2021年12月28日火曜日

古甲州道番外編、西党、横山党、大石氏

実は前々回の平山氏重先祖供養の道執筆中、気付いたことがあります。

東京都日野市平山から同あきる野市引田に行くには秋川街道を行くわけですが、八王子駅前を通るんです。

八王子駅周辺は横山党の本拠地中の本拠地です。

八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社

通れたのか?!

と、思いましたが、1213年の和田合戦で横山党は滅亡してますから、簡単に通れたはずでした。

でもここまで来て新たな懸念が生まれました。

じゃあ平山季重秋川進出の道はどうだ、と。このルートも八王子駅周辺、横山党本拠地を通ります。

例えば秋川沿い小川郷の小宮神社は1207年創建です。まだ横山党は滅亡してませんね。

和田合戦の際、横山党は全支族和田方についたから滅亡したんですが、西党も和田方についています。Googleすると情報が錯綜してるんですが、平山氏だけは幕府方だった、いや、平山氏だけが和田方についた、など、でも、西党は一部を除き和田方についたようですから、西党と横山党は関係が良かったのだと思います。だから通れた。

ここで更に一つ懸念が。じゃあ、大石氏は?!, と。
  • 風土記にある大石系図によれば、大石氏は木曽義仲の子孫で、大石信重は1334年生まれ、貞和年中(1345~1350)には関東管領山内上杉憲顕に仕え、1356年には武蔵国入間・多摩両郡内に一三郷を賜り、武蔵国目代の職となって、二宮に居住したといいます。
    • 小川大明神こと二宮神社は小川氏庇護、訪問済み
  • その後、1384年には浄福寺城を築城し二宮から移ります(風土記によると1521年に定久が、武蔵名所図会では1532~55年に定重あるいは定久が築城とある。)。
  • 信重の子、憲重の時代には、関東管領の就任に圧力をかけるまでに勢力を大きくしたものの、憲重の子、憲儀を最後に守護代に就くことはありませんでした。
  • 憲儀の子、房重は、1454年、享徳の乱に上杉方として参戦し戦死しています。
  • 房重の子、顕重は、1458年、高月城を築城しました。
  • 房重の孫、定重は、1521年に滝山城を築城しました。
    • 高月城、滝山城は小川郷と平山を結ぶ平山季重秋川進出の道沿い、訪問済み
  • 定重の子、定久は、1538年、北条氏康の子、氏照を養子とし家督を譲り、自身は戸倉城に隠居、1549年に由木城近くの野猿峠で自害しました。
    • 戸倉城は小宮氏築城、居城後、大石氏が居城(恐らく後北条氏の指図), 訪問済み
    • 由木城は元由木氏館で、後、大石定久館に、訪問済み
と、いうことで、西党と大石氏は場所も時期も重なってます。

この状況で、平山季重は平山から小川郷に、平山氏重は引田から平山に来れたんでしょうか?!

来れたんでしょうね。逆に、来れたからこの結果になっているということです。

実際、阿伎留神社の、1417年に足利持氏が武州南一揆に下した恩賞状がありますが、武州南一揆とは、多摩地区に存在し、その構成員は、平山、梶原、由井、川口、立川、山口、師岡、小宮、木住野、萩原、網野、土士田、宮本、戸倉などで、御覧の通り西党氏族が主要メンバとなっています。

つまり、1417年、西党は足利持氏の側に立っていたということになります。

この1417年という時代は、前年1416年に上杉禅秀の乱がありましたが、この戦は、足利持氏・関東管領山内上杉憲顕 vs. 犬懸上杉氏憲の戦いであり、既述のように大石氏は関東管領山内上杉憲顕に仕えてましたから、足利持氏→関東管領山内上杉憲顕→大石氏→西党というように指示命令が流れる関係、味方同士だったんですね。

1438~1439年の永享の乱は、上杉禅秀の乱では味方同士だった足利持氏と山内上杉憲実が戦います。この時は山内上杉憲実側に付きました。この時武蔵守護代は大石憲儀です。

しかし、翌1440年の結城合戦では中立の立場をとり山内上杉憲実の呼びかけには応じませんでした。大石氏は勿論参戦しています。

しかしその後の享徳の乱でも上杉方についているようなので、大石氏とは直接の指示命令を受ける関係が続いていたものと思われます。

長くなりましたが、平山季重秋川進出の道、平山氏重先祖供養の道は、横山党、大石氏の領地を通っていきますが、横山党とは関係が良かった、大石氏とは、在郷武士団と武蔵国守護代・目代の緩やかな主従の関係があったので、問題無く通れたということです。

