2020年3月25日水曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート2

前回の続き

現代の地図です。



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【宇奈根村】

村道で宇奈根村に入っていきます。


上図迅速測図を見ていただいてお分かりの通り、ここ宇奈根村は、等々力村や下野毛村と同様に、多摩郡と橘樹郡の郡境が川崎市側に食い込んでるエリアなので、等々力、下野毛と同じく、その後の多摩川の北への流路変更によって、世田谷区側と川崎市側とに分断されました。

と、言うことで、宇奈根と言えば氷川神社ですが、川崎市側にも宇奈根神社があります。下野毛の宇佐神社もそうでしたが、悲哀がありますね。分祀された側は。


こちらは世田谷区側の氷川神社です。立派です。さすがは本家。


そしてここ宇奈根も下野毛と同じく、宇奈根の渡しの真っ正面に、氷川神社が見えました。分断された側の村民の悲哀が感じられます。

正面の3階建てビルの左に松並木がありますがそれが氷川神社です。真っ正面です。分断された村民の思いが伝わります。

【堰村】

堰村は、非常に面白い謂れがあります。開墾は1594年、秀吉の小田原攻めが終わり、徳川の江戸統治が始まったころですね。その頃に、新座郡上保谷村、今の西東京市から移り住んだ6家によって行われたと伝わってるんです。その内の保谷家が、代々村名主を務めたそうです。

諏訪河原村は諏訪氏、二子村は小山田氏が、秀吉の小田原攻めの後、暴れ多摩川が故に荒れ地のまま放置されていた多摩川べりに入植しましたが、ここ堰村には保谷から住民が移り住んできたんですね。

そんな堰村にはとても素晴らしい歴史がある龍源寺があります。


風土記によれば、深大寺の末で、開山開基は伝えを失へり、と、言うことですが、ここがスゴイのは、寺宝の大黒天像で、伝教大師最澄の彫刻なり、ということです。また、聖観音は慈覺大師円仁の作ということで、仏教界天台宗のスーパースター2人の作となる仏像があるということです。スゴイですネ!

龍厳寺から南武線の線路を越えて西隣の宿河原村に行くんですが、その途中に畑で採れた野菜の無人販売をお屋敷の軒先でやられていたんですが、表札を見ると、"保谷"とありました。秀吉の小田原攻めの後、保谷から移住してこられた6家の1つで代々名主を務めてこられた保谷家であると思います。

南武線を渡ったら右折なんですが、線路沿いにひっそりと佇んでいたのがこのお地蔵さんです。村境ですかね、堰村と宿河原村の。


【宿河原村】

宿河原とは宿があった河原かと思いきや、この辺りには宿があった形跡は無いそうです。

"宿"は、"夙"であろうとされ、その根拠は、吉川英治の私本太平記ファンならお馴染みの吉田兼好は徒然草にあるそうです。勝手にリンクですがhttps://roudokus.com/tsurezure/115.htmlをご覧下さい。

徒然草 第百十五段は宿河原が舞台なんですね。そこで書かれている宿河原は、当時"ぼろぼろ"と呼ばれていた河原に住み念仏を唱える渡世人達が多く住んでいました。この、"ぼろぼろ"が、"夙"です。所謂、"河原者"ですね。これは多摩川に限ったことではなく広く河原なら共通ですが、多摩川のように暴れ川だと尚、河原は荒れ地のままとなり、河原者が住み着き易かったと推定されます。これも、人々が多摩川ととどう付き合ってきたのかの一端だと思います。

宿河原の徒然草の碑

さて、迅速測図を見れば分かる通り、宿河原は二ヶ領用水の南側に展開している村です。今でこそ、駅は二ヶ領用水の北側、つまり多摩川側にありますが。


この二ヶ領用水の多摩川側は、迅速測図を見ると一部畑もありますが、基本、荒れ地ですね。

また、二ヶ領用水の流れが、この湾曲具合といい、人工的に掘ったとは思えない自然な感じだし、嘗ての多摩川の流路だったものを活用して二ヶ領用水を作ったと考えられませんか?

