平五郎が、『丸の内、買い取らるべし』と電報を打ち、いずれロンドンのシティーのようなビジネス街が必要になると説いたのだそうです。

明治27年、1894年、日清戦争勃発の年、三菱一号館が竣工します。翌年には二号館が現在の明治生命館の場所に、翌々年には三号館が竣工し、馬場先門から鍛冶橋までの通りは、一丁倫敦と呼ばれました。

一丁倫敦、Wikiより

現在。奥の明治生命館が夕日に照らされ。

現在の丸の内、私はとても好きな街です。岩崎弥之助や荘田平五郎も喜んでるんじゃないかな。