2019年8月25日日曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 2, 府中崖線、立川から青梅、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺から府中崖線の道を忠実に辿り、府中崖線の道が甲州道中と重なる、立川公園の辺りまでをexplorerしました。

深大寺にいた高句麗渡来人の集団は、基本、多摩川を遡ったと思われますが、陸路で行った班もいたろうし、陸路の場合は府中崖線を行ったのではないかと推測したのです。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないか、ということでした。

今回はその続き、青梅まで行きます。



□■◇◆□■◇◆□■◇◆□■◇◆□■

立川公園から先の府中崖線の道は、基本、奥多摩街道です。

立川公園から暫くこれと言って立ち寄る所も無く、典型的な崖上からの眺望も無くて、ただひたすらにチャリを漕ぎ、熊川神社に到着です。

熊川神社

熊川神社は、色々な伝承がある神社で、その1つは、いつの時代かは詳らかではないものの、十数日に亘り多摩川で光が発していて、ある日の夕方、老翁が現れ、「我、この所に降臨して長く本土の守護神となり、疾疫及び諸災害を消除すべし」と告げて姿を消し、そこにあった石を大国主命の荒魂として祀ったというもので、何が面白いかというと、その石は、福生市教育委員会の境内掲示によると、宇賀神なんですね。何故、宇賀神を大国主としたのでしょうか?

宇賀神は中世以降、ですから鎌倉以降に日本で展開したので、多摩川で宇賀神像が見つかったのは中世以降ということになりますね。

しかし、この地の人々は、それを宇賀神と認識できず、大国主と認識したわけです。大国主は要するに蛇ですから、その知識はあったということですね。この辺りの人達は出雲系だったのでしょうか???

ご参考まで、これは井の頭弁財天の宇賀神像です。御覧のように、頭は人間、胴体は蛇です。

2つ目は、平安時代初期、この地に住む松原長者が、弁財天を祀ったことに始まるというもの。弁財天なので宇賀神像と繋がりますね。

3つ目は、平安初期、多摩川の砂鉄で産鉄していた部族が、元々は古墳(礼拝(糠)塚)だった所に、鉄の神として蛇 = 宇賀神を祀ったことに始まるというもの。蛇 = 縄文信仰 = アラハバキ = 鉄、という繋がりですね。

総括すると、元は蛇のような感じがします。直ぐ西には多摩川が流れています。川 = 龍 = 蛇ですしね。

川 = 龍 = 蛇だと瀬織津姫、そうなんです、アラハバキなんです。

熊川神社の末社、稲荷社は、熊川神社禰宜によると、アラハバキということなんです。

右の祠(稲荷と山の神の二柱が祭られている)の向かって左が稲荷

出ましたね、アラハバキ。

熊川神社の対岸には二宮神社があります。

二宮神社拝殿

実はここにもアラハバキがあります。

わらじが祭られてますね。祠の向かって右の柱には、"荒波々伎神社"の文字が確認できます。

更に行くと、阿蘇神社があります。

阿蘇神社拝殿

阿蘇神社、南参道。こちらが正参道。多摩川の堤にあります。

しかしこの阿蘇神社も謎です。何故、阿蘇神社がここ羽村に。

祭神は本家阿蘇神社と全く同じです。ですので、たまたま名前が一緒ということではないようです。

しかし、色々調べても、阿蘇から阿蘇神社を勧請したというような記事は見当たりません。

そんな中、見つけたのがこの記事でした。この記事には納得しました。

要約すると、アゾ = 阿須 = 崩崖という言葉があり、字の通り、川が削った崖地のことで、正に、阿蘇神社が鎮座している地もアゾの上だし、対岸もアゾで、対岸の山は阿須山と言われていて、

