2013年3月31日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Summary / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、まとめ

1416年の上杉禅秀の乱を始まりとし、1590年の秀吉による小田原征伐まで200年近く続いた東国の戦乱だが、吉良氏が戦乱にドップリハマっていったのは、長尾景春の乱からだろう。

1476年、関東管領に次ぐ権力を持つ家宰職を与えられなかったことを深く恨んだ長尾景春は、山内・扇谷両上杉氏に対し乱を起こす。

扇谷上杉持朝の妾を妻とした吉良成高は、扇谷上杉氏と姻戚関係となったことで、扇谷上杉氏と行動を共にする。

太田道灌が1480年に高瀬民部少輔に与えた『太田道灌状』で、まず道灌は成高を「吉良殿様」と敬称をもって呼び、「吉良殿様は江戸城に御籠城になって、御命令になっていたので、城下の軍勢はそれに従って数ケ度合戦を致して遂に勝利を得た」と記している。

この頃の敵は、長尾景春勢の豊島氏だ。

豊島氏は、練馬城、石神井城、平塚城を居城とした。世田谷城へは鎌倉道で接続できる。よって、吉良氏は、1470年頃から1483年頃までの長尾景春の乱に合わせ、鎌倉道沿いに寺社を建てている。

1. 1469~84年、鎌倉道太子堂八幡ルートに北沢八幡創建

北沢八幡

2. これは吉良治家が創建だから1300年代後半の創建だが、杓子稲荷神社も、鎌倉道世田谷元宿ルート上。立地も尾根道上で見晴らしが良い。長尾景春の乱の頃は、軍事的に大いに役立っただろう。

杓子稲荷

3. 今は川崎に移転しているが、泉澤寺は元烏山にあった。1491年、吉良頼高開基、好善和尚により、吉良氏菩提寺として開山した。鎌倉道西ルートから少し外れるものの、移転先で城砦の様を呈していたことから、烏山時代もそうだったと推定されている。実際、1537年には後北条氏家臣高橋氏高により烏山砦が築かれている。

泉澤寺推定跡地、ウテナ本社


より大きな地図で 長尾景春の乱、小沢原の戦い を表示

こうして扇谷上杉氏と共に戦ってきた吉良氏だが、長尾景春の乱終了後は、後北条氏と行動を共にし、扇谷上杉氏と戦うことになる。

1524年、北条氏綱の江戸城攻撃により、江戸城主扇谷上杉朝興は河越城に敗走、30数年に及ぶ扇谷上杉氏の江戸城支配は終わり後北条氏の武蔵支配が始まった。

1530年、扇谷上杉朝興は、先年の恥を挽回すべく、河越城より世田谷城と小沢城に攻め込む。しかし、小沢原の戦いで迎え撃った北条氏康は、小沢城を死守、世田谷城も奪還し、1537年には、扇谷上杉氏主城河越城も落とす。1546年には扇谷上杉氏の反撃を抑え、河越夜戦で扇谷上杉氏を滅亡へと追いやった。

世田谷から川越は北北西の向きだ。鎌倉道やその支道を意識しなければならない。長尾景春の乱に際して建てた寺社が、この時にも役に立ったことだろう。

世田谷城にとって扇谷上杉氏の念頭に置かなければならない敵地、もう一つは、深大寺城だ。

扇谷上杉氏、時の頭領、朝興が1537年に病死し、子、朝定が十三歳の若さで跡を継ぐと、それまで侵食されていた後北条氏に対して態勢を挽回すべく、廃城となっていた深大寺城を再興した。

深大寺城は、滝坂道で世田谷城と接続されている。長尾景春の乱終了後、最初の上杉勢と後北条勢の戦いは、1510年の権現山の戦いだ。この頃から扇谷上杉氏滅亡の1546年(河越夜戦)頃まで、吉良氏は、滝坂道沿いに寺社を建てている。

1. 世田谷八幡は、源義家が奥州征伐の帰りに立ち寄った伝説があるから1087年頃には既にあり、扇谷上杉氏の深大寺城とやりあっていた最中の1546年には吉良頼康が社殿を再興させている。むしろ、地形的には出丸と言っても良さそうだ。

世田谷八幡

2. 泉澤寺は、滝坂道にも近い。1537年の烏山砦は、扇谷上杉朝興の深大寺城再興に対抗して築かれた。

泉澤寺・烏山砦推定跡地、烏山神社

1546年に扇谷上杉氏滅亡後、敵は、越後の長尾景虎、後の上杉謙信と、甲斐武田信玄となる。

上杉謙信は、1560年に小田原侵攻している。上杉謙信の関東での居城は現在の群馬県前橋市、厩城だ。世田谷城の北北西に位置し川越も通る。河越城を居城とした扇谷上杉朝興と同様、鎌倉道が進軍ルートだ。長尾景春の乱の時に築いた寺社が役に立ったろう。

甲斐武田信玄は1569年だ。甲斐武田信玄は、滝坂道が、世田谷城への進軍ルートとなる。甲斐国国府は武蔵国国府府中と官道で接続されていた。律令の時代からだ。府中から下総国、あるいは武蔵国豊島郡衛とを結んでいたのは人見街道だ。人見街道から、武蔵境通りを経由し深大寺に出て、滝坂道から世田谷に進軍する。

吉良氏は、甲斐武田信玄の進軍に備え、扇谷上杉氏との攻防が終わった1546年以降にも滝坂道沿いに寺社を追加している。

1. 吉良頼康は、河越夜戦で扇谷上杉氏を滅亡に追いやった1546年、世田谷八幡を再興している。

2. 頼康、遅くとも1573年に、常徳院を船橋から宮の坂滝坂道沿いに移転

常徳院

3. 1573年前後、元吉良氏家臣で、1524年に後北条氏が扇谷上杉氏から江戸城を奪還後は江戸城御殿医だった松原氏が吉良氏に呼び戻され福昌寺開基

福昌寺

4. 1553年、頼康は、奥沢の大平清九郎に、廻り沢の内船橋谷板橋分、つるさし在家、かつ山谷山ちう次郎右衛門分、八幡の地を任せた。この時、八幡神社勧請か?!

