2013年11月23日土曜日

Aciant Road in Setagaya, Odakyu Line of Odakyu Electric Railway / 世田谷区の古道、小田急線

今日はいつもと違うお話をご紹介したいと思ってます。

天子南面

と、いう言葉はご存知でしょうか?

『天子』とは、皇帝、天皇など、つまり王様の意味。南面はそのまま、南を向くという意味です。つまり、王様は南を向くという意味です。

これは、北の空で全く動かない唯一の星、北極星を崇め、王様を北極星に重ね合わせることで神格化する思想から生まれた言葉だそうです。北極星は北にありますから常に南を向いてますね。

この思想は、遊牧を主としていた時代に生まれたそうです。北極星が旅の道標だったからです。北極星が見えないと道に迷う。当時、道に迷うことは、『死』を意味していました。

やがて農耕の時代に入ってくると、定住し始めますから、北極星の必要性が薄れます。代わりに、収獲を左右する太陽が神様になっていきます。

しかし、北極星を神と崇める思想は無くなりはせず、日本にも入ってきます。

神社の参道が、全部ではありませんが、本殿から見て南に向いているのは、その影響です。

が、参道が南西を向いている神社があります。常陸国一宮、宮中の四方拝で遥拝される一社、鹿島神宮です。

何故、鹿島神宮の参道が南を向かず南西を向いているのか-----



鹿島神宮の参道をずっと伸ばすとどこに辿り着くか御存知ですか?

ナント!!! 富士山です。

しかも、冬至の日の入の時、夕陽が富士山に沈んで行くんです。冬至は日照時間が最も短い日、逆に言えば、次の日からは日照時間が長くなるように転換する日です。言わば"再生"の日。



鹿島神宮の参道が南西を向いている理由がこれなのか、私には分かりませんが、何だか、ロマンを感じませんか?



さて、前置きが長くなりました。本題に入ります。

鹿島神宮と富士山を結ぶライン、このようなラインを、「レイライン」と呼びますが、小田急線の下北沢から喜多見までの線路は、ものの見事にこの鹿島神宮・富士山レイラインに一致します。





2013年11月21日7:50頃、経堂駅から千歳船橋方面を望む
iPhoneの19mmではこんなにちっちゃくなっちゃいましたが
世田谷代田駅から梅ヶ丘方面を望む
ここは以前環七旧道を探検した時に知った眺望ポイント。
その時は富士山は見えてなかったけど丹沢山塊は良く見えていて『良いな』と、思ってました。
この記事を書くに中りここを思い出し、GXR A16を持って駆け付けてみました。

先日、多摩丘陵にトレイルライディングしに小田急線の先頭車両に乗った時に、真っ正面に富士山が見えたのがキッカケで調べてみたら、こんなことが分かったのでした。

小田急線は、今風に言うと、パワースポットですかね。

2013年11月3日日曜日

Modern Architecture in Shanghai, Qibao Laojie / 近代建築散歩、上海 七宝老街

浦東10年、外灘100年、七宝1,000年

と、いう言葉が上海にはあります。

五代十国時代に、この地に七宝教寺が開山し、その周りに町が形成されていったことで出来た七宝。五代十国時代は907 - 960年ですから、1,000年の歴史があるということになります。

北街と南街を結ぶ塘橋、1519年架橋。奥に見える塔が七宝教寺。

七宝老街入口

北街

南街、いつもいつもスゴイ人

七宝のような長江流域の湿地帯の典型的な水郷老街は、蘇州などありますが、完全に観光地化していて人々の生活圏とは切り離されています。

が、七宝は、昔ながらの人々の生活が残っていて、それがそのまま観光地になっています。

路地、北街を歩いていると左右にこのような路地があり人々が生活している。

うだつが残る家々

路地②

そんな、1,000年の歴史を誇る、明・清時代の町並みが残る七宝ですが、忽然とゴシック建築が現れます。

1866年に上海の神父が建てた七宝天主堂です。1866年というと、前々回御紹介した宋三姉妹の父、宋耀栄がアメリカに渡る前ですから、それ以前に、租界の外にこのような教会があったというのは非常に興味深いです。