阿蘇神社から阿須山を望む

アソ神社は始めその山頂に祀られていた。だからアズ神社と言い、後に、アズ = アソ = 阿蘇 神社となったのではないか。

では何故阿須山山頂に祀られていたのか?, 多摩川の氾濫により、崩崖は、その名の通り、崩れていきます。阿須山の山頂に祀ったのは、もうこれ以上、崩崖が崩れないように、つまりは多摩川が暴れないように、と、いう内容でした。

つまりここも、川 = 龍 = 蛇 = 瀬織津姫 = アラハバキなんでしょうか。。。

□■◇◆□■◇◆□■◇◆□■◇◆□■

今回、深大寺・狛江エリアの高句麗渡来人たちが、多摩川を遡って高麗郡に向かった、陸路班もいて、彼らは府中崖線を行ったという仮説でexplorerしていく中で、熊川神社、二宮神社、阿蘇神社と、アラハバキが続きました。

大磯の高句麗渡来人たちが高麗郡に行ったルートには小野神社もありました。

が、高句麗渡来人との関連はどうなんでしょうか???

次回は拝島から高麗郡に向かうルートか、青梅から山越えで飯能に行くルートを行こうと思います。

2019年8月17日土曜日

大磯、渡来の道

このシリーズの前々回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリア同様、高句麗渡来の伝承が残る、"始まりの地", 大磯をexplorerします。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

--------------------

続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓(かばね、と読む)を与えたとあります。

660年に百済が滅亡しますが、この時、百済と倭国は同盟を結んでおり、王子である善光は日本にいました。やはり、帰るに帰れなくなり、そのまま日本に土着します。その際、王の姓を与えられ、百済王氏と名乗っています。

このことから、高麗若光(高麗王氏)も高句麗の王子だったと思われ、玄武若光が王子であったことから、やはり、同一人物だったのではないか、と、想定されています。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

--------------------

が、ここまで、高麗若光と大磯を結び付けるものは何もありません。

が、武蔵国高麗郡の高麗若光を祭る高麗神社によると、

「若光の故郷を去って我が国に投下するや、一路東海を指し、遠江灘より東して伊豆の海を過ぎり、相模湾に入って大磯に上陸した。」

とあります。また、大磯の高来神社奉納御船祭(7月)の祝歌は、

「そもそも高麗大明神の由来を尋ぬれば、応神天皇15代の御時(270〜312年)に海騒がしく、浦の者共怪しみて、はるかの沖を見てあれば、唐船一隻八ツの帆を揚げ、大磯の方へ舵を取る、走り寄るよと見る内に、程なく水際に船はつき、浦の漁船、漕ぎよして、かの船の中よりも、翁一人立ち出て、櫓に上がりて声をあげ、汝ら其れにて、良く聞けよ、我は日本の者にあらん、もろこしの高麗国の守護なるが、邪慳な国を逃れて大日本に心掛け、汝らきえする者なれば、大磯浦の守護となり子孫繁昌守るべし、あら有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗りうつり、揚がらせ給ふ、御世よりも、明神様(権現様)を乗せ奉る船なれば、明神丸(権現丸)とは此れを言うなり」

と、言う内容で、時代は大きく異なりますが、高麗神社の伝承に重なります。

と、いうことで、ここまでの話を統合し、高麗若光は、666〜668年、あるいは703年の後辺りに、直接か、ヤマト経由か分かりませんが、兎にも角にも、大磯に来て、土着し、716年には、現在の埼玉県日高市、当時の武蔵国高麗郡に、高句麗人の集団を引き連れて移住した、というストーリーが生まれています。

