2012年12月27日木曜日

Acient Road in Setagaya ward, Rokugou-Tanashi-michi / 世田谷区の古道、六郷田無道


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六郷田無道とは、その名の通り、六郷と田無を結ぶ道だ。

しかし、何故、田無と六郷を結ばなければならなかったのか、それが分からない。

例えば行徳道は、行徳が戦に欠かせない塩の産地だったので、江戸と行徳を結ぶ道を整備した。

田無と六郷にそのような話があるのか。

田無は、最も早くて後北条氏の時代の小田原衆所領役帳にその名が現れる。が、栄えたのは、家康が、江戸城改修の為、成木から江戸に石灰を運ぶ道として青梅街道を整備し、その宿場となったことによる。青梅街道は、八王子領主大久保長安が整備した。

一方、六郷は、西の防衛戦だった多摩川があるからだろう、家康江戸入府後直ぐに天領となり、その後、東海道整備後は、品川宿と六郷の渡しにより、栄えた。

田無と六郷の歴史を紐解いても、繋がりが見えてこない。唯一、大久保長安が六郷大橋架橋の責任者だったというのがあるが、幕府の重鎮がわざわざ現場視察に行かないだろう。

どうやら江戸時代に作られたわけではなさそうだ。

その前、後北条氏の時代も、重要な城があったわけではなく、この線も無い。

更に前、頼朝の時代でも、鎌倉とは方向が違う。

残るは、滝坂道や古府中道のように、律令の時代ということになる。

地形図をみてみよう。
六郷田無道地形図


綺麗にアップダウンを避けた道筋となっている。実走したが、実に走り易かった。やはり、六郷田無道は、六郷と田無を結び道ではなく、武蔵国国府府中と品川湊を結ぶ道だった。

以下、実走時の道中のスナップ

弦巻二丁目の馬頭観音、彫刻もきれいに残っている。
桜地区地蔵
直ぐ隣の庚申塔
千歳台の庚申塔、東・世田谷道
榎庚申塔
稲荷森稲荷神社
以上

2012年12月23日日曜日

Acient Road in Setagaya ward, "New" Ooyama-michi / 世田谷区の古道、大山道新道

三軒茶屋の追分を左に行くと、大山道新道だ。上に首都高の高架が走る、古道からは遠く離れる、無味乾燥の道。しかし、数分もしない内に、旧道部分が残っている所に出る。

旧道に入ると、緩い下りで、直ぐに伊勢丸稲荷がある。

伊勢丸稲荷

何とも、今の神社事情、世知辛い世を象徴しているようでもあり、しぶとく生き残っているようでもあり。社内の石碑によると、戦国末期にとある家の屋敷神として建立したものが、江戸初期の頃には村持ちとなり、その後、合祀や移転もあったものの、現在、元あったここに御鎮座しているとのことであった。

下り切った所は蛇崩川の跡だ。

蛇崩川跡

再び緩やかに上り、玉川通りに復帰する。環七を上馬の交差点で過ぎると直ぐ、宗円寺がある。

宗円寺

1317年、北条維貞により開基の古寺。吉良氏以前の世田ヶ谷は、この、北条維貞が、領地としていた。環七を北上したらある駒留神社も、北条維貞が勧請した。ちょっと寄ってみよう。

駒留八幡

1308年、北条維貞が勧請。この時、自分の乗った馬が留まったところに社殿を造営したことから「駒留八幡」と称するようになったと伝えられる。又、世田谷区の悲劇のヒロイン、常盤も、敷地内厳島神社に祀られている。

大山道新道に戻る。暫く行くと、新町一丁目の追分だ。旧道は、呑川を避け、右だ。入って直ぐ、善養院がある。1616年開基、1653年開山。

直ぐ先に、久富稲荷がある。創建は江戸期。何と言ってもここは、250m続く参道だ。

久富稲荷

大山道に戻り、暫く行くとお地蔵さんがいらした。

地蔵

坂を下ると追分がある。右が旧道で、大山道旧道と合流する。ゴールだ。

さて、大山道の旧道と新道をexploreした。旧道は、後北条氏居城、小田原城、江戸城、そして、その中間点たる世田谷城とを結ぶ、後北条氏の道、軍用の道だった。だから、橋の無い川、急勾配を避け、道が成立していた。その象徴は、三軒茶屋の追分と、新町一丁目の追分だ。