ということで今回は、既に訪れた大石氏と西党とが重なるエリア、二宮、高月、滝山、戸倉、由木以外の、このシリーズでこれまで訪れていない、浄福寺城をexploreしたいと思いますが、ここは、西党由井氏の根拠地だったのです。ここも重なっているわけですね。

◆◇■□

京王線京王八王子駅まで輪行、八王子駅前、つまり、横山党本拠地を通って甲州道中と案下道との追分に向かい、勿論今回は案下道を行きます。

南浅川を水無瀬橋で渡り、城山川も渡って案下道は三村橋西の三又を右に進路を取り、現代の陣馬街道に復帰したら、諏訪町の丁字路を真直ぐが案下道ですが、ここを左に入り、桜木天王宮に寄ります。ここには、由比牧士址があります。

由比牧址

由比牧とは、武蔵国の令制の牧の1つです。令制の牧とは、国家制度の1つとして令や律によって規定された牧です。成立は8世紀か9世紀頃と非常に古い、その牧がここにあったわけです。この牧を経営していたのが西党の由井氏でした。

由比牧には牧堀という土手と堀がありそれが現在の野堀川です。この堀は、牧場の柵でもあり馬の水飲み場でもあったそうです。

野堀川

陰影起伏図で由比牧の位置を想定してみますと、青線が野堀川ですが、野堀川の西側ではないでしょうか。東側は広大な浅川が作った氾濫地ですから、制御が難しい。西側は大沢川の谷が柵の代わりになります。野堀川で策を1つ設けるだけで良いのです。大沢川の口を塞ぐような正にそういった位置に野堀川があります。

北上すると由井氏館跡があります。

由井氏館跡

由井氏館跡から東の眺望

1313年の天野文書によれば、由井氏の娘、由比尼是心が、この地、由井郷に、天野氏が進出してきて、天野氏に嫁いだ時、由井郷は天野氏に伝領されたと記されています。

この頃、女性が、家の所領を相続する権利を持っていましたから、由井氏が由井郷を領していた、由井郷に由井氏がこの頃まで存在し続けていたということになります。

先を行きましょう、弍分方日枝神社です。

弍分方日枝神社

697年、令制によって武蔵国に由比牧を定め、当時の国造が牧の守護神として大巳貴命を祀り太政官符により創建したとの伝承があります。

隣には明治期の切通しがあります。

切通し、この切通しを使う道筋は明治期以降の道

と、このように、この辺りは由井氏が支配する由比牧を中心としたエリアだったんですね。

それが平安から鎌倉、室町まで続いていたわけです。で、室町になって大石氏が入ってきたわけですが、守護代として上手く統治を進めていく為には、何百年もこの地を支配してきた西党由井氏と仲良くやっていくしかなかったわけです。

先を行きましょう、前回訪れた宝生寺の前の道が案下道だったとは知りませんでした。

馬頭観音も

そこを通り、山入川、小津川を渡ったら、鎌倉街道山の道と案下道との辻となる川原宿に至ります。北浅川の松竹橋からは現代の陣馬街道と案下道は同じ道筋となります。程無く、浄福寺に到着です。

浄福寺

寺伝によれば、

"大永年間(1520年代)に木曽義仲の末裔である大石道俊が、この地に居城を構えました。大石道俊は後継となる子どもが居なかったことから、この千手観音に祈りをささげたところ、子どもを授かったそうです。この子どもが、後の大石憲重です。その後、大石氏は、北条氏康の力を借り、滝山城に居城を移しました。"