西から来たことを考えると、深大寺は大磯を経由したと考えられます。

よって、"始まりの地"なんです。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

平塚まで輪行。近代の東海道で大磯に。

高来神社です。

高来神社と高麗山
高来神社拝殿、元高麗寺の観音堂と高麗山
お隣の慶覚院の本堂、元高麗寺の地蔵堂と高麗山

その縁起(関連を含む)を改めて時系列で整理しました。
  • 神武天皇の時代(BC660〜BC582)の創建とする記録がある。
  • 垂仁天皇の時代(BC29~70)に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とした。
  • 神功皇后(170~269, あるいは290〜389)が三韓を征伐した時に神霊が御出現して勝利に導いた。因って武内宿禰は奏して東夷静謐の為に、神皇産霊尊(高麗大神和光)を当山の韓館の御宮に遷し奉った。これが高麗権現社の起源(以上、3項は高来神社境内案内板より)
  • 『箱根山縁起』には、「神功皇后三韓を討ち、後に武内大臣奏して云ふ、異朝の大神を請い奉り、令して天下長く安寧なることを祈願す。即ち百済明神を日州に奉遷し、新羅明神を江州に奉遷し、高麗大神和光を当州大磯に奉遷し、聳峰に因りて、高麗寺と名づく」とある。
  • 大磯の御船祭の祝歌(上記)での出来事、高句麗から守護が大磯に辿り着く伝承は応神天皇の時代(270〜312)
  • 安閑天皇の時代(532~535)に応神天皇と神功皇后が合祀された。(高来神社境内案内板より)
  • 668年、高句麗滅亡、若光高句麗へ帰れなくなる
  • 703年、若光従五位下官位、王姓賜わる
  • 716年、若光武蔵国高麗郡へ
  • 717年、行基僧正が巡国折にお祀りしてある千手観音を高麗権現の本地佛とお定めになり高麗寺を開山
  • 855年、円仁により本社の左峰に毘沙門塔を右峰に白山社を建立
  • その後、江戸期には東照宮となり、明治の廃仏毀釈で高麗神社となって、明治30年に高来神社となった。(以上、3項は高来神社境内案内板より)
と、スーパースター揃い踏みのもの凄い縁起です。

加えて、確かに、高麗若光ら高句麗人が大磯に来て、土着したことは間違い無さそうで、だからこの地は"高麗"であり、高麗の地にあるから高麗神社だったのでしょうが、高来神社そのものには、高麗若光は、関係していません。高麗若光が大磯に来るよりずっと前から存在し、祭神は高麗若光ではありません。

また、こうして時系列で改めて見てみると、高来神社奉納御船祭祝唄は、むしろ、神功皇后の凱旋を歌っているようにも思えます。

安閑天皇の時代(532〜535)に応神天皇と神功皇后が祭神に追加されるまではむしろ、渡来色は無く神功皇后三韓征伐伝承が主で、その後、668年の高句麗滅亡に伴い、高句麗人の集団が大磯に来たことで、祝唄の主人公がすり替わったようにも思えます。

また、これが大いなる疑問なんですが、何故、大磯だったのでしょうか?

"東夷静謐の為"との記述がありますが、に、しても、何故、大磯だったのか。

高麗山に登ります。

大堂跡に残る祠、傍らの石は積み石が崩れたものか?

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

高麗若光を含む高句麗人の集団は、716年、大磯から武蔵国高麗郡に移住しました。

その時のルートですが、大きく2つあるようです。

1つは、実は、高来神社と武蔵国高麗郡の高麗神社は、キッカリ、南北の位置関係となりますが、この南北ラインに沿って行くルートです。

花水川を遡り、花水川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。津古久峠を越え相模川へ。相模川を遡り、相模川が大きく西に曲がる所でそのまま北へ。杉山峠・七国峠を越え多摩川へ。多摩川は遡らず、高麗峠を越え高麗郡へと行くルート。

もう1つは、相模川が大きく西へ向きを変えるまでは同じで、そこから府中に向かい、府中からは多摩川を遡り青梅に至り、青梅から山を越えて飯能に至るルートです。

尚、深大寺へは海上ルートで行ったものと思われます。



今回はこのルートを相模国愛甲郡玉川郷まで行きます。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

花水川を遡ります。

この道は大山に向かう道でもあったのです。
白髭神社跡

ここに嘗て白髭神社がありました。

この少し手前、鈴川と名前を変えた花水川が大きく西へ向きを変える辺りまで、高句麗人の集団が高麗郡に移住した700年頃は、入江でした。この白髭神社は、その入江に面する位置にあったのです。高麗郡への道中にあり、入江に面していて、白髭神社であることを考えると、これもこのエリアの高句麗遺跡の可能性があります。