と、なると、荒れ地であること、故に宿河原村はその外側に展開していること、が、合点がいきます。ここまでは多摩川が乗り上げなかったんですね。

と、言うことで、なのか、庚申塔などが良く残っています。以下、東から順番に一気にご紹介します。


桜を撮ろうとして無理な構図となってしまいました、稲荷社です。

その稲荷社にある塞ノ神です。伝統的な男根と丸石ですね。"夙"河原っぽいです。





また、迅速測図をよくご覧いただくと、宿河原村は、等々力や宇奈根と同様に、世田谷区と川崎市に分断されてるんですが、中心部は川崎側にあるんです。だから、悲哀があるのは世田谷区側。その象徴がこの宿河原稲荷神社です。

この写真に写ってる範囲ぐらいが取り残された宿河原。下野毛や宇奈根よりも考えようによってはもっと悲哀です。もう地名は残っていませんから。

【登戸村】

登戸は津久井道の宿場なんですが、今回はそのご紹介ではないので登戸稲荷神社に飛びます。


それにしても、彫刻と漆喰が見事ですが、ここ登戸稲荷神社は、諏訪河原村の諏訪氏、二子村野小山田氏、堰村の保谷氏を始めとした6家と同様、秀吉の小田原攻めの後に、武田氏家臣の小荷駄奉行、吉沢兵庫が帰農し創建しました。

【中野島村、布田】

中野島村はその名の通り、多摩川の中洲だったようです。

迅速測図を見ると、宿河原同様に二ヶ領用水が自然な流れで多摩川の旧流路であることを示唆しています。中野島村はその内側ですから、島だったんだと思います。


ここ中野島も宿河原に似て、石塔群が多く残っています。中野島の中心、御本尊の観音像は滋覚大師円仁作と伝わる観音寺と合わせ、東から順番に一気にご紹介です。

村道から観音寺に向かう道の辻に立つ薬師さん

途中にある地蔵

観音寺




最後に布田ですが、迅速測図を見てお分かりの通り、等々力や下野毛、宇奈根のように分断され、且つ、主力は東京都側です。

江戸時代には一軒だけ、川崎市側に取り残されたそうで、迅速測図を見ると確かにポツンと一軒屋があります。

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如何でしたでしょうか。

本日の主役、多摩川です。昨年の台風の傷がまだ癒えませんね。でも水はようやく透明度が戻ってきましたかな。


少し盛り沢山過ぎましたかね?!

辛抱してご覧下さりありがとうございました。

多摩川の暴れっぷりと、それ故に分断された村々がありました。分断された側の本村への思いが渡し場に表れ、分祀神社には悲哀が表れてましたね。また、暴れ川が故に荒れ地として長らく放置され、鎌倉時代には河原者が集まり、秀吉の小田原攻めの後、つまり、戦乱の世が終わった後には、帰農した武士達が開墾に入植したのが、この地でした。その痕跡がよく分かるexploreでした。

ここは本当に東京近郊にも関わらず田舎風情が残っていて雰囲気が良かったです。ご紹介しませんでしたが、昔からの屋敷も多く、カバーはされてましたが茅葺屋根も幾つも確認出来ましたし。

距離的にもポタリングにはもってこいと思います。

皆様も是非

2020年3月23日月曜日

川崎市中原区・高津区・多摩区の、府中道から多摩川側、暴れ多摩川流路変更の痕跡と江戸期の村々を繋ぐ村道巡り。パート1

前々から行きたいと思ってたんですが、近いが故に何となく後回しになってしまっていて、行けずにいました。

迅速測図(明治13~19年、1880~1886)を見ると、多摩川の川崎側、駅で言うとJR南武線の武蔵小杉から稲田堤までの間の、府中道から多摩川側のエリア、ここは、村々を繋ぐ村道が割とキレイに残ってるんです。

以前、百合ヶ丘の義経道を行った時、帰りにここ(の一部ですが)を通ったことがあって、庚申塔が多く、古道の空気感が残っていて、帰宅後、迅速測図を見てみたら割と村道が残っていたので、いつか行こうと思っていたのです。


前日に雨が降ったので、横浜の里山トレイルに行こうと思ってたのを、近所でごまかした感もあったんですが、事前机上exploreと実走を通じて、この地は、東京近郊にも関わらず街中に古道が残っているというだけでなく、多摩川の流路変更、暴れっぷりがよく分かるし、人々がそれにどう付き合ってきたかも見えてくる、意外にも、非常に興味深いexploreとなりました。

まずは全体感を掴んで頂きたいと思います。現代の地図をご覧下さい。


緑の線がありますよね。非常にクネクネした蛇行した線、これが、迅速測図当時の行政界で、どの行政かというと、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境です。

この辺りの今の東京都と神奈川県の県境は多摩川ですね。このことからも分かる通り、行政界というのは、川か海か山の尾根なんです。

現代地図の緑線、非常にクネクネした蛇行した線が武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡の郡境だということは、武蔵国の荏原郡、橘樹郡、多摩郡が成立した時ですから律令の時代、今から1300年程前には、多摩川がこのように蛇行して流れていたということになります。