と、いうことです。道トシとは定久のことで、既述の大石系図の説明とは異なりますが、大石氏と関係があるのは確かでしょう。

そのまま、浄福寺城に登城します。浄福寺は記述の通り、大石系図によれば、1384年に、大石信重により築城されました。

いや、これが結構キツカッタ。

途中の観音堂

千手山頂上、浄福寺跡

三角点がある高まり手前の平地、ここが主郭でしょうか。

下山し、皎月院に向かいます。

皎月院

開基は滝山城主大石定久で、開山は玉田存隣、本尊は釈迦如来、創建は1469~87年で、大石定久の邸跡と伝えられています。

と、いうことで、由井氏と大石氏はエリアが重なっていることが分かると思います。

◆◇■□

来た道を戻るのも芸が無いので、力石峠を越えて小津の集落を抜け、川原宿に戻り、鎌倉街道山の道から大沢川沿いの集落を抜けて八王子から輪行で帰りました。

力石峠途中から恩方の集落を望む

力石峠

おっと、大事なことを忘れてました。心源院です。風土記には、"開山季雲永岳、大永六年二月十五日寂す、開基は大石遠江守にて、法謚を英岩道俊といふ則石見守憲重が父にて、初め源左衛門と稱せし人なり、この道俊がことは浄福寺及び瀧山の條にもしるせるなり" とあって大石氏が開基となったお寺です。

◆◇■□

如何でしたでしょうか。

由井氏と大石氏、見事に重なってました。ということは上手くやっていたということです。じゃなきゃ戦国の世、生き残れない。

以前も言いましたが、これでひとまず古甲州道シリーズは一旦お休みとしたいと思います。残りは大菩薩峠なのでね、チャリでも行けるのか研究調査しないと。

2021年12月20日月曜日

古甲州道番外編、平山氏重先祖供養の道

前回の古甲州道番外編では、平山氏根拠地、東京都日野市平山、旧平山村を訪ねました。

その事前exploreと実走を通じて新たな私的発見がありました。

1190年頃、ここ平山に進出し平山氏を名乗り、暫くして、というより、程無く、秋川沿いに進出し、天正年間ですから1500年末に、当時の当主、平山氏重が、平山季重を始めとする先祖供養の為に、今の平山季重神社、当時の日奉明神社と、明治に廃寺となりましたが平山城址公園駅付近に大福寺を開きました。

平山村は、400年間、何と言いますか、間が空いてたんですね。これは知りませんでした。まぁ、平山氏関係者の誰かは居たんだと思いますが。

前回も書きましたが、日奉明神社、今の平山季重神社の風土記での説明に、

日奉明神社
村の南の方山上に有、小祠、平山武者所季重が靈を祀れりと云、近村引田村の日吉社に、天正十七年奉納の絵馬あり、裏に武州多西郡引田村當領主日奉之朝臣平山右衛門大夫也とあり、是によれば當村も昔かの人領せし所にして、村名も平山を唱ふれば、後世季重をば祀りたるならん、例祭は三月六日なり、則ち季重が歿せし日なりと云。(新編武蔵風土記稿より)

とあって、先程の平山氏重が平山季重を祀ったという話に加え、引田村の日吉社の話が出ています。

古甲州道は、滝山から秋川丘陵の尾根を行くのが本道のようですが、戸吹で栃淵峠を越え秋川左岸に渡り、戸倉で本道と出合うまで、檜原街道を行くルートもあったようです。

前回辿った秋川丘陵ルートだと引田村は通りません。

平山氏はこの回で言ったように、平山から小川郷へ鎌倉街道で向かったのは分かっているんですが、地図を見てください。

現代地図における平山と引田村の位置関係

平山(右下、現在地ボタンの上)から八王子を経由して浅川支流川口川沿いに北西に向かう茶線があると思いますが、これは現在の秋川街道で、上川町で鎌倉街道山辺の道に出合い北に向きを変え秋川を渡河すると引田村へと行き着きます。

このルートの寺社の状況を見ると鎌倉時代には少なくとも成立していたと思われ、何より、引田村↔平山村間の移動だったら、こっちの方が素直に思えませんか?!

と、いうことで今回は、平山から八王子を経由して秋川街道で引田に向かい、帰りは、前回通ってなかったルートで折り返し、栃淵峠を越えて滝山に帰ってこようと思います。

平山氏重先祖供養の道です。

◆□■◇

京王線京王八王子駅まで輪行。八王子を経由して秋川街道に向かいます。そのまま川口町まで。

ここに、川口氏館跡があります。

川口兵庫介館跡、ここは実際行ったら、あるいは地形図を見ると分かりますが、秋川街道から旧坂を上った原にあります。確かに、館があってもおかしくないですね。

日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗貞ー(由木)重直ー川口二郎太夫が川口氏の祖で、この川口氏館跡は、第11代の兵庫之介幸季の時代の館跡ということです。