さて、道は、伊勢原駅を過ぎ、八王子大山道と重なり、津古久峠を越え、相模国愛甲郡玉川郷に至ります。

土道が残る津古久峠

ここには、延喜式神名帳に載る小野神社があります。

小野神社

この神社は実に興味深い神社です。

まず、名前も、祭神も、全く同じ神社が3つもある内の1つであるということです。

府中市の小野神社、多摩市の小野神社、そしてここ厚木市の小野神社です。

祭神は、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神です。

小野路道の時にも考察しましたが、多摩市と府中市の小野神社は、例えば、元は1つの神社で、多摩川氾濫によって分かれた、というように、強い関係があると考えるのが合理的と思われます。

が、厚木市は何なんでしょうか?

厚木市の小野神社ですが、鎌倉時代には、愛甲三郎季隆が当社を篤く信仰していて、古い納札には建久5年(1194年)に当社を再興した記録があります。

この愛甲季隆、元は横山季隆で、横山氏の相模国進出に伴い横山氏の根拠地、武蔵国横山庄から相模国愛甲郡玉川郷に来ています。

その武蔵国横山庄には、既述の2つの小野神社があります。厚木市の小野神社は、愛甲季隆が、愛甲郡に来た際、地元横山庄から持ってきたのかもしれません。

もう1つの伝承に、霊亀2年(716年), 行基が薬師如来の像を刻んで当社に奉安したということがありますが、小野神社の西に日向薬師があり、日向薬師の開山伝承と似ています。これは恐らく、日向薬師の開山伝承と混ざってしまったのかもしれません。つまり、厚木市の小野神社は716年には創建されていなかったと。

そうなると、上記の愛甲季隆が勧請したという説の確度が上がりますが、一方で、厚木市の小野神社は延喜式神名帳に、「相模国十三座の内愛甲郡一座小野神社」と記されているんです。と、いうことは、927年の時点で既にここにあったと言うことになります。

でも、そうなると、厚木市の小野神社、多摩市の小野神社、府中市の小野神社、これら全て、たまたま、祭神が、天下春命、瀬織津姫(アラハバキ), 春日大神と同じで、たまたま、名前も同じで、しかし、別の所に出来たということになり、そんな偶然があるのだろうか、と、思ってしまいます。

あるいは、別の祭神が祭られていた小野神社があり、愛甲季隆がこの地に来た時に祭神を追加し、いつのまにか主祭神となった、ということでしょうか。

そうなると、第六天、稲荷、淡島、金毘羅、山王の内のどれか、ということになります。

それと、これは厚木市だけではないですが、やっぱりアラハバキですね。

アラハバキ神

色々と謎があって面白いです。

アラハバキと言えば、伊勢原駅の手前に三福寺があり、その山門前に子の権現があります。

三福寺の子の権現

境内の説明によれば、子の聖はここ伊勢原に滞在していたようです。その後、飯能の天龍寺を開きます。

子の権現境内の説明

伊勢原と飯能(高麗郡)がアラハバキで繋がった?, のでしょうか。

さて、小野神社から日向薬師に向かいます。

日向薬師への道すがら、切り通し
日向薬師への道すがら、この道は大山へ向かう道

日向薬師に到着です。

参道
日向薬師

(日向神社 = 白髭神社の写真撮り忘れ!これを撮りに行ったと言っても過言ではないのに!)