(迅速測図の時代には既に多摩川流路は変わっていますが、行政界は、行政界設定時と変わっていなかったんですね。)

スゴくないですか?!, この蛇行っぷり、暴れっぷりは。多摩川が洪水によって流路変更していることは知ってましたが、いやぁ、ここまでスゴイとは思ってませんでした。

川は土砂を運び堆積しやがて自然堤防となります。土手が出来上がるわけですね。

迅速測図にはその土手道が、つまり律令の時代の多摩川流路痕跡が、クッキリと描かれています。

また、流路変更によって、以下の様に、人々の生活が変化させられてきたこともよく分かりました。
  • いつまた洪水で流されるか分からない為、入植、開梱されず、荒れ地として残っていたことに目を付け、秀吉の小田原攻めの後、帰農した武士達がこの地に入ってきた。
  • 元は地続きで1つの村だったのが、多摩川によって分断され、最終的には世田谷区と川崎市に別れてしまっている。
と、言うことで今回は、多摩川流路変更の痕跡と、それにどう人々が付き合ってきたかの痕跡をご紹介したいと思います。

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【等々力村】

武蔵小杉側からアプローチ、大田区側から丸子橋を渡って、戻るようにして土手道に出ます。

迅速測図、等々力村

迅速測図で、U字形のモヤモヤっとした線が土手道です。等々力村にある土手道にマーカーを入れています。現代地図をご覧頂くと、今でもそのまま残っているのが分かりますね(現代地図では濃いオレンジ色の線[一見、茶色に見えるかも]が土手道です。)。

実走してみるとこの通り。

土手上から土手下を撮影、土手の内側が結構低いことが実感出来、川だったことがよく分かります。

このU字の中は"等々力"緑地です。

等々力は世田谷区にもある地名ですね。郡成立時は地続きの一つの村でした。土手道の直ぐ内側に、土手道に沿って強目の点線がありますが、これが武蔵国荏原郡と橘樹郡の郡境で、郡境が土手道に沿っていたことが分かります。ですからここまでが荏原郡等々力村。目線を上に持って行くと、"等等力村"と、縦書きされているのが確認出来ると思います。

【宮内村】

等々力村の西隣は嘗ての宮内村です。

村入口に立つ庚申塔、清掃は行き届いていて、花も新鮮で、とてもよく管理されています。気持ちが良いですね。

ここ宮内村の歴史は古いです。

春日山医王院常楽寺は、真言宗智山派で、縁起によると、奈良時代、聖武天皇の御願所として、あの、行基によって開基されたとのことです。

常照寺の薬師堂

敷地内にある春日神社は、創建時期詳らかならず、ですが、1171年の稲毛荘検注目録によれば、荘内に春日新宮と呼ばれていた神社があったことが分かっており、当社であると推定されています。稲毛荘の荘園領主は藤原北家流九条家ですから、稲毛荘成立時、藤原家の氏神である春日神社を分祀したものと考えられます。九条家の祖、九条兼実は1149~1207ですから、上記目録とも時代が合いますね。


社殿の裏には古墳の石棺もあったということで、古墳時代にまで遡れる、古い地区です。

迅速測図の土手道を見ても、暴れ多摩川も宮内村には乗り上げていないようですし、少し標高が高かったのでしょうか。

【下野毛村】

宮内村の西隣は下野毛村です。

迅速測図、下野毛村

迅速測図を見ると、土手道はここも等々力村同様Uの字。Uの字の左側は真っ直ぐに多摩川に向かわずやや西に流れて府中道と重なってはいますが。が、しかし、やはり、郡境点線はしっかりと多摩川を越え世田谷区側に突き抜けており、やはりやはり、嘗ての多摩川流路は、国分寺崖線まで達していたことが分かります。国分寺崖線沿いに流れているのは六郷用水ですが、六郷用水は、嘗ての多摩川の流路を上手く活用しているということが分かりますね。

宮内村から下野毛村に入る直前、八大龍王弁財天がありました。


説明板によると、この付近の沼の辺りにあったものをここに移設したとのこと。迅速測図を見てみると、確かに沼があります。この沼は嘗ての多摩川流路の名残ですね、土手道に沿っている点からしても。

ほぼ中央の緑の点が撮影地。明治13~19年には確かに2つの沼があったことが分かる。

土手道と村境の状況からお分かりの通り、ここ下野毛も等々力同様、嘗ては川崎側に大きく寄って流れていた多摩川が、その後、北に流路を変えたことによって、世田谷区と川崎市に分断された村だということが分かります。