因みに初代川口氏二郎太夫の父は前回訪れた由木氏の祖ですね。由木氏と川口氏は近いなぁ。親子ですね。由木氏と川口氏との交流も勿論あったことでしょう。そのルートもこれと同じでしょう(由木から長沼経由で八王子までは小野路道[旧野猿街道])。

因みに平山氏は、日奉宗頼―宗親―宗忠―宗貞―宗綱―平山直季で平山氏の祖、なので、川口氏とはおじいちゃんが一緒ですね。こう言うと分かり易いかも。

はい、道筋的に素直だということだけでなく、同族川口氏の根拠地だったわけです。

これは益々こちらを通ったんじゃあないでしょうか。

その直ぐ先に、法蓮寺があります。

法蓮寺

時宗の寺です。なかなか見ないですね、この辺りだと。しかも、鎌倉時代の嘉元2年(1304年)に遊行二祖他阿真教上人によって開山されたということです。

これの何がスゴイかというと、時宗の始まりは1261年、一遍が当麻に草庵を開いたことなんですが、実質的には、その弟子、他阿真教が1304年に遊行を終えた後、落ち着くところとして開いたのが始まりだと言われています。

はい、だから、1304年に法蓮寺が開かれたならば、実質的な時宗の祖、他阿真教が遊行時、あるいは直後に開いたお寺ということになりますね。

時宗当麻派本寺無量光寺はR16を南に行き相模国に入ったところにありますから、R16, 当時の鎌倉街道を通ってここに至ったのだと思います。

いやぁ、R16は時宗一遍・他阿真教遊行の道、ですね。

川口氏との関係で言うと、本尊阿弥陀如来の体内銘に、川口氏の庇護にあったとの記載があるとのことです。

法蓮寺の直ぐ隣には鳥栖観音堂があります。

鳥栖観音堂

川口兵庫介幸季が大般若経600巻を鳥栖寺に住み着いて写経し納めたという伝承があり、今は鳥栖寺はありませんが、この鳥栖観音堂がそれではないかと言われています。

先を行きましょう、秋川街道からは少し外れて宝生寺です。

今昔マップ関東、地形図を見て、古道があるはずと踏んでexploreした結果、こんな素敵な古道がありました。しかし、この手前、廃墟と不法投棄があってそこだけですが雰囲気が良くありません。

ピークを過ぎ下りに入るとこのような掘割が残ってます。

こちらが宝生寺です。

帰りも古道で。宝生寺団地の北東端から長楽寺に抜けられます。

しつこいですが良い道だったので

宝生寺自体は明鑁が開山し1425年に開創されました。この明鑁が、鳥栖観音堂の所で出た大般若経の筆者です。鳥栖観音堂の記述と異なりますが、川口兵庫介幸季は発願者ということです。ですから川口兵庫介幸季の時代もこの頃ということですね。

1590年の北条攻めの際、八王子落城に伴い、大般若経を火災から守る為、鳥栖寺から円福寺に移動しています。

先を行きまして長楽寺です。

長楽寺

1187年に明玄が開山している古寺です。ここにも、川口兵庫介幸季が薬師如来坐像を寄進しています。

先を行きます。先程出ました円福寺です。

円福寺

円福寺自体は、1222年、源実朝の菩提を葬るため智賢法印が開山し、開かれました。

川口兵庫介幸季が発願し、宝生寺の明鑁が筆者となった大般若経600巻は、その一部は、裏山にある川口氏が勧進した熊野神社にも今も埋められているようです。

熊野神社、良い空気感でした。

川口氏館跡からここまでが、西党川口氏の痕跡があるエリアですね。

平山氏重は、檜原、戸倉、五日市から根拠地平山村に通うのに、同族川口氏が支配するここ秋川街道を行き来した、ということだと思われます。

先を行きましょう、鎌倉街道山の辺の道を北上し、秋川も渡って左岸へと行き、山田の町並みを抜け引田に向かいます。到着したのは引田八雲神社です。

引田八雲神社

上記平山村の日奉明神社の風土記の記事にあった日吉社です。

風土記によれば、

(引田村)日吉山王社社地、七千二百坪餘、秋川の端にあり、小社東向、勧請の願主は、日奉朝臣平山右衛門大夫にて再興は天正十七年志村肥前守と云ふ、村内眞照寺の持、例祭二月初午、四月初申、同月二の申の日なり、この社へ彼肥前守の納しと云古き繪圖の如き繪馬あり、繪馬竪は八寸五分横は六寸ありて、畫像は猿の馬を曳たるを高く彫たるものなり