その後、江戸期に入り、赤坂御門から足柄峠を抜け、駿河国沼津宿に通ずる矢倉沢往還として利用され、大山詣が盛んになるに連れ、大山詣の為の道に用途が変化して行った。

新道の方はというと、すっかり平和となった江戸中後期の道で、兎に角、最短距離を優先した道筋となっている。

北条維貞が登場してきた。後北条氏の前の時代、吉良氏世田谷領拝領前の時代である。

尚、頼朝の妻、北条正子後の北条氏と後北条氏は異なる家系だから混乱無きよう。

一瞬、先の大山道成立推理に影響すると思ったが、北条維貞は、宗園寺南の鎌倉道中道本道(現駒沢通り)を使ったと思う。

大山道というと、大山詣の道で間違いないのだが、道そのものは、後北条氏の時代から軍用の道としてあり、それは、地図と睨めっこすると浮かんでくる。この推理が楽しくてたまらない。

2012年12月21日金曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Winter No.111 ""Robe-Hanging Pine" at Senzoku no ike"

Present View
Painted by Hiroshige in 1856 - 1858

大田区南千束にある洗足池を描いたこの絵は、名所江戸百景の冬、第110景で、題を、「千束の池袈裟懸松」という。

池の南にある高台からスケッチしたと思われる。手前に茶屋、右真ん中に主役の袈裟懸松、左奥には千束八幡(鳥居が見える。)がある。手前で旅人が歩いているのは中原街道だ。

現在の写真をご覧いただきたい。手前の白い建物は喫茶店、中央やや左に黄葉したイチョウが確認できると思う。それが千束八幡だ。撮影場所は、中原街道の歩道橋の上だ。アングルとレンズの関係で松は写ってないが、150年経過した今も、ほぼ、雰囲気を残している。

この池は湧水を集めているのだが、季節も手伝い、だからか、水も非常に綺麗だった。

この辺りの住所は、「千束」なのに、何故、池の名前は、「洗足池」なのか。伝説では、日蓮が足を洗ったと、言われている。

日蓮は、日蓮宗の総本山、身延山久遠寺から常陸に湯治に向かう途中、ここに立ち寄ったという。時に、1282年9月だ。

この時、袈裟を掛けた松を袈裟懸松といい、現在は六代目だ。

袈裟懸松

しかし、日蓮は、結局、この地でその生涯を閉じてしまう。そこで開かれたのが、"大"本山池上本願寺だ。

しかし、1282年から、「洗足池」と呼ばれるようになった割に、1856ー1858年に描かれた名所江戸百景では、「千束」と書かれている。

「千束」という地名は、平安期の文献にも見られる古い地名で、洗足池は、元は、「千束の大池」と、呼ばれていた。

広重は、古来の呼び名を採用したのだろう。

尚、ここ洗足池公園には、他にも歴史的見所がある。是非、訪れていただきたい。

千束八幡
860年、宇佐八幡を勧請し創建の古社。三大八幡は、宇佐、石清水、筥崎あるいは鶴岡。
宇佐は725年、石清水は860年、筥崎は921年の創建だから、相当古い。
この時代、平家も源氏もまだ関東には来ていない。では誰が勧請したのか。秦氏だろう。
洗足池弁財天
勝海舟夫妻墓所

2012年12月9日日曜日

Modern Architecture in Japan, Shinjuku Gyoen / 近代建築散歩 新宿御苑旧洋館御休所&旧御凉亭

新宿御苑旧洋館御休所
旧御凉亭
旧御凉亭


一枚目の写真は、新宿御苑にある、旧洋館御休所だ。

新宿御苑は、 信州高遠藩主内藤家の下屋敷跡で、1902年(明治35年)から4年の歳月をかけて1906年(明治39年)5月に皇室庭園として再開発された。

この建物は、1896年(明治29年)に、温室を訪れる皇族の御休所として建設されたもので、 1860年代から1890年代にかけてアメリカで流行したスティック・スタイルを基調とした、 現在では希少な洋風木造建築物だ。