ということもあって、ここには、川崎市に取り残された?!下野毛宇佐神社があります。


この下野毛宇佐神社、野毛が多摩川で分断された後、川崎市側の住民が、氏神様を分祀し創建されたとのことです。

元の神社はどこかというと、2説あるんじゃないかと思ってまして、1つが同じ野毛村の六所神社です。ここは、六所神社という名前ですが、明治に村内の八幡様が合祀されてます。もう1つが尾山村の宇佐神社です。村は違いますが、名前が同じ宇佐だからです。

でも私は六所神社なんじゃないかと思ってます。下野毛の古い家は野毛の善養寺の檀家だそうです。六所神社は善養寺の隣で善養寺が六所神社の別当ですから。

六所神社、世田谷区側にある

村内を行く村道は、下野毛宇佐神社を経由して下野毛の渡しに続いています。下野毛宇佐神社が分霊される前までは、祭りの時など、ここから六所神社に行ってたんですね。

やはり実走してみることは重要ですね。野毛の渡しの真っ正面に六所神社があることが分かりました。画面中央のこんもりとした森が六所神社。往時はもっとよく見えたことでしょう。やはり、分祀したのは尾山村宇佐神社ではなく、野毛の六所神社だと思います。

いやぁ、それにしても、渡し場の真正面に六所神社があるというのは象徴的でした。分断された野毛住民の思いがここに表れてますね。切なさが身に沁みました。

さて、村道の逆向きは、西隣の北見方村に続いています。

【北見方村】

北見方村に入って少し行くと府中道との三叉路がありそこに石塔が集められています。

地神もありますね。町田以外では珍しい。

石塔群の先を右に折れると白髭神社があります。


創建は1610年と平凡ですが、白髭神社というのが非常に珍しいですね。江戸川区に住んでた頃はよく見たんですが、世田谷区に引っ越してからは殆ど、というか、初めてですかね、この辺りでは。伊勢猿田彦神社より御分霊を迎えて創建とのことですが、何の縁で伊勢の猿田彦を?!と、思います。伊勢出身の人がこの地に入植してきて、地元の氏神様を持ってきたんですかね?, と、思って北見方の名主を調べましたが名主自体が分からずでした。

また、ここは、1738, 1834, 1835と、多摩川の洪水で流され、再建されています。下野毛村のチャプターで言いましたが、郡境を見ると、かなり、世田谷区側に張り出しているので、この辺りは安泰だったのかなと思ってしまいましたが、やはり、そんなことは無かったんですね。

【諏訪河原村】

北見方村の西隣は諏訪河原村です。

村入口の馬頭観音

ここは空気が締まってましたね。良い空気感でした。恐らくこの諏訪神社の影響だと思います。

神主の方が常駐されているようで、ふと目を合わせた時、深く頭を下げられ、私なんかが偉そうに言えませんが、礼節がしっかりされていると感じました。恐らく、諏訪氏が入植して以来、この村をこのような風土で治めてきたんだと直感的に思いました。

何故この多摩川右岸の地に諏訪かということなんですが、諏訪の人、諏訪頼久が、天正~慶長年間(1573~1615)に勧請したからなんです。但し、この諏訪頼久は寛永の生まれ(1644生~1716没)ですからこの伝承とは齟齬があります。

諏訪氏は小笠原氏、村上氏、木曽氏と並んで信濃四大将の1つとされ、代々信濃一宮諏訪大社上社の大祝を務めてきた信濃の名族です。戦国時代には、後北条氏の家臣になりました。

私は、頼久より前の世代が、秀吉の小田原攻めで君主後北条氏が滅んだ後、多摩川の河原で荒れ地だったこの地に入植したのではないかと思っています。

ここ諏訪河原村は宮内村同様、少し標高が高かったようですね。諏方神社、明王院、小黒家(諏訪氏後裔)といった諏訪河原村の中心部に、諏訪天神塚古墳、諏訪浅間塚古墳といった古墳があるようです。今回は未訪問ですが。

【二子村】

二子村に入ります。

少し外れですがここにも古墳です。

二子塚

二子新地駅の方に向かい、二子神社に寄ります。


因みに、二子というと世田谷区側にも二子玉川がありますね。川崎市側の駅名は二子"新地"で、何やら川崎市側が新しい、つまり元々の二子は世田谷区側だという感じがしますが、、、