と、ありますので、現在の引田八雲神社が件の日吉社と思われます。

先を行きます、真照寺です。

真照寺

秋川市史によれば件の絵馬はここにあるようです。真照寺自体は891年に開創された古寺です。大悲願寺よりも古いですね。

はい、これで平山村と引田村が繋がりましたね。言うなれば平山氏重先祖供養の道です。

帰りは古甲州道のもう1つのルート、栃淵峠を経由して滝山から古甲州道を逆に辿り最後は多摩サイで帰ります。

今昔マップ関東と地理院地図を並べてみました。1894 - 1915と2021の比較です。127~106年の差があります。つづら折りがありますね。これがそのまま残ってます。

これは2つ目(1つ目はR411から折り返すようにこのエリアに入る部分なので省略)

3つ目

峠部、道は概ねダブルトラックで主要道路だったことが伺えます。ただ殆ど人は通らないんでしょうね。猪の掘り返し跡が非常に多かったです。前々回の満地峠も書きませんでしたが非常に多かったんですよね。ですので今回は鈴を付けました。なので少しは安心してexplore出来ました。

◇■□◆

如何でしたでしょうか。



その後、秋川を遡るように進出範囲を広げ、五日市周辺戸倉、最終的には檜原の檜原城に拠り、1590年の秀吉の小田原攻め、八王子城落城に伴って、平山氏は滅亡しています。最後の当主は氏重です。

その氏重は、滅亡の少し前、先祖供養の為、平山に大福寺と日奉明神社を開いています。

その時行き来した道、それが今回の道筋だったのではないか、ということです。言わば、平山氏重先祖供養の道、です。

この道は同族の川口氏が支配する道でした。川口氏も平山氏同様、最終的には後北条氏に属し生き延びています。行き来しやすかったでしょうね。

2021年12月11日土曜日

古甲州道番外編、平山氏根拠地を訪ねる

前回は時間切れで平山氏根拠地である日野市平山を訪れることが出来ませんでした。

今回はその続きとして日野市平山を訪れ、平山氏の痕跡をexploreしたいと思います。

◆◇■□

多摩サイを府中四谷橋まで。府中四谷橋を渡って浅川サイクリングロードに繋ぎ、平山橋に到着です。

平山橋の北は、大名淵という所で、平山氏の居館があった場所と言われています。今は、大名淵公園にその名を残しますが、痕跡はありません。

平山橋の袂なんて水害のriskが高く城の好適地ではないと事前explore時には思ってましたが、実際に行ってみるとご覧の通り。高台に位置していてここに感があっても良いと思いましたが私は城はマニアではないので。

そのまま浅川の北側を行き、平山八幡神社です。

平山八幡神社

こちらも高台でした。館跡といっても違和感は無いですね。

1185〜1190に、平山季重が創建と伝わります。また、こちらが居館跡という説もあるようです。

滝合橋で浅川南岸に渡り、平山季重神社に向かいます。

平山城址公園駅から結構登りました。奥に行くに従い急登になっていきました。

社名はそのものズバリですが、風土記によれば嘗ては、日奉明神社と呼ばれていて、平山季重を祀るとしています。風土記編纂時点で既に平山季重を祀っていたんですね。

風土記には、近くの引田村の日吉神社に、日奉朝臣平山右衛門太夫と裏書きされた絵馬があることが書かれていて、日奉明神社という社名だし、平山村だしということで、引田村の平山氏がここ平山村に先祖の季重を祀ったのではないかと指摘しています。

先を行きます。平山城址公園駅前の、平山季重遺跡の碑と季重公霊地の碑です。

平山城址公園前駅は平山季重一色でした。

ここ平山城址公園駅は、嘗て、大福寺という寺がありました。天正年間(1573〜1591年)に、西多摩の平山氏が、先祖供養の為、開創したのです。しかしながら後に廃寺となり、墓などは宝印寺に移設されたということです。