日向薬師と日向神社には、以下のような伝承があります。

716年、行基が薬師を彫ろうと良い木材を探していた所、高麗若光が良い木材を提供してくれて、無事、薬師如来を彫ることが出来たという内容です。その高麗若光を祭ったのが日向神社となります。

この伝承が本当なら、と言うか、この伝承もあったから、他のご紹介済の伝承と合わさって、高麗若光大磯上陸・高麗郡移住の伝承となったものと想定します。

既述しましたが、高来神社と高麗神社の位置関係はキッチリ南北なんです。

この、"真北"というのは北極星を目印に進んだ、つまり、妙見信仰ということです。

妙見信仰とは、まだ人々が農耕を中心とした社会に入る前、狩猟中心だった時代、日本で言えば弥生に入る前の縄文の時代、全く位置が変わらない北極星は、移動の際の生死を左右する大事な道標だったのですが、それが元となり、やがて北極星が神格化したもので、日本には6世紀頃に入ってきたと言われています。

しかも、"玄武"若光です。

"玄武"とは、中国の四神(青竜、朱雀、白虎、玄武)の1つで、北方の守護神、北極星の象徴です。つまり、若光は、北極星になったのです。

GOT的に言えば、"北の王"でしょうか。

祖国を滅ぼされ、故郷を失った、"北の王", 高麗"玄武"若光率いる高句麗人の集団は、妙見信仰の下、北極星を道標に、北へ、北へ向かっていき、新天地高麗郡を目指したのです。。。

どうですか、ロマンチックなストーリーになりますよね。人はロマンチックを求めます。こうして、高麗若光伝承は、生まれたんだと思います。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

最後に、記事中では、"海上ルート"と、軽く触れただけでしたが、大磯と深大寺(狛江)の関係を見てみます。

大磯の曽我物語と深大寺縁起の共通点を上げてみますと、
  1. 曽我十郎の妾の名は虎御前、温井長者右近の妻の名は虎
  2. 虎御前の母の名は満江御前、深大寺開創は満功上人
  3. 虎御前は山下長者の娘、満功の祖父は温井右近長者
  4. 山下長者が池の中の島にある弁天様に祈願して虎御前が生まれ、虎は十郎の無事をこの弁天様に祈願した。満功上人の父、福満は、池の中の島に隠されていた温井長者右近の娘に会う為に、深沙大王に祈願し、成就後、深大寺を開山し、後に中の島に亀島弁天を祀った。
と、名前と役割は入れ替わってますが、共通点が多いです。

もう1つ。
  1. 多摩川を遡る方向で言えば深大寺(狛江)の手前、世田谷区大蔵の吉祥院は、行基開基、良弁開山で、渡来人の秦氏某が糧材を喜捨して堂宇を建立したという伝承がある。
  2. 日向薬師の伝承は、上記の通り、行基が薬師を彫ろうとし良材を探していたら渡来人の高麗若光が提供してくれた。日向薬師の奥は大山寺で良弁開山。
と、非常によく似ています。

と、いうことで、大磯と深大寺(狛江)の間には、人の流れを感じさせます。やはり、大磯から深大寺(狛江)へ海上ルートで高句麗人の移動があったのだと推定します。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

今回、大いに参考にさせていただいたサイトは以下の通りです。

2019年8月10日土曜日

深大寺から奥多摩・青梅へ 1, 府中崖線、深大寺から立川、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺をexplorerしました。

深大寺を開いた満功の父福満が渡来人で、福満の妻であり満功の母(名無し)の父温井右近長者は高句麗の渡来人だった、このエリアを狛江 = 高麗江という、というストーリーでした。

今回は、その深大寺(狛江)エリアから高麗郡へ向かう道をexplorerします。

尚、一言で、"渡来"と言っても色々ですが、このシリーズでは、高句麗(高麗)を追いかけてみたいと思ってます。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

日本書紀によると、666年、玄武若光を含む高句麗からの使節団が倭国を訪れます。

668年、高句麗は、唐・新羅連合軍に滅亡させられました。玄武若光らは、まだ日本にいたなら、帰るに帰れなくなってしまったということになります。

続日本紀によると、703年、高麗若光に、従五位下の官位(貴族)と王(こしき、と読む)の姓を与えたとあります。

716年、武蔵国に、東海道7ヶ国から、高句麗人1799人を移住させ、高麗郡を設置しましたが、高麗若光もその中の一人だった、、、というよりも、リーダー(郡司)だったと言われています。