迅速測図、二子村

迅速測図を見ると分かる通り、二子村と瀬田村の郡境は二子村側、つまり、今の二子新地側に寄っていて、と、言うことは、二子新地が二子村で、二子玉川は瀬田村であることが分かります。それが証拠に、現代地図を見ると、二子橋の川崎市側の河川敷に、僅かに、瀬田という地名が残ります。

さて、二子神社に戻ります。二子神社は、武田氏家臣で秀吉小田原攻めの際、最後の最後で裏切り、勝頼を自害に追い込み、武田氏滅亡に追いやった小山田氏の創建です。諏訪氏同様、秀吉小田原攻めの後に、荒れ地だったここ多摩川右岸に入植したんですね。

大山街道沿いにある光明寺も同様に小山田氏開山です。


【溝口村】

大山街道を行き溝口村に入りました。

村社溝口神社に寄ります。


ここ溝口神社は、元赤城大明神と呼ばれ御神体は毘沙門天と弁財天です。明治になって、廃仏毀釈の流れで天照大神を祭神としました。毘沙門天も弁財天も仏神ですし、風土記に、宝永5年(1708)に僧修禅院日清が造営したと書かれているからです。

実はこれと全く同じ謂れで、故に、兄弟社とも言われる久地神社が、お隣久地村にあります。


更に、津田山の向こうには赤城神社があります。


1184年創建、当初は第六天として。1193年に、稲毛庄を治めていた稲毛三郎重成が、那須に巻狩に行った際、赤城山の霊夢を見、帰郷後、赤城大明神としました。御祭神は磐筒雄命です。

創建の伝承も確からしいし、御祭神も合ってますから、まずこの神社が創建され、近くの久地と溝口にも赤城神社が出来、その後、荒廃したのか、1708年に、日清によって毘沙門天と弁財天が祀られ、神仏習合の神社になったのではないかと想像を膨らませています。

【久地村】

久地村には江戸中期に築かれた、かすみ堤があります。


諏訪河原村から二子村、そして久地村にかけての土手道は、ほぼ今の土手道と同じです。が、迅速測図を見ると、久地村に直線的で人工的な土手道が確認できます。これがかすみ堤です。

迅速測図、かすみ堤

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長くなりそうなので今回はここで一旦終わりとし次回に続けます。

2020年3月1日日曜日

東京都町田市三輪、神奈川県横浜市青葉区奈良町・奈良

  • 東京都町田市三輪
  • 神奈川県横浜市青葉区奈良町、同県同市同区奈良
この2つの地区に共通しているのは、“三輪”、そしてこちらはそのものズバリですが、“奈良”という、奈良県の地名ですね。

しかも、この2つの地区は隣り合ってるんです。

どういうことなのか?

まさか、奈良から移住してきた人達が住んでいる?

はい、そうなんです。

“町田の民話と伝承”によると、
  • 奈良県桜井市大字三輪にある大神神社(おおみわじんじゃ)の社史には、武蔵国の三輪神社(上下二社)が、大神神社のご祭神、大物主神を勧請す、と記されている。
  • 上下二社とは、上三輪の熊野神社と、下三輪の椙山神社のこと
  • 同じくその社史に、斉藤氏、荻野氏を遣わされて移住させ、三輪の名称がつけられた、と記されている。
という記載があり、また、現在も確認できることとして、町田市三輪の沢山城があった七面山の山主は荻野氏であり、これは私自身も確認しましたが、高蔵寺から椙山神社に向かう古道沿い(七面山上、沢山城北側)には荻野氏の大きな邸宅があります。
    これだけ、三輪には、伝承やそれを裏付けるような事実もあるんですが、何故か、奈良にはこういった話が無いんですが、まぁでも、ともかくも、三輪にはこういう話があり、奈良も隣り合ってるんですね。

    三輪には鶴見川が流れます。

    武蔵国の延喜式古代東海道、浅草の記事で、大和王権勢力が大和川を下って大阪湾に出て、淡路島・四国と紀伊半島の間を抜け、太平洋を東進し、三浦半島を回り込み、東京湾に入って、浅草にあった無数の島々を伝って進出したという話をしました。同様に、品川の記事でも大和王権勢力が品川に進出してきたという話をしましたが、三浦半島を回り込み、本牧岬を過ぎて直ぐの所で口を開けている、鶴見川を遡る勢力もいたのではないか、と、想像するわけです。

    ということで今回は、里山癒やししつつ、この2つの地区で、大和王権の足跡を探ってみたいと思います。

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    津久井道から藤の木の交差点を南下、二股は左に行き、鶴見川を渡ります。

    実はこの辺りは何度も来ているのですが、最近ではこの里山癒しシリーズで来ていますが、武相国境シリーズでも来ています。

    その武相国境シリーズのテーマは、“産鉄”。“藤の木”の“藤”は産鉄地名です。今回も産鉄がキーワードになるかもしれません。

    さぁ、鶴見川を渡ったら上りです。コースは高蔵寺を左折するんですが、少し先まで行って熊野神社に寄ります。


    町田市史によると、プロローグで既述の通り、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。

    しかしその時は三輪神社として創建しています。何故、いつ、熊野になったのでしょうか?