これで先程の平山季重神社の風土記の記事と繋がりましたね。

天正年間ですから平山氏重が、平山季重神社と大福寺を、先祖供養の為、開いたということです。

はい。旧平山村に平山氏の痕跡を訪ねました。時系列に整理すると、
  • 日野から浅川沿いに進出
  • 八幡神社、あるいは平山橋北の大名淵に居館。平山氏を名乗る。
  • 1185〜1190に、平山季重が八幡神社創建
  • 秋川沿いに進出、小川郷、五日市、戸倉、檜原に。畠山重忠の乱、和田義盛の乱、承久の乱、鎌倉幕府倒幕、戦国時代を生き抜く。暫く主戦場はこちらか。
    • 1191年、平山季重、大悲願寺開基(再興)
    • 1207年、小宮神社創建
    • 同年、大行寺開創
    • 1381年、平山盛(守)吉、祈願所として平井子安不動堂開基
    • 1386年、平山盛(守)吉、日の出町大久野山祇社創建
    • 1390年、平山景時、平井八幡神社創建
    • 1409~1439年、平山氏が属した武州南一揆宛に足利持氏恩賞状、阿伎留神社
    • 1502年、平山氏、祈願所として大光寺開山
    • 1527年、日奉宗連、引田大宮神社再興
    • 1559年頃、平山氏重、玉林寺再興
  • 500年弱の間を空けて、ここ平山村に、天正年間(1573〜1591年), 平山氏重が、先祖供養の為、日奉明神社、大福寺(廃寺)を開く。しかし、生活の場は引き続き西多摩。
と、言うことになりますね。

さて、折角なので、近くの他の西党痕跡も訪ねましょう。

まずは長沼氏館跡です。

はい、チャリが違いますね。前回訪れてました。

ここ八王子の長沼にある六所宮は、稲城市長沼の長沼城跡と並んで、西党長沼氏の館跡と目されています。八王子、稲城市共に、小山氏系の長沼氏という説もあります。

日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗守ー国守ー長沼二郎太夫職任という系図です。

個人的には、同族の平山氏の根拠地の直ぐ隣ですから、こちらの方が長沼館だった場合には、西党長沼氏なのではないか、と思っております。

長沼館跡からは長沼公園内の小野路道、またの名を野猿街道を行きます。とうやく隊道の道が小野路道、旧野猿街道ですが、そこに出たら、永林寺に南下する迅速測図では一本点線徒歩道の古道を行き、永林寺、由木氏館跡です。

由木城跡碑と大石定久像

永林寺本殿

こちらも横山党由木氏と西党由木氏のどちらの説もあるようです。横山党となると微妙ですね。西党と仲が良く領地も隣り合わせが多く和田義盛の乱では共闘してますから。

日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗貞ー由木三郎太夫重直という系図です。

帰りはこんな素敵な切り通しがある、永林寺東のやはり迅速測図では一本点線徒歩道の古道を北上し、

小さな峠の切通し

小野路道、またの名を旧野猿街道に戻り、堀之内から池谷戸、多摩動物公園駅を経由して浅川サイクリングロード、多摩サイと繋ぎ、順調にクルージングしていた所、聖蹟桜ヶ丘手前で、"パスン" という大きな音と共に一瞬でリアの空気が抜けてしまいました。はい、パンクです。穴を確認すると5mm程、縦に鋭利に切れてます。ガラス片を拾いましたね。チューブラーなのでクイックショットで暫定対応するも穴がデカ過ぎたらしく塞がらず。聖蹟桜ヶ丘駅から輪行で帰りました。朝、迷ったんですよね。近場で自走だからバッグ背負いたくないし輪行バッグは要らないか?!, と。でも、今日は平山城址公園内散策もあるのでチェーンロック持って行くし、前回GR3忘れて後悔したので今回は持って行くことにするとやはりバッグか、と、輪行バッグを持って行ったのでした。神様ありがとうございました。

2021年12月5日日曜日

古甲州道番外編、小宮氏と平山氏の根拠地を訪ねる

古甲州道シリーズ、前回の檜原編で一段落としました。残る道筋は完全なる山道で、チャリでの走破について、慎重なstudyが必要と判断したからです。

これまで、府中は古甲州道のスタート地点であり、武蔵守だった日奉宗頼の言わば職場で、その隣の日野は、日奉宗頼土着地で、滝山は飛ばして五日市は平山氏の痕跡が多数、戸倉は小宮氏、檜原は再び平山氏、といった具合でした。