二枚目、三枚目の写真は、同じく新宿御苑に今も残る、旧御凉亭だ。この建物は、皇太子(後の昭和天皇 1901-1989)の御成婚を記念して、1927年(昭和2年)10月に、台湾在住邦人から贈られた、本格的なビンナン建築様式の建物となる。

昭和天皇のご成婚は1924年(大正13年)、その頃、台湾は、日清戦争により日本の領土となっていた。その後、第二次世界大戦で日本が敗れるまで、その統治は続いた。

しかし、何故か、台湾の人達には、親日家が多い。聞くところによると、日本統治時代に、社会インフラを整備し、暮らし向きが良くなったからだという。第二次世界大戦で、日本は、中華民国に敗れた。当時の中華民国の首領は、蒋介石だ。蒋介石の終戦宣言の一部をここに記す。

「わが中国の同胞は、『旧悪を念わず』と『人に善を為す』ということがわが民族伝統の高く貴い徳性であることを知らなければなりません。われわれは一貫して、日本人民を敵とせず、ただ日本の横暴非道な武力をもちいる軍閥のみを敵と考えると明言してきました。今日、敵軍はわれわれ同盟国が共同してうち倒しました。彼らが投降の条項をすべて忠実に実行するように、われわれが厳格に督励することは言うまでもありません。但し、われわれは報復してはならず、まして無辜の人民に汚辱を加えてはなりません。彼らが自らの誤りと罪悪から抜け出すことができるように、彼らがナチス的軍閥によって愚弄され、駆り立てられたことに、われわれは、慈愛をもって接するのみであります。もし、かっての敵が行なった暴行に対して暴行をもって答え、これまでの彼らの優越感に対して奴隷的屈辱をもって答えるなら、仇討ちは、仇討ちを呼び、永遠に終ることはありません。これはわれわれの仁義の戦いの目的とするところでは、けっしてありません。これはわれわれ軍民同胞一人一人が、今日にあってとくに留意すべきことであります」

蒋介石は、その後の中国内戦に敗れ、台湾に逃げ延びた。

2012年12月6日木曜日

Ancient Road in Setagaya ward, "Old" Ooyama-michi / 世田谷区の古道、旧大山道

二子道は大山道だった。

前回の記事で、そう言った。だから、今回は、大山道としたい。

大山道は、実は、二つある。新と旧だ。

旧道は現在の世田谷通り、新道は玉川通り、国道246号だ。三軒茶屋で追分となる。やがて、新旧の大山道は、用賀で再び合流する。ここでは、二子道とも合流する。

二子道の時に、慈眼寺の方と行善寺の方、両方大山道と言ったが、慈眼寺が旧道で、行善寺が新道とのことである。

下記地図を参照されたい。


より大きな地図で 大山道 を表示

さて、大山道は、律令時代の古東海道をベースとしているとのことだが、であるならば、武蔵国の国府、府中に繋がるはずだ。よって、世田谷区の大山道は、律令時代の古東海道をベースにしているのではなく、その後に成立したものと考えられる。

大山は、元は自然崇拝としての山岳信仰の地で、元々、山頂にあった霊石と天狗を崇拝の対象としていた。山頂近くで霧がよく発生し、雨が多かったことから、あふり山と呼ばれ、崇神天皇の御代だから紀元前100〜30年頃に、霊石と天狗を御祭神とした阿夫利神社が創建され、752年には大山寺が開山し、大山の、宗教の聖地としての位置が確立した。大山寺を本拠とする修験者も多く存在した。

時は流れ、1605年、東照宮の命により、不学不律の修験者は山を下り、下山させられた修験者達が、関八州を回って大山詣を勧誘したことから、大山詣が盛んになり、関東各地に大山詣の道が出来た。

