2021年1月19日火曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その4, 品川道編

前回は深大寺周辺の養蚕痕跡をexploreしましたが、その時、今昔マップを見て気付いていたんです。

遡ろうと思えば縄文時代まで遡れる、従って最も古い品川道、"古品川道" とでも言いましょうか、"いききの道" や "筏道等" とも呼ばれますが、府中崖線のエッジを行く道、この道と甲州道中に挟まれたエリア、ここが一面桑畑だったんです。

布田付近をzoom upしました。YとLを組み合わせたような記号が桑畑です。

このど真ん中を行く道、それが品川道です。

今回は、行きは古品川道、帰りは品川道を使い、養蚕痕跡をexploreしたいと思います。

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今昔マップ(1896~1909)を見るとこの沖積低地には殆ど桑畑はありません(上図参照)。古品川道と甲州道中の間は、つまり崖上は、こんなにも桑畑だらけなのに。


この時にも言いましたが、府中崖線(古品川道)より多摩川寄りの沖積低地エリアは、多摩川の氾濫原で(多摩川洪水時は遊水地の機能も果たしていました。), よって、人は住めず、しかし、水には恵まれ、肥沃な大地でしたから、一面の田畑で、千町耕地と呼ばれていました。

田畑に合った土地ということで桑畑が無かったんだと思いますが、ごく一部、多摩川沿いにポツポツとあり、それは、養蚕が国策として奨励され、爆発的に広がる前、迅速測図の時代(1880~1886)からあった桑畑です。

ここは、田畑にもならないようなところだったんだと思います。

迅速測図で多摩川沿いに桑畑が確認できる。多くが堤防の内側で、田畑にならない荒れ地中の荒れ地だったと思われる。

下記GoogleMapsを見てください。赤ポイント、赤ポリゴンが桑畑です。品川道沿いの桑畑意外に多摩川縁にもポツポツと桑畑があるのが分かると思います。



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まず最初は柳久保稲荷神社です。

柳久保稲荷神社

色々と調べましたが養蚕に関する風習は確認できず、初午祭を執り行っているかどうかの情報も見つかりませんでした。

が、今昔マップ(1896~1909)では桑畑に囲まれてますから、恐らく養蚕の無事を祈る対象だったと推測します。

画面真ん中の鳥居マークが柳久保稲荷神社、周りは桑畑

また、境内の案内によれば、元はここの南の柳窪と呼ばれるところに鎮座していたが、度重なる洪水により台地上に環座したとのこと。

迅速測図を見るとその時点(1880~1886)で既に現在地にあります。また、すぐ隣には八幡神社があったようですが、今は写真の通りです。

今昔マップ(1896~1909)を見るとその時点で既に八幡様は桑畑にとって代わってますね。お稲荷さんは養蚕守護ですが八幡さんは養蚕には役に立たない、そういうことでしょうか???

画面真ん中に配置。青ポイントが柳久保稲荷神社で、迅速測図にも稲荷の文字がある。その直ぐ東に八幡祠の文字があるが今は無い。

先を行きましょう。何度も来た道ですが、改めて、馬頭観音なんか無いかなと思いながら走ります。

馬頭観音には出会えないまま、上石原若宮八幡神社に到着です。

境内社の稲荷神社

ここで注目は御大の八幡様ではなく境内社の稲荷神社です。ここも養蚕の習慣や初午祭の記事は見つかりませんでしたが、下記今昔マップを見てお分かりの通り、桑畑の中にあったといっても過言ではなく、お稲荷さんということで、初午祭で養蚕守護を祈っていたに違いありません。

画面真ん中に鳥居マークが2つ。東のものが八幡様、西は第六天、牛頭天王、秋葉権現、天満宮の4つとお稲荷さんでした。1909年、西側の敷地は無くなり5柱全て東側の八幡様の敷地に環座されました。この今昔マップではまだ西に在りますね。この今昔マップは1896~1909年ですから、作成時はギリギリまだ残っていたということです。面白い。

先を行きましょう、車返福徳弁財天です。

車返福徳弁財天

弁財天は過去もご紹介しましたが、経典に、"水辺に住む" とあり、水神と集合し、水神は蛇や龍と捉えられ、蛇は蚕や繭を食べる鼠を食べてくれますから、養蚕農家の守護神となっていきました。

車返福徳弁財天は、やはり、WEBで検索してもさしたる情報は出てこないんですが、下記今昔マップのように、桑畑の中にありますから、養蚕の守護神として信仰を集めたと推測します。

今昔マップで確認出来る鳥居マークは2つで、東の方が今回の車返福徳弁才天と思いきや、実はそれは車返稲荷神社であり、西の方はと言うと、車返諏訪神社であって、車返福徳弁才天は今昔マップ(1896~1909)では確認出来ません。しかし、境内の還宮碑によると隣接地にあったとありますから、この辺りにあったことは間違い無く、桑畑の中にあったと言えます。