忽然と現れる、七宝天主堂(1866年)

天主堂の内部

2013年10月13日日曜日

The History of Setagaya, Ike-jiri and Ike-no-ue / 世田谷区の歴史、池尻と池ノ上

半蔵門線の渋谷の次の駅、池尻大橋は皆さんご存じだと思います。

それと、これは少しマイナーですが、京王井の頭線の池ノ上駅も知っている方いらっしゃると思います。

池尻という地名は全国各所にありますが、元々、池の尻、つまり、池から川に変わる部分、アウトレットの意味です。

地形図を見てみましょう。

池尻の地形図
山と谷の地形が分かると思います。北側の谷は北沢川が作った谷、北沢川流路です。南側は烏山川になります。この二つの川が合流後は、目黒川とその名前を変え、東に流れています。

北沢川・烏山川合流点
左が烏山川、右が北沢川、後ろが目黒川

目黒川になった後、東に徐々に目を転ずると、何か気付きませんか?
徐々に谷の幅が狭まっているんです。R246を過ぎた辺りから、等高線の間隔が短くなってますよね。

二つの川が合流し、その後、直ぐに川幅が狭くなる。水の流れはJammingを起こし、溢れ、池になりますよね。

だからここは池尻なんです。

地形図から、池跡を想定してみました。


より大きな地図で 池尻、池ノ上 を表示

現在地図の上部にあるポイント、これは池ノ上駅です。池の北側なので池ノ上。このことからも、池尻には嘗て池があったことが分かります。

現在地図にポイントした眺望ポイントから想定される池跡の眺望

眺望ポイントへは階段で上がるが、上がった所に、『馬神』の碑。
馬にとっても難所で昔はよく馬が疲れきって命を亡くすことも珍しくなかったから、坂道には馬頭観音が祀られていることが多い。これもその一種なのか。あるいは、ここは明治の時代、軍の施設だったからそこにいた騎馬に対するものなのか。滝坂道への古道の途中に池尻見晴らし広場があるが、そこには、明治の戦役で亡くなった兵士への忠魂碑があった。それについては後日ご紹介することにする。

池ノ上駅
眺望ポイントを北上すると滝坂道に出る。この道は江戸期から既にあった古道。滝坂道を西に行き淡島通り交番を過ぎると都道420号が右から合流する。それも古道でそれを北上すると池ノ上の駅に出る。

池ノ上駅からは森厳寺へ抜ける古道を使ったが、古道らしく、庚申様が祀られていた。
又、国登録有形文化財の富士見ヶ丘教会の場所も分かった。富士見ヶ丘教会については、後日近代建築散歩でご紹介することにする。

今回のルート


より大きな地図で 池尻、池ノ上サイクリングルート を表示

2013年10月2日水曜日

Modern Architecture in Shanghai, Footprints of Soon 3 sisters / 近代建築 散歩、上海に残る宋三姉妹の足跡

三姉妹の父、宋耀栄は、海南島の貧しい商家に生まれ、アメリカで茶の販売をしていた叔父の養子(これで姓が韓から宋となった。)となり、1875年、叔父について11歳でアメリカはボストンに渡った。

商人に学問はいらぬ それに反発した耀栄は、家出してボストン港に停泊していた船に乗り込み密航を図った。13歳の時である。

簡単に船員に見つかった耀栄だったが、チャールズ船長に見込まれ、名前もチャールズ・ジョーンズ・スーンと改め、キリスト教伝道師として高度な教育を受け、大学まで卒業した。

1886年、25歳になっていた耀栄は、伝道師として母国中国の上海に戻った。

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この話、似ていませんか?