    確かに、この辺りは熊野が濃いエリアです。

    鶴川駅前の香山園は熊野の出の神蔵家屋敷ですし、“柿生文化”によると、嘗て川崎市麻生区には、上麻生に2社、その他、片平・古沢・万福寺・高石などに8社の熊野神社があったそうです。その内の一社は麻生の大ヶ谷戸の鈴木一族の鎮守で、現柿生駅前のサープラス柿生にありました。そしてこの辺りには鈴木家が多く、その家紋は皆、熊野藤白神社の「下り藤(上り藤)」で、紀州の一族であることが分かります。また、町田市能ヶ谷の郷土史には、鎌倉時代に、紀州から鈴木、神蔵、夏目の氏族が来住し、この地に熊野神社を勧進したとあるそうです。

    ですから創建当初は大物主を祀った三輪神社だったのが、鎌倉時代の紀州熊野勢の進出により、熊野神社になっていったのではないか、と、想像しています。大和王権勢力の後は、熊野勢の進出もあったんですね。

    ルートに戻る前にもう一つ寄り道し、沢山城に登城します。

    七面大明神、少し見辛いですが、鳥居の奥の山頂に社があります。
    私は城関係はマニアではないのですが、これは堀跡と左の平らな所は郭なのだと思います。こういった城跡が比較的良く残っていると思います。

    風土記によると、“荻野与兵衛が先祖の居跡に造りし”とあります。プロローグの町田の民話と伝承を補強する資料ですね。

    ルートに戻り、高蔵寺です。

    この日は辻々で道案内のガードマンが出るなど何か物々しい雰囲気。高蔵寺で斎藤家のお葬式でした。斎藤家と言えばプロローグに既述のように大和国三輪から遣わされた一族の1つ。だからだったんですね。

    真言宗豊山派、1362年、足利将軍家祈願所として開山したとのことです。

    何故足利氏か?

    調べてみると、東隣の武蔵国麻生郷は足利尊氏の所領だったようで、その当時の麻生郷の範囲は不明ですが、後北条氏の時代は三輪も含んでいたことから、時代的にも合いますので、やはり、足利将軍家が所領地に祈願所として開いたということなのだと思います。

    また、この辺りの地名は“桜田”といい、産鉄地名です。

    先に進みます。

    高蔵寺から上り、荻野氏の大邸宅を過ぎると下りになりますが、その途中に白坂横穴古墳群があります。


    因みに、“白坂”は、沢山城への“城坂”だったのではないかと言われています。そう言われれば、この辺りは掘割に見えてきます。

    寒緋桜と梅が咲きます。先ほどの沢山城の写真でも梅がきれいでしたが、本当にこの辺りは花が美しいです。癒されますよ。

    話を古墳に戻します。

    この白坂横穴古墳群は、7世紀頃と言うことですが、横穴墓自体は、5世紀後半に九州北部で始まり、6世紀中頃には山陰、山陽、近畿、東海まで広がり、7世紀初頭までには北陸、関東、東北南部まで分布しましたから、これもやはり、大和王権を含む西からの勢力が入ってきたことを表しているのだと思います。

    下り切り、再び上り返し椙山神社です。


    町田市史によると、熊野神社同様、元慶元年(877)、大和国の城上郡三輪の里より勧請との伝承があります。ここの御祭神は日本武尊と大物主です。日本武尊は、三輪神社から杉山神社になった時の後付と思われ、ということは、オリジナルの大物主がちゃんと残ってますね。