境内にある還宮碑に、嘗ての鎮座地は、豊かな自然林に囲まれ周囲の濠は川魚の宝庫だったとあるので、今の鎮座地の直ぐ西に針葉樹の地図記号があり、その直ぐ隣に4本の川が合流していますから、ここが嘗ての鎮座地ではないかと想像しています。

実は帰り道に寄ったんですが、この2つの神社もここでご紹介しましょう。

車返八幡神社の境内社稲荷神社

ここもさしたる情報は得られませんでしたが、上図今昔マップで分かる通り、桑畑の真ん中にありましたから、養蚕守護神だったと思われます。

車返諏訪神社

諏訪神社は蛇ですから、弁天様と同じく、養蚕守護神と捉えられていた可能性はあると思います。この車返諏訪神社にはさしたる情報はありませんでしたが、実際、諏訪神社が養蚕守護だとされた神社もあります

車返稲荷神社

ここは初午祭を執り行っていたそうですから、確かな養蚕痕跡と言えそうです。

先を行きましょう、府中競馬場前の馬頭観音です。

真ん中が馬頭観音

以前も言いましたが、馬頭観音は馬ですから馬繋がりで養蚕守護神となっていきました。

馬頭観音の立地

立地からして、ここもその可能性があると思います。

折り返して、飛田給駅を過ぎた辺り、道生神社です。

道生神社

ここは稲荷神社ですから、他同様、養蚕守護神だったと推測します。

先を行きましょう。赤稲荷です。

この一角、良い雰囲気ですね。

調布市史 民俗編によれば、現在もビシャ講(稲荷講)が続いているそうです。ビシャ講とは初午に行われる初午祭とセットですから、このお稲荷さんは養蚕守護神だったのでしょう。

先を行きましょう、杉崎稲荷と三峯神社です。

杉崎稲荷

ここは初午祭を執り行ってます。養蚕痕跡ですね。杉崎家によって祀られてます。

三峯神社

こちらは三峯神社です。同じく杉崎家です。

以前書いたように三峯神社は養蚕守護のお札を出していましたから、秩父は養蚕が盛んでしたし、だから、養蚕守護神として祀られてました。

中を見るとお札が・・・

みつみねじんじゃに祀られている御札

今日はここがハイライトでした。

最初発見した時、おおーっと思いましたが、よく見ると、養蚕守護御札はありませんでした。流石に、もう、養蚕はやってませんしね。

左から、盗賊除け、眷属拝借盗賊除け火防、火防とあります。お札の新しさから今も講が続いていると想定されます。

明治の養蚕が凄かった頃は、間違い無く、養蚕守護のお札ももらってきていたんだと思います。

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如何でしたでしょうか。

もう何度も行った所。正直モチベーションは終始上がらなかったですが、最後の三峯神社のお札で救われました。養蚕守護御札はありませんでしたが、講が続いていることが分かったからです。間違い無く、嘗ては養蚕守護御札ももらってた、つまり養蚕痕跡だと思います。

2021年1月14日木曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その3, 深大寺編


金子弁財天への道すがら、都道114号の旧道となる鎌倉街道が国分寺崖線を駆け下りる暗闇坂。路面はアスファルトではあるものの切り通しがよく残っている。坂上には庚申塔も。

まずはこの文章を

『八王子から横浜の絹の道をexploreしようと、事前机上exploreはほぼ完了済も、コロナで不要不急の外出に自粛要請が出ている状況で、サイクリング自体は可能と判断するも、八王子となると、ゆっくりexploreを楽しもうとすれば輪行ということになり、自粛範囲に入ってくる。

我が区世田谷でのサイクリングなら、"近所でのジョギング等の軽い運動" に含まれると判断し、世田谷区の養蚕痕跡を巡るexplore, つまり、"絹の道、 世田谷周辺版"を敢行した。』

これは、昨年4/13の投稿の冒頭部分です。

いやぁ、一年経って全く同じことを言わなければならないなんて、想定してませんでした。

絹の道はザックリ言うと八王子から町田を経由して横浜への道ですが、八王子から一山越えて〜因みに、この一山は武相国境尾根でもあるんですが〜町田に出なければならず、そこが山道で、桜の季節が終わってから年末くらいまでは藪と蚊で不快だし、何と言っても落ち葉の絨毯を行くのが楽しいので、事前机上exploreだけ済ませ、準備万端での、"冬待ち" だったんですが、コロナになり、更に一年待って、"finally" とばかり勇んだものの、"again" ということになってしまいました。

と、言うことで今回も輪行無しご近所explore, 深大寺の養蚕痕跡を巡るexploreに出発です。

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深大寺最大のイベントは、毎年3/3, 4に開かれる厄除元三大師大祭です。