八重の桜を見ている方ならお気づきだと思います。同志社大学の創設者、新島襄に本当によく似ているエピソードです。

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上海に戻った耀栄は、同じくクリスチャンだった倪桂珍と結婚し、三男三女を設けた。この三姉妹が、宋家の三姉妹といわれる宋靄齢、慶齢、美齢だ。

この三姉妹、何がすごいかというと、、、

・靄齢、孔子の末裔の大財閥の御曹司、孔祥煕と結婚。夫は後に国民政府財務部長となった。
・慶齢、孫文と結婚。夫亡き後も夫の意思を継いで共産党で中国革命に命を懸けた。
・美齢、蒋介石と結婚、毛沢東率い、姉慶齢がいる共産党に、国共内戦で敗れ台湾に逃れた。

正に、中国を作った三姉妹だったのだ。この宋家の三姉妹の足跡が、上海に残っている。

今回は、それを訪ねた。


景林堂、昆山路135号
宋耀栄、倪桂珍夫妻はこの近辺に住み、三姉妹を生んだ。宋耀栄はここで牧師もしていた。

沐恩堂、西蔵中路316号
ここはかつて耀栄が開校した女学校でもあった。キリスト教に基づく学校の開設、そこも新島襄と同じ。
三姉妹はここで学んだ。

宋公館、陝西北路369号
三姉妹は沐恩堂で学んだ後、アメリカに留学した。留学後、それぞれが結婚し家を出るまで、
三姉妹は仲良くここに住んだ。今は、残念ながら、写真のように高い塀で閉ざされ、中は窺い知れない。

孔祥熙邸、永嘉路383、385号
長女、靄齢は、結婚後、ここに住んだ。

孫文記念館、香山路7号
慶齢は孫文と結婚後、ここに住んだ。因みに、孫文と慶齢は日本で結婚式を挙げている。
東京は九段下の学士会館だ。近くのカフェで休んでいたら閉館時間を過ぎていた。残念ながら門の外からの撮影。

宋慶齢記念館、淮海中路1843号
孫文亡き後、慶齢はここに住んだ。

宋慶齢記念館は、慶齢が1963年まで住んだ家だ。裏庭は非常に美しい。このバルコニーから眺めたのであろうか。

蒋介石・宋美齢私邸、現上海音楽学院中等部、東平路9号
国共内戦により賊軍となった蒋介石と宋美齢。共産党の中華人民共和国副主席を務め、死の直前に
中華人民共和国名誉主席の称号を授けられた宋慶齢とは、やはり扱いが違う。

慶齢が88歳で1981年に亡くなった時、蒋介石の死後アメリカに移住していた美齢はその葬儀に出席しなかった。※靄齢はこの時既に亡くなっていた。

中国の激動に飲み込まれた宋三姉妹。上海で、その足跡を辿ってみてはいかがでしょうか。観光案内には載っていない、違う上海が感じられます。

以上

2013年9月11日水曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Summer No.66 "The Sannō Festival Procession at Kōjimachi itchōme"

Painted by Hiroshige in 1856
Photo by myself in 2013

さすがは皇居、当時のまま残ってます。画面右下の岬状の出っ張り、それに続く岸の緩やかな曲線、更に続く岬。

写真の土手、画面奥の芝の色が変わっている部分が半蔵門の土橋です。

さて、ここの名所の所以は山王祭です。山王祭は、城内に入り将軍直々にお見せする天下祭りでした。それが許されていたのは、神田祭と山王祭だけです。

その山王祭の山車が城内に入って行く様を見られるのがここなのです。

さて、山王祭の練り込みルートですが、現在の地図では三宅坂を下りて内堀通りに出ています。安政五年の古地図を見て下さい。三宅坂の辺りに三宅備前の屋敷が確認できます。これが、三宅坂の名の由来です。


より大きな地図で (糀町一丁目山王祭ねり込ルート を表示

安政五年1858年古地図、地図精度の関係でずれてますが雰囲気は分かると思います。
ちょうど、『広重立ち位置』の文字があるところが『三宅備前』の屋敷です。その南の道が三宅坂。

2013年9月9日月曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Summer No.67 "The Benkei Moat from Soto-Sakurada to Kōjimachi"

Painted by Hiroshige in 1856
Photo by myself in 2013
ほぼ、当時の景色を留める数少ない江戸百です。画面右の岬状の出っ張り2つなんかは象徴的ですね。