世田谷区の大山道は、この頃に成立したものと考えられる。

さて、では何故新旧で道が異なることになったのか。新道は、江戸中期以降に成立したらしい。

地形図を見てみよう。

大山道 地形図

赤線の旧道は、蛇崩川と烏山川の作った谷の間の尾根を走るよう、ほぼ真西に走っている。世田ヶ谷宿の辺りで、南西に折れているが、ちょうど、蛇崩川の作った谷の終りをかすめるような道筋となっている。

一方、青線の新道は、追分から直ぐの所で、蛇崩川を渡っている。が、駒沢の辺りで不自然に北西に曲がっている。よく見ると、呑川を避けているようだ。

推理すると、旧道の頃は、大阪夏の陣、冬の陣や島原の乱など、幕府もまだ安定政権とは言えず、橋も整備されておらず、川を避けなくてはならなかった。江戸も中期以降になると、幕府も安定し、平和になり、蛇崩川にも橋もかけられたのではないだろうか。だから、距離的に短い新道が作られた。が、呑川には橋はかけられなかったので、避ける道筋となったのだ。

では、実走することにしよう。
池尻から出発する。

R246、玉川通りの池尻大橋が出発点だ。池尻大橋とは、池尻と大橋の間に位置するからだが、大橋とは、玉川通り池尻大橋上り方向すぐの所にある目黒川に架かる橋から来ている。

又、池尻の尻とは、出口を意味し、池の出口、流れ出しを指す。では、この辺りに池があったのかというと、西に目を転ずると、北沢川と烏山川の合流点、目黒川になる地点があり、この辺りは、デルタ、沼地だったという。

さて、池尻大橋の東口に、玉川通りと大山道旧道の追分がある。ここを出発点とする。前置きが長くなった。

旧道に入り暫くすると、右手に池尻稲荷がある。

池尻稲荷

明暦年間の創建とのことなので、1655〜1657年だ。

旧道は、直ぐに玉川通りに戻る。暫くすると、三軒茶屋の、旧道と新道の追分だ。ここに、大山道の道標がある。

新旧大山道追分道標

この道標、寛延2年(1749)建立、文化9年(1812)に再建されたそうだ。上に、お不動さんが乗っかっている。正面に、「左相州通大山道、」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」 と、刻んである。

三軒茶屋の地名由来だが、この追分に三軒の茶屋があったから、というのは有名な話。角屋、田中屋、信楽の三軒だが、何と田中屋は商売は変わったが、まだ残っている。

さて、それでは、道標に従い、右の旧道に行くとしよう。

特に何も無い東京の大通りが続く。環七も過ぎ、暫くすると、右手に、大吉寺と円光院明王寺がある。

円光院明王寺
大吉寺

大吉寺は、開山年不明なれど、吉良氏の祈願所だというから、1336〜1590年の間に開山のはずだ。隣の明王寺は、天正年間開基で、やはり、吉良氏の祈願所だった。

明王寺の前に左に入る道があるが、それが旧大山道だ。左に曲がって一本目を右に折れる。クランクになっているのだ。クランクということは、そう、ここは、世田谷宿という宿場だった。クランクを境に西が上宿、東が下宿だ。この上宿と下宿は新宿で、元宿は、区役所の辺りだ。元宿は、吉良氏の時代に始まったと考えるのが妥当だろう。その後、1532年頃の吉良頼康と北条氏綱の娘、崎姫との結婚から成立した、吉良氏の、北条氏の実質的な御家人化以降は、ここ世田谷は、小田原城と江戸城の間に位置する重要拠点となり、世田谷宿を更に発展させる必要が出て来て、新宿を設け、楽市を始めたと推察される。この楽市が、今日のボロ市だ。

はて、大山道は、東照宮の不学不律の僧や修験者の下山命令から始まったと言ったが、それより前ということになる。大山詣で使われ始めたのは江戸期からだが、道そのものは、少なくとも、北条氏が江戸城を落とした1524年には、江戸城と小田原城を結ぶ道として成立していたと考えよう。