深大寺は1646年にその殆どが焼け落ちたという火災に遭いますが、元三大師の像だけは火難を免たということがあり、この霊験が、七転び八起きのだるま信仰と習合し、だるま市が開かれるようになりました。

さて、蚕は繭を作るまでに4回脱皮しますが、この脱皮のことを、"起きる" といいます。 

この、"起きる" と、だるまの七転び八起きが習合し、養蚕農家は、だるまを大切な守り神として祀ってきたのです。

地図をご覧下さい。赤ポリゴン、赤ポイントが、1896年の今昔マップで桑畑が確認できたエリアです。



深大寺周辺もこれまでご紹介してきた世田谷区、杉並区、狛江市に負けず劣らず、養蚕が盛んでした。農家の7, 8割は兼業していたそうです。

だから深大寺のだるま市は、深大寺周辺の養蚕農家にとっても、とても重要なイベントだったんです。

深大寺元三大師堂、コロナで成人式が中止となり、晴れ着姿の若者たちとその親御さんたちで大いに賑わってました。良いのか悪いのか。。。

深大寺は野川の支流の底に位置し、支流が削った崖を背にしていますから、湧水が豊富です。

その湧水で水車が回され、様々に活用されましたが、生糸の糸巻きにも使われたそうです。

復元された水車

青渭神社の支流と深大寺の支流の間の台地を南へ行くと国分寺崖線を駆け下り佐須エリアとなりますが、少し東に行き昇華学園の西脇、国分寺崖線の途中に、虎狛神社の境外社、里の稲荷神社があります。

里の稲荷神社、名前からは、本宮は遠くにありお参りが大変だから里の近くに設けた里宮という意味ですが、本宮は何処なのか?

ここでは初午祭を執り行っており、繭玉に見立てた団子を作って養蚕の無事を祈る風習が今尚残っています。

初午団子をたくさん振る舞うと、繭から毛羽をとる、"繭かき" 作業が賑やかになって良いと言われ、たくさん作り、余ったものは近所に配る風習もありました。

と、言うことでここ里の稲荷神社は深大寺エリアの養蚕痕跡なわけですが、そもそも、初午と養蚕の関係は?, という疑問が残ると思います。

これについては、詳しく、本シリーズのその1で説明していますので、ここにコピー&ペーストしたいと思います。ご参照頂ければと思いますが、本記事でも簡単に説明したいと思います。

馬は養蚕と強い関係があります。
  • 中国の捜神記(東晋時代、317~420年)では、

    父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が、飼い馬に、冗談で、父を連れて帰ってきたらお前の嫁になると言った。すると馬は家を飛び出し父親を連れて帰ってきた。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聞き、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。娘も庭に出て馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。

  • 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われる、オシラ様伝説では、

    昔、ある百姓が娘と二人で住んでいた。娘は飼い馬を愛して夜毎厩舎に行って寝ていたが、ついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。それを知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様子を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその像を作るのだそう。このオシラ様伝説には続きがあって、1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕であるというものと、もう1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫(蚕)がわいていて、桑の葉で育てた。

  • 馬鳴菩薩は、

    中国の民間信仰に由来し、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされ、そこから、養蚕守護・機織りの神仏とされました。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂の菩薩が、糸枠、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものを手に持った姿です。
と、言うことで、馬が養蚕守護として祀られるようになっていったのです。

稲荷神社の本社は伏見稲荷ですが、鎮座は和銅4年(711)2月の初午の日です。

だから全国の稲荷神社は2月の初午の日に初午祭を執り行います。

と、言うことで、稲荷神社の大祭である2月の初午祭に、養蚕守護をお祈りすることになっていったのです。

因みに2021年今年は、新暦で2/23となりますね。

と、言うことで、稲荷神社が養蚕痕跡であることが分かりましたので、このエリアの稲荷神社で、且つ、初午祭を執り行っている神社を巡ってみましょう。

柴崎稲荷神社

柴崎稲荷神社です。

写真の通り、先程の里の稲荷神社同様、国分寺崖線にありますね。

境内がとても広く、それもそのはず、風土記によれば三開寺という羽黒修験の寺があったそうです。

さて、本日のハイライトがここにはありました。

榛名講の御祈祷御札

この柴崎稲荷神社の氏子エリアには、まだ、榛名講が残っているようですね。

群馬県の榛名山にある榛名神社は、特に雹よけ、嵐よけの神として信仰を集めてきました。

蚕のエサは桑ですが、桑の順調な生育には、安定した天候が欠かせません。そういったことから、養蚕農家の間で、榛名信仰が広がり、講が作られたのです。

初午祭も合わせ、決定的な養蚕痕跡と言えるでしょう。

次は中嶋神社です。

中嶋神社

近隣にあった2つの稲荷神社をここに環座し相殿としています。初午祭あります。

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如何でしたでしょうか。

もう何度も訪れている所ですが、新たなテーマで、新鮮に、explorer出来ました。暫くはこのノリで行くしかありませんね。。。