さて、広重に描かれた美しい赤門は、井伊直弼の屋敷です。今は国会前庭になっています。写真左に塔が見えますが、これは国会前庭北庭にある時計塔です。赤門の手前にある井戸は、江戸の名水、『桜の井』です。これが、名所の根拠となります。今も南庭に残っています。

地図の精度の関係で若干ずれているが

より大きな地図で 外桜田弁慶堀糀町 を表示

この写真、桜田門から国会前に向かい10mぐらいの所からの写真です。井伊、桜田門といえば、桜田門外の変です。この撮影ポイントを過ぎ桜田門の土橋に入った所で水戸藩の攘夷派に殺害されたのでした。

井伊の死後、遺品を整理していたら、洋書が多く見つかったそうです。井伊もこのままでは日本は立ち行かなくなる、開国が必要だと思っていました。その点では全く同じ思いだったんですね。ただ、その方法が違っていた。

Ref. http://yogismessage.blogspot.jp/2013/03/blog-post.html

2013年9月7日土曜日

Modern Architecture in Japan, Tokyo Station, Marunouchi of Chiyodaward, Tokyo / 近代建築散歩、東京駅

夕日に輝く東京駅
東京駅の開業は、1914年、大正3年でした。

ドーム
日本の鉄道の歴史ですが、1872年、明治5年に新橋 - 横浜間で始まったというのは皆さんご存知の通りです。東京駅の南側ですね。その後、北は上野 - 熊谷間が1883年、明治16年に開通。西は1889年、明治22年に新宿 - 立川間が。1895年、明治28年には飯田町まで東に延長となり開通しました。東は、両国橋駅をターミナルとして1904年、明治37年に開通しています。


煉瓦高架橋、これも明治の遺産


東京駅の周りだけ、ポツンと空いていたんですね。

岩崎弥之助が一丁倫敦に着手したのを三菱一号館だと置くと1894年、明治27年のこととなります。

今の地図を見ると、丸の内の中心は東京駅ですが、それが無いまま、20年もの間、一丁倫敦だけが、ポツンと原っぱにあったということになります。だから、当時は、「三菱ヶ原」と呼ばれていたそうです。

東京駅開通後、東京駅から皇居に向かって西に真っ直ぐ伸びる行幸通り、ここに、大正7年、1918年に、海上ビルディングが竣工しました。続いて郵船ビルディング、日本工業倶楽部会館は大正9年、1920年。丸ビルは大正12年、1923年に竣工し、煉瓦造りの一丁倫敦に対し、アメリカ式鉄筋コンクリートのビル群が並ぶここは一丁紐育と呼ばれました。


このような意匠も残る。

現在の一丁紐育、東京駅より皇居を望む


ここ丸の内地区は再開発が行われ、今や、高層ビルが林立しています。が、よく見ると、百尺でデザインを分割し、嘗ての一丁倫敦、一丁紐育を忘れていないんだよというメッセージを発しています。

皇居より東京駅を望む


丸ビル、新丸ビル、日本工業倶楽部、日本生命丸の内ビルと高さ百尺でデザインが分割され統一的な景観を作り出している。

2013年9月3日火曜日

Modern Architecture in Japan, Mitsubishi Ichigo Kan, Marunouchi of Chiyoda word, Tokyo / 近代建築散歩、三菱一号館、丸の内

復元された一丁倫敦の象徴、三菱一号館

江戸時代は錚々たる顔触れの大名屋敷が並んでいた丸の内。

1858年の丸の内

維新後は、あの、大岡越前で有名な南町奉行所が在った関係からか、司法省が置かれたり、その他、練兵場など陸軍関係の施設が置かれていました。

明治13年、1880年の丸の内
歴史的農業環境閲覧システムより出典
明治21年、1888年、市区改正条例が出され、丸の内は、市街地へ転化されることになりました。陸軍は丸の内を売りに出します。当時の相場の何倍もしたそうですが、三菱創業者、岩崎弥太郎の弟にして二代目岩崎弥之助が買い取ります。造船所視察で英国に滞在中だった弥之助の腹心、荘田平五郎が、『丸の内、買い取らるべし』と電報を打ち、いずれロンドンのシティーのようなビジネス街が必要になると説いたのだそうです。