大山道は、上宿に入ると直ぐ、世田谷代官屋敷がある。

世田谷代官屋敷表門
世田谷代官屋敷主屋
世田谷代官屋敷内部

表門と主屋は、国指定重要文化財だ。主屋は、1737年の建築で、表門は、1753年と言われている。この代官屋敷は、世田谷領代官、大場氏の屋敷で、大場氏は、吉良氏の重臣だった。元は、元宿の辺りに住んでいたが、ここに移った。恐らく、北条氏に新宿の管理を任されたのだろう。

さて、大山道は、世田谷通りを越え、突き当たり、左に曲がり、又、世田谷通りを越えて続いている。二回目に世田谷通りを越えた後、これは古道ではないが都道427号を越える手前、嘗てここに道標があったことを示す石碑がある。肝心の道標は、世田谷代官屋敷内の郷土資料館にある。

大山道道標跡

移設された大山道道標

これまで、大通りが続いて古道らしくなかったが、都道427号を越えてからは、古道の雰囲気が出てくる。やがて、道は下りとなり、下り切った所の公園に、大山詣の銅像がある。

大山詣旅人、にしても、良く出来ている。

銅像の向かい、マンションの敷地には、小さな祠もある。この祠、元八幡様だったようだ。又、この辺りは蛇崩川の源流であり、水場もあったのだ。一服するには格好の場所だったのだろう。銅像の表情が、何とも良くそれを表している。作者、あるいは企画者は、よく勉強したに違いない。

元八幡様

再び坂を上り、上り切った辻にお地蔵さんがある。この辻も古道だ。

お地蔵さん

暫く進み、道は下りとなり、やがて、二子道の際、出会った鎌田酒店に出る。ゴールだ。左からは、新道も合流している。

新道に続く。

2012年10月13日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Futako-michi / 世田谷区の古道、二子道

滝坂道の経堂南道を思い出していただきたい。小田急線ガード南側に道標を兼ねた庚申塔があった。

滝坂道 南道 小田急線ガード下庚申塔

『南ふたこ道』

と、彫られている。道標に従い南下すると、現農大通りとの辻に出る。

そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

滝坂道 南道 農大通りとの辻にある庚申塔

『南二子道』

又、道標に従い南下すると、農大の手前でT字路となり、そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

二子道 農大とのT字路の庚申塔

『南大山道』

大山道は、つまり、二子道だ。大山に行くには、二子の渡しで多摩川を渡らなければならない。

と、いうことで、世田谷区の古道、第三弾は、二子道(大山道)としたい。

さて、農大さえ無ければ簡単そうなものだが、農大により、二子道は消失している。

と、いうことで、いきなり、明治初期の古地図で推理してみる。

明治初期の古地図では、農大は無く、二子道はそのまま、ほぼ、真南に南下している。やがて津久井道とぶつかり、津久井道に沿って品川用水があり、ちょうどこの地点で品川用水が南下しているが、この品川用水と袂をを断つように南西に伸びる黒い実線が二子道ではなかろうか。雑草地、畑、茶畑を縫うように走るこの道、途中には天神さんと池もあるようだ。やがて、旧大山道と新大山道の追分に向かっている。

明治初期の古地図

二子道消失部分、緑の囲み上が農大、下が馬事公苑

現代の地図と見比べると、農大、馬事公苑で二子道は消失しており、馬事公苑以南も、区間整理されているようで、二子道は残っていない。辛うじて、馬事公苑西端の道の一本西の道が、一部、残っているかな?!と、いう程度だ。

現代の地図


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さて、推理も済んだので実走しよう。

農大通りを南下し、烏山川を越え、再び台地をひたすら上ると、ここに出る。

二子道と六郷田無道(上)との出合い

ここが、二子道が農大で消失している場所だ。カーブミラーの左脇に庚申塔が見える。

農大を迂回し、津久井道に出て、少し西に行く。ちょうど、農大の正門の正面に、馬事公苑の東端に沿う道があるが、その道に入った所に、北見橋跡の碑が建っている。既述した品川用水に架かっていた橋だろう。この通りは、品川用水を埋めた道ということになる。