    この辺りの地名は”藤作”で、産鉄地名です。

    七面山を中心とした三輪の中心地を後に、椙山神社の山を下ったら、西ノ谷戸に入り、西谷戸横穴墓群を見てみます。ここの横穴墓群も7世紀に作られたと考えられています。


    また、そこにある鶴見川の支流は、その名も"多々良川”。そのものズバリの産鉄地名ですね。

    西ノ谷戸の奥の奥に美しい田圃が広がってました。正に癒やし。多々良川の水を使っています。

    さて、次は三谷戸です。三谷戸の支谷戸の玉田谷戸の奥には、下三輪玉田谷戸横穴墓群があります。ここも、6世紀末から7世紀にかけて作られたと考えられています。


    この辺りは非常に多いですね、横穴墓が。整理するとこうなりますね。
    1. 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
    2. 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、三輪神社を創建
    3. 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、三輪にも拡大し上三輪神社を熊野神社に
    下三輪玉田谷戸横穴墓群から、そのまま、東京都と神奈川県の都県境(嘗ては武蔵国多摩郡と都筑郡の郡境)尾根を楽しみます。まずは東に行き、ゴルフ場の手前で折り返します。

    こんなヤセ尾根があったり、
    こんな竹の道もあります。この竹の道は、ゴルフ場で折り返し、横穴墓も通り過ぎ、切り通し近くまで行った所にあります。

    寺家と言えばこの切り通しですが、


    迅速速図を見ると、今折り返してきた武蔵国多摩郡と都筑郡の郡境尾根道は、切り通しにはなっておらず、西に続いていますね(ここの峠で一本実線の荷車道から片実線・片点線の村道に切り替わって続いています。)。


    また、今の切り通しもかなりの迫力がありますし、等高線を見てもかなりの密度で、急峻なヤセ尾根だったと思われます。だからですかね、村道はここでクイッと直角に西に折れてます。辛うじて、一本点線の徒歩道がヤセ尾根を越えて続いているだけとなります。迅速測図が出来たのが明治15年前後ですから、切り通しはその後に出来たということになります。

    峠を越え、武蔵国多摩郡から都筑郡に入りました。山田谷戸に寄り道し、寺家を後にしたんですが、この山田谷戸が面白かった。

    迅速測図を見ると谷戸奥で徒歩道で村道がある尾根に上がれます。
    村道との合流点です。クヌギの大木が折れてました。昨年秋の台風でしょう。管理されてない道だということが分かります。
    これが嘗ての村道、さすがに村道なのでしっかり踏まれてますね。合流点から西に少し行ってから合流点を振り返って撮影。

    尚、山田谷戸の辺りは”菅ノ入り”という地名で産鉄地名です。

    鶴見川を渡り、向かったのはここ、稲荷前古墳群です。

    墳丘
    墳丘から大山方向、この日は暖かったので大山が霞んでます。

    前方後円墳2基、前方後方墳1基、円墳4基、方墳3基の計10基の古墳と3群9基以上の横穴墓から成ります。

    今はもう開発で失われましたが、1号墳だった前方後円墳は、4世紀末から5世紀始めに作られたとされています。

    前方後円墳と言えば大和王権

    そうなんです。私がわざわざここまで寄り道したのは、ここが全ての始まりだったのではないかと思うからなんです。

    今一度、整理しましょう。
    1. 4世紀末から5世紀始めにかけて、大和王権勢力が東国に進出、鶴見川を遡り、稲荷前古墳群の地に、前方後円墳を築造
    2. 7世紀の始め頃に、横穴墓を墓制とする西からの勢力が鶴見川を遡り三輪の地に進出
    3. 877年に、大神神社が荻野氏、斎藤氏を三輪の地に遣わし、上下三輪神社を創建
    4. 鎌倉時代、紀州勢が進出し、三輪の東隣、麻生の地に進出、熊野神社を創建、後に三輪にも勢力を拡大し、上三輪神社を熊野神社に
    尚、稲荷前古墳群がある辺りは、“黒須田”や“鉄(くろがね)”と言った産鉄地名が並びます。

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    稲荷前古墳群から鴨志田川が作った谷を西へ。奈良に入ります。

    ここに松岳院があります。1572年開山の曹洞宗寺院なんですが、そんなことよりと言ったら怒られてしまいますが、ここにはこのLinkにあるように、今は廃寺となった嘗ての末寺、瑞円寺から移設された剣先地蔵が祀られています。

    どう見ても男根ですね。

    これは全くの想像ですが、瑞円寺が作ったものではなく、瑞円寺付近で発見されたものを、近くの宗教施設だった瑞円寺に納めたものと思われます。

    石棒は縄文中後期、中部、関東で、住居の中、特に炉端で発掘されることが多いそうです。そのことから、何らかの火に関連する祭祀儀式に用いられたと考えられています。

    その縄文時代の宗教的感覚を引き継いだといえるのが今でも続く金精様信仰で、女性が木や石の男根に触れることで子宝に恵まれるという生殖、再生への願いが信仰となっていますが、縄文時代も同じく信仰だったと思われます。