玄武若光と高麗若光が同一人物であるとの記録は無いのですが、流れからすると同一人物である可能性が高いと言われています。

仮に、同一人物ではなかったとしても、兎にも角にも、高麗若光という高句麗人が、貴族となり、王(こしき)の姓を与えられ、その後、高麗郡の郡司として高句麗人を率い、高麗郡を開発したというのは間違い無さそうです。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

前回シミュレーションしたように、深大寺エリアに高句麗人が来たのは650年くらいだったと思われます。

ですので、716年の高麗郡設置、高句麗人の移住に際しては、深大寺エリアの高句麗人たちも、高麗郡に移住したのではないかと思われます。

その時のルートはどうだったのか。

結論から先に言えば、2説あるんですが、共通しているのは多摩川ですね。多摩川を青梅まで遡り、山を越えて飯能に出るルートと、拝島から真北に飯能に行くルートです。



チャリでは多摩川は遡れないのと、陸路を行ったグループもあったのではないかとも思うので、陸路だとどこかと考えると、その場合は、まだ律令前なので、官道があるわけでもなく、生活道を辿ったのだと思います。当時の生活道とは、府中崖線なのではないかと思います。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

国分寺崖線と府中崖線。今回は府中崖線の崖上を行く。
分かりづらいのでルート線をカット。北の段差が国分寺崖線、南が府中崖線。

崖上は見晴らしも効いてriskを早く察知できるし、崖下に下りれば水が確保できる。だから縄文の時代から生活の場で、縄文・弥生遺跡、古墳、寺社が多く見られます。

そういった生活の場を繋ぎ自然発生的に発展していったのが、今回の陸路だったのではないかと思います。

と、いうことで迅速測図の地形と明治初期の古道を見ながら引いた線が紫線と黒線になります。

今日はここを行きます。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

深大寺エリアのスタート地点は、祇園寺としました。

祇園寺

地図を見てください。

前回も言いましたが、深大寺エリアから真っ直ぐに多摩川に向かう道があります。宮田太郎氏曰く、これは、多摩川を遡ってきた高句麗人たちが使った、深沙大王堂の参道ではないかとのことです。では船着き場は。それこそが、布田天神だったのではないかということです。

古天神公園、嘗ての布田天神。そこから多摩川方面の眺望。ここは府中崖線の崖上、崖下まで多摩川が来ていたのか。

ここから出来る限り崖上を、時には崖下を行き、宅地化されたところは住宅地を迂回し進んでいきます。

ここは崖上エッジをトレースしていることが良く分かる所です。
幅一間の道も残ります。

で、到着したのが瀧神社です。

崖上の鳥居越しの霊峰富士山と大山
府中崖線から湧水が今でも

この瀧神社、創建は詳らかならずも、この瀧(水)が元々のご神体であったことは想像に難くない。と、なると、相当昔に、下手すれば縄文の時代にも遡れると思い、寄った次第です。

しかしこの瀧神社、何故、御祭神が賀茂なんでしょう?, どなたかご存知の方、教えてください。

道はやがて大國魂神社に辿り着きますが、今回は趣旨ではないのでスルー。次の立ち寄り値はその先の高倉塚古墳です。

高倉塚古墳
墳丘から南の眺め。眺望がきいていて、府中崖線に乗っていることが分かります。

次に訪れたのは谷保天満宮です。

谷保天満宮、崖下にあります。
湧水、かなりの透明度でした。

何故ここに立ち寄ったかと言えば、湧水です。崖線の象徴ですので。加えて、涼を求めて。

この後、崖上の道は根川貝殻板橋まで続き、その後、甲州道中に吸収されます。その後は奥多摩街道に名を変え、青梅まで続きますが、今回はここまで。

ママ下湧水公園の湧水、癒されました。