北見橋跡

この通りを馬事公苑南端まで行き、覆馬場との間の道を西に行き、馬事公苑西端の一本西の道に入る。少しばかり入った右手に、用賀本村稲荷があった。

用賀本村稲荷

インターネットで調べたところ、このお稲荷さんの近くには天神さんもあり、この辺りは天神山と呼ばれていたという。明治初期の地図にあったあの天神さんだ。やはり、この道が、辛うじて、二子道と重なっている。

天神山から緩やかに下る。真福寺の北端の道を東へ。馬事公苑東端の道を南下すると、大山道にぶつかる。

品川用水と大山道出合い

大山道を西へ。すぐ交差するのが、真福寺の参道だ。大山道は、この辺りだけ、古道が残っている。

真福寺

大山道は、直ぐに都道427号に接続する。やがて、首都高を過ぎ、暫くすると、追分にお地蔵さんがあった。と、いうことは、ここで分かれる道も、古道ということになる。帰り道はこちらを通ろう。

追分のお地蔵さん

さて、大山道は、瀬田の交差点で環八に接続する。大きな交差点の向こう側、道なりの道が大山道だ。暫く行くと、追分だ。左側が古道である。

暫く行くと、行善寺があった。

行善寺

開基は長崎伊予守重光、法名行善。長崎重光は、後北条氏に仕えていたが、秀吉による小田原征伐で滅亡すると、この地、瀬田に土着した。行善寺は、小田原征伐の前、だから1590年より前、永禄年間に開かれたとされている。

行善寺から先は、崖かと見まごう物凄い急勾配の坂だ。それもそのはず、古多摩川が削った国分寺崖線である。

行善寺坂

下り切ると、六郷用水、別名次大夫堀、丸子川だ。1597年に小泉次太夫により開削が開始された、これも歴史遺産だ。

六郷用水

道は、その後、再開発された二子玉川の駅前を通り抜け、やがて、多摩川に出る。ゴールだ。

二子道と多摩川出合い

さて、帰りは、約束通り、お地蔵さんの追分に向う道を行く。多摩川沿いを西へ。兵庫島を過ぎ、多摩堤通に合流して直ぐ右折がその道だ。

二子玉川小の手前の真っ直ぐな道は、1924年開業の嘗ての砧線跡だ。砂利採取の為の路線で、関東大震災の復興に大きく寄与したという。

砧線跡

NTT瀬田前の辻で再び六郷用水を渡る。この橋を『じだいゆうばし』という。勿論、六郷用水=次大夫堀から来ている。ここに、新しいものと思われるが道標と、世田谷区の説明板があった。

次大夫橋
説明板

この道が大山道であることが確認出来た。

この辺り、玉川寺に玉川太師、瀬田玉川神社、慈眼寺と寺社が集中している。が、何と言っても、国分寺崖線の急坂が凄い。これでも切り通しなのだろう、瀬田玉川神社の階段も急勾配だ。ここを昇る。

急坂

瀬田玉川神社

永禄年間に勧請し、その後、寛永3年(1626年)に、長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮した。行善寺と時期と長崎氏が共通している。この地の長崎氏との関わりの深さが分かる。

急坂をようやく上り切ると五差路となっており、西の道が慈眼寺の参道になっていて、入口に庚申塔などか建っている。

慈眼寺前石塔群

大山道、二子道はここを右に行き、二つ目の追分を左に行く。大空閣寺を過ぎ、環八を渡り、暫く行くと、お地蔵さんの追分に出る。ゴールだ。

二子道全工程地図


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さて、二子道は大山道だった。経堂から二子に向かい、大山、阿夫利神社に向う道だった。

大山は、阿夫利神社があることから、別名、雨降り山とも呼ばれ、干ばつが続き飢饉になると、農家が雨乞いに参詣していたという。

経堂は、今でも畑が残る、江戸時代は農村地帯だ。沢山の農家が、この道を二子に向かい、大山、阿夫利神社に向かったのだろう。うちの大家さんも行ってたのかな?!