    石棒は、縄文時代後期になると、東北地方を中心に、松岳院にあったような抽象的な形状になるそうです。

    この剣先地蔵は、縄文時代後期の東北地方にそのルーツを求められるかもしれません。

    奈良から奈良川に沿って南下し恩田に入ります。恩田薬師堂です。


    そして、地元で足利街道と呼ばれる尾根道を越えた白山谷戸には、白山神社があります。

    白山神社、なんともものすごい空気でした。恐らく1200年前と、ここは、何も変わってない、そう、思わせました。
    崩れてしまった祠を何とかして守るように石が囲んでいます。この白山神社を心の拠り所としてきた人達の思いが感じられます。その中に、御神体の石棒が。

    柴田弘武によると、別所という地名は産鉄地であり奥州俘囚の移配地ということです。山間僻地に多く、そこに東光寺、薬師堂、白山神社を祭り、また慈覚大師円仁の伝承を伝えるなど、多くの共通要素を備えているということでした。

    ここは別所地名ではありませんが、東北の民達の信仰である石棒、薬師堂と白山神社があります。

    また、こちらのサイトによると(勝手にリンクでスミマセン)、地元の方によると、昭和の初め頃までこの近くに皮坊(かんぼう、動物の皮の加工の従事者)と呼ばれた被差別部落があり、白山神社を信仰していたそうです。

    恩田川を西に行き、多摩郡と都筑郡の郡境尾根を北上し、子ノ辺神社に行きます。恩田川から多摩郡と都筑郡の郡境尾根に上がる所は、“吹上”で、産鉄地名です。

    武蔵国多摩郡、都筑郡、郡境尾根道。郡境にある道ということは郡が出来た時に成立した道ということ。と、言うことは律令の時代ですね。
    郡境尾根道から子ノ辺神社に向かう道
    子ノ辺神社

    風土記によれば、“村の西より少く北の方によれり、上屋一間半に二間半、内に稲荷を相殿として小祠を置く、神体は石剱に似て長さ二尺ばかり、半より折てあり、円径三寸ばかりなり、是も徳恩寺持”と、あります。

    写真、ほぼ中央、招き猫の奥に石棒があります。風土記とは寸法が違いますが、オリジナルな紛失してしまったか奥に保管されているのかもしれません。

    これも松岳院と同じく、男根で、我が同胞、東北の民達がここに暮らしていた査証かもしれません。またここは、あかね台鍛冶谷公園から分かるように、産鉄地名です。

    引き続き、多摩郡・都筑郡郡境尾根を行き、西谷戸を経由して、岡上に入っていきます。途中、“大田平”、“梨子”といった産鉄地名を通り過ぎます。

    気持ちの良い尾根道を行くと嘗て集落があったエリアとなり、この辺りも三輪同様にとても良い所ですね。

    梅と庚申塔
    こんな徒歩道も残ってます。
    塞ノ神

    東に行き、岡上神社です。

    神奈川県神社誌によれば、創立年代不詳、明治四十二年三月十六日、四社を諏訪神社に合併し、地名をとって岡上神社とす、とあります。御祭神が日本武尊、健御名方命、大山昨神、稲倉魂命なので、この1社足りませんが。

    そんなことよりと言ったら怒られますが、ここにはこれがあるんです。

    金精様

    またしても金精様です。

    そして、碑文を見るとこれまた面白いことが。

    足利義氏、この人は足利家第3代当主で、足利尊氏の5代前となりますが、文治5年(1189)に生まれています。碑文を見ると、足利義氏が生まれた文治5年3月に陽石、これは石棒のことですが、それがこの地で出現したと。一方、伊豆にいた理真上人が密法変生男子によって渡良瀬川の近く、つまり足利の地で足利義氏が生まれた。だからこの石棒は霊験あらたかな金精大明神だと書いてあります。

    こういうことでしょうか。

    1189年に石棒が発見された。この時はただの石棒として祀っていたが、鎌倉時代となり、この辺りが足利家の領地となった時に、この石棒と足利義氏誕生を結び付けた。

    最後に、東光院です。開基開山詳らかならず、ということですが、天正年間で既に11代とのことで、またしても、という感じもありますが、行基が開いたという伝承もある古刹です。

    またしても東光院です、産鉄地名ですね。


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    如何でしたか

    行った本人の正直な感想としては良かったです。

    既述のように、何度も行った所だったんですが、それ以降に経験したものが蓄積されたのか、新たな視点で楽しめました。

    また、恩田の白山神社はスゴかったですね。久々の空気感でした。

    春の三輪はとても良いです。皆さんも是非!