平山氏と小宮氏は日奉宗頼を祖とする西党の一派ですから、古甲州道は西党が行き交う道、そう表現しました。

さて今回は、古甲州道番外編として、平山氏と小宮氏の根拠地をexploreしたいと思います。

◆□■◇

まずは地図をご確認頂きたいと思います。

GoogleMapsより

上部のJR青梅線小作、羽村、福生、拝島辺りの多摩川の西側エリア、ここが小宮氏の根拠地となります。

一方平山氏の方はというと、下部、JR中央線八王子、京王高尾線北野の東です。

この2つのエリアですが、古地図を確認した所、鎌倉街道で繋がってるんですね。

JR青梅線小作駅辺りから始まり南下している黒線がそれです。

その後、3本に別れますが何れも八王子駅に至り、平山氏の根拠地へと至ります(八王子駅からは茶線)。

今回はこの鎌倉街道を使って、小宮氏根拠地から平山氏根拠地まで行きたいと思います。

□◆◇■

小作駅まで輪行、友田水道橋で多摩川を渡り、満地峠に向かいます。

これから向かう1つ目の山は錦秋の盛り

大荷田川に架かる大荷田橋を渡ると一瞬現代の滝山街道国道411号線に乗り直ぐに旧滝山街道、またの名を鎌倉街道へと入ります。

道筋は2つ。尾根の道と谷の道です。尾根を選びました。

やや東、南北に走り新満地トンネルへと続く濃いオレンジの道が現代の滝山街道、その西に南西に向かって走っている一本実線が2本あります。西の方が尾根ルート。

踏み跡はしっかりあるんですがシングルトラックで藪もそれなりにあり、谷ルートの方が歩かれてるんだろうなと思いました。実際、私が登る時に一組が下ってきましたし。

が、急登が終わるとダブルトラックとなり路肩には杉も植えられています。

杉並木が続く

尾根ということとこの杉並木を考えるとこちらの方が正式ルートでしょう。

尾根ルートだと到着するのは古満地峠でした。

古満地峠、このまま八王子に降りる道筋が見えてますが、古地図にはこの道はありません。

東にほんの少し行くと旧満地峠です。

旧満地峠

古と旧、この違いは何なんでしょうか?!, 旧満地峠は谷ルートがこの尾根道にぶつかる地点ですが。謎です。

風土記には、"マンジ峠", 武蔵名所図会には、"万字峠" と載る峠です。字ではなく音なんですね。古い地名のようです。

この峠を嘗ては鎌倉武士がイザ!鎌倉と駆け抜け、近世では養蚕関係の一大市場だった八王子に絹や何かを運んだと思われます。

宗教施設の壁沿いを下り現代の滝山街道国道411号に合流します。

現代の滝山街道に復帰したら暫くは古道と現道はほぼ一致で、草花通りと出合ったら草花通りを行きます。

暫くすると陽向寺です。

陽向寺

1396年、小宮十八騎の一人、高尾伊予守が開創と伝わります。

先を行きましょう、直ぐ南のその名も小宮神社です。

小宮神社

1207年、平山季重が創建、1463年には小宮上野介憲明が当社を祈願所として、社殿を再建、梵鐘一口を奉納したと言います。

直ぐ東には大行寺です。

大行寺

小宮神社と同じ1207年開創、開基は平山季重で平山氏の祈願所となっていたといいます。その後、1460〜1465年には、小宮上野介憲明の祈願所となったと言います。

小宮神社とほぼ同じ縁起ですから同時に開かれたんでしょうね。

ということでどうやらこの辺りが小宮氏の根拠地のようですね。

更に言えば、1200年頃は平山氏の根拠地だったのが、250年後には小宮氏の根拠地になった、と言えそうです。この辺りの入り組み具合は、古甲州道シリーズ本編でご紹介し、本記事の冒頭でも触れた、五日市は平山氏、戸倉は小宮氏、檜原は平山氏ということと似てます。