明治27年、1894年、日清戦争勃発の年、三菱一号館が竣工します。翌年には二号館が現在の明治生命館の場所に、翌々年には三号館が竣工し、馬場先門から鍛冶橋までの通りは、一丁倫敦と呼ばれました。

一丁倫敦、Wikiより

現在。奥の明治生命館が夕日に照らされ。

現在の丸の内、私はとても好きな街です。岩崎弥之助や荘田平五郎も喜んでるんじゃないかな。

2013年8月26日月曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Flower Viewing Road at Kami-kitazawa / 世田谷区の古道、上北沢花見の道

最近、世田谷区の古道探険もネタが尽きて来ました。私の場合、週末のジョギングかサイクリングのついでに探険する(と、言うか、毎回同じ所を走るというのは飽きっぽい私には無理で、この古道探険がジョギング・サイクリングを続けられている最大の要因)ので、毎週末、さぁ行こうかと思い立ってからジョギング・サイクリングに行くまでに時間が掛かってしょうがない状態が続いております。

そんな感じで何時ものように地図を眺めていると、経堂の北西部に何やら丸い道がありました。


より大きな地図で 上北沢花見の道 を表示

古道かなということで明治13年古地図を確認しますとやはり古道。

出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム

しかし、どうも腑に落ちないんです。

と、いうのもこの道、西は滝坂北道と鎌倉道の出合いから、鎌倉道を南に伸ばす向きで始まっています。東はと言うと、ぐるっと半円形に回った後、縦ラインの古道を経由し再び滝坂北道に戻っています。甲州道中に出たいんだったら、素直に滝坂北道を行けば良いものを何故?


より大きな地図で 上北沢、花見の道2 を表示

青が滝坂北道、赤が鎌倉道、緑が縦ラインの古道、黒が今回探検の古道
出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム
さては地形か?!と、地形図を見てみます。

ちょっと黒が見づらいですが・・・むしろ、今回探険対象の道の方が、アップダウンが激しいです。
ん?!大した違いはありませんね。確かに、ここは北沢川が削った谷。けど、どちらのルートも谷を越えます。

じゃあ何でなんだろうなぁと色々考えてみましたが答えは出ず。と、いうことで上北沢の歴史を調べてみました。すると、アッサリ分かりました!

江戸も文化・文政の頃になると庶民の間にも旅行がブームになって来ました。上北沢も、以下の名所で旅行先の一つだったようです。

・密蔵院の枝垂れ桜
・鈴木左内家の牡丹園
・榎本平蔵家の藤
・榎本喜太郎家の霧島ツツジ

これら花の名所をプロットすると・・・


より大きな地図で 上北沢、花見の道3 を表示

出典: 独立行政法人農業環境技術研究所、歴史的農業環境閲覧システム
見事にこのルート沿いになりました。この道は、上北沢花見ルートだったんですね。(榎本喜太郎家は見つかりませんでしたが、まぁ、近所でしょう。)

2013年8月1日木曜日

Modern Architecture in Japan, Meijiseimeikan, Marunouchi of Chiyoda ward, Tokyo / 近代建築散歩、丸の内、明治生命館


古典主義建築の集大成とも呼ばれるこの明治生命館は、1930年(昭和5年)9月に、設計は岡田信一郎・捷五郎(兄弟)、構造設計が内藤多仲で起工し、1934年(昭和9年)3月31日に竣工しました。

何故、この建築が古典主義建築の集大成と呼ばれるかというと、モダニズム建築の傑作と称される東京中央郵便局が前年に竣工しているからです。以降、古典主義建築は影を潜め、モダニズムが台頭してきます。

東京中央郵便局、Wikiより。素晴らしい写真です。
2001年から改修工事が行われましたが、30階建ての新しいビルと一体化することで、この古典主義の集大成である歴史遺産が残されることになりました。

30F建ての新ビルと共に
おかげで、お堀端の景観は、高さ百尺で統一された美しいものとなっています。