同族ですからね。

日奉宗頼―宗親―宗忠―宗貞―宗綱―宗季と来ますが、宗季の弟が直季で平山氏の祖です。その子が有名な武者所季重。

宗季の長男が宗弘で小川氏の祖。その弟に小宮氏の祖、小宮重行です。

小宮重行の下の弟の子が久長でその子が二宮氏の祖、二宮太郎です。

ですので兄弟親戚で、ここからここまではうち、そっから先は君んとこ、のようにしていったんだと思いますし、逆に、厳密な境界も無かったのではないかと想像してます。

さて、平井川を渡った所には、小宮神社の遥拝所があります。

原小宮の小宮神社遥拝所

平井川を渡ったここも、小宮氏のエリアだったんですね。

先を行きます。二宮神社です。つい先日、羽村市とあきる野市の鎌倉道で訪れましたが再訪です。

二宮神社

ここが二宮神社となったのは明治。それまでは小川大明神と呼ばれてました。その小川は、小川郷という古い地名から来ていますが、小川宗弘はここを根拠地としていました。その後、二宮太郎が生まれこの地を譲ったんでしょう。

先日走った羽村市とあきる野市の鎌倉道と同じ道筋を辿って林泉寺です。

林泉寺

1299年に創立され、開基は大隅土佐守と伝えられていますが、小川土佐守の誤記のようです。小川氏のことですね。

その先の宝清寺は小川氏の居城跡です。

宝清寺

小川氏居城から秋川の眺望、見えている山は加住丘陵の北端です。

と、言うことで、草花丘陵と加住丘陵の間、秋川と平井川が作った扇状地は、小宮氏、二宮氏、小川氏、(平山氏)の根拠地だった、ということになります。

さて、このまま東秋川橋を渡って滝山丘陵を越えて、とすると、羽村市とあきる野市の鎌倉道と全く同じ道筋となりつまりません。秋川沿いに東秋留橋まで行き、鎌倉道東秋留橋ルートに復帰します。

東秋留橋の袂には西光寺、この観音堂には馬鳴菩薩が祀られており、養蚕が盛んな時は訪れる人も多かったとのこと。青梅からは満地峠を通ったものと思われます。

秋川を渡ったら七曲峠です。地理院地図では尾根手前で東に降りる道があり事前机上exploreではそちらを行こうとしたんですが、、、

画面真中を示す十字部分に合わせました。ここから南東に行く一本実線を行こうと計画してたんです。

切欠坂、というのですね。初めて知りました。

地元の方の解説です。

御覧のように確かに嘗ての掘割が残る道ではあるんですが、川道になってしまっていて奥は藪、倒木が酷く先に進めません。

諦めて現道を行きましたら、七曲峠の旧道が残ってました。

七曲峠の旧道が残ってました。大正時代ということですねこちらは。

程無く峠を越え、滝山街道に下り着きました。鎌倉街道はこのまま真っ直ぐ南なんですが、先程の地元の方の切欠坂説明によれば、このまま真っ直ぐではなく、切欠坂の続き、今は武蔵野カントリークラブに吸収され消失してしまった道ということになります。行けないのでつまらなそうな道なので宮下駐在所前まで行き、そこを右折して加住南丘陵に乗ります。

滝山街道はもちろんそのまま行くのではなく旧道側を行ったのですが、下戸吹の交差点を南から北へ抜けるんですがこの道が先程の切欠坂にから続いてる道だったので、ちょっと探検してみたところ・・・

ありました、道が

分かりづらいですがこの先は崖で、崖下は先程諦めた、川道になってしまってた地点です。

撮影場所はここです。実際はもう少し北ですかね。等高線が詰まってるエッジ部分です。

先程の地元の方の切欠坂の説明によれば、現道は大正時代に出来たということですので、その前はこちらの道しかなかった、こちらが鎌倉街道だ、ということですね。

good surpriseの寄り道を終え、予定通り宮下駐在所前から加住南丘陵に上ります。

何とか足付きせず尾根に上った後は快適な尾根道を行きます。途中からはアスファルトではなくなります。今日はここがハイライトでした。楽しかったです。以下、写真集です。

ここからグラベル / トレイルが始まります。

休憩した所、このルートはネットに殆出てなかったですが良く踏まれていて快適でした。

モミジではなく雑木林の紅葉が好きです。

加住南丘陵を楽しんだら八王子市街を過ぎ平山に向かいますが、秋の日は釣瓶落とし。もう2時半です。GoogleMapsによると自走だと自宅まで2時間掛かると。日没を過ぎてしまいます。平山氏の痕跡を辿るのはまたの機会とし今回はこれでお終いとしたいと思います。