八幡

5. 1558年、頼康、東覚院を大願時とし母堂祈願所とする。

東覚院


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2013年3月9日土曜日

Templses and Shrines related to The Kira Family, Fukushyouji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、福昌寺

曹洞宗経堂山福昌寺

中国からの帰化人で、元江戸城御殿医、吉良氏家臣の松原土佐守彌右衛門が開基。

開山は、松原氏が常徳院から玄浦和尚を迎えて寺を建て、この地の名をとって「経堂山福昌寺」と名づけた。寛永3年(1626年)のことだ。

これまでご紹介してきた寺社と違い、吉良氏が直接開基や開山に関与したわけではないが、江戸城御殿医、吉良氏家臣、常徳院と来れば、吉良氏所縁の寺社だ。

松原土佐守彌右衛門は1588年没。常徳院は、遅くとも1573年にはあったとされるから、開基は1573年前後か。1573年と言えば、河越夜戦も終わっており、扇谷上杉氏は滅亡していて、山之内上杉氏は長尾景虎後の上杉謙信を頼り、江戸城は後北条氏の支配、吉良氏も後北条氏の家臣だ。

だから、松原土佐守彌右衛門は、後北条氏の居城である江戸城の御殿医で、家臣吉良氏によりここ世田谷の地に呼ばれ、福昌寺を開基したと考えられる。

この時代、後北条氏=吉良氏の敵は上杉謙信と武田信玄。実際、1561年には上杉謙信が、1569年には武田信玄が、小田原攻めの際、世田谷城を攻め込んだ(実際は、名門吉良氏の後光で通過のみ)。武田信玄の別働隊のルートは、六郷田無道か滝坂道で、福昌寺は滝坂道にある。

吉良氏、あるいは後北条氏は、武田信玄から世田谷城を守る為、松原土佐守彌右衛門を江戸城から呼び、武田信玄進軍ルートである滝坂道に、常徳院に続いて、福昌寺を開いたのだ。

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松原氏は、秀吉の小田原攻め、世田谷城廃城の後、この地の名主となった。

福昌寺から二子道(現農大通り)を南進し、烏山川を渡り、六郷田無道に至る台地を登ると経堂在家村の中心地だ。この辺りには松原姓の屋敷が多い。名主の子孫だ。

滝坂道に松原宿がある。この宿を開いたのは、吉良氏家臣松原佐渡守三兄弟だ。その子孫に松原土佐守彌右衛門がいる。

松原宿、あるいは松原地区と少し離れた経堂に松原姓が多いのは、一旦江戸城御殿医となり、再び世田谷に戻ったという経緯から来るものであろう。


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2013年3月5日火曜日

The History of Setagaya ward, Naosuke Ii and Shoin Yoshida / 世田谷区の歴史~井伊直弼と吉田松陰

近くにいたが、やがて、遠くに離れ、運命の糸に手繰り寄せられる様に、再び、近くに。

豪徳寺、参道と山門
豪徳寺に眠る井伊直弼の墓

世田谷は元は天領だったが、後に、その殆どが、譜代大名筆頭井伊家の大名領になった。

1633年、多摩郡八幡山、大蔵、鎌田、岡本、荏原郡世田谷、弦巻、用賀、瀬田、上野毛、下野毛、野良田、小山(以上、現世田谷区)、多摩郡岩戸、猪方、和泉(以上、現狛江市)の15村2,300石余を所領とした世田谷領が成立、結果、井伊家は、計30万石となり、譜代大名筆頭となる。

1633年に彦根藩領になった時、既にあった吉良氏開山の弘徳院を、井伊家菩提寺豪徳寺とし、井伊直弼もここに眠っている。

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松陰神社拝殿
松陰神社に眠る吉田松陰の墓

1672年、長州藩が、現在の若林四丁目一帯1万8300坪の土地を買い取り、抱屋敷とした。

吉田松陰は、井伊直弼による安政の大獄が始まると伝馬町牢屋敷に送られ、1859年10月27日、斬刑に処された。

処刑後、小塚原回向院に葬られたが、1863年、高杉晋作らにより、若林に改葬されている。

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処刑した者と処刑された者、二人は歩いても10分と掛からない所に眠っている。


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掩ふべき袖の窄きをいかにせん行道しげる民の草ばに

井伊直弼の詠んだ歌だ。

彦根藩主就任直後、井伊直弼が国に帰った時、まだ何も成果を出していないのに、領民達が暖かく出迎えてくれたことに恥じて詠んだ。

これに、偉く感心した者がいる。吉田松陰だ。吉田松陰は、この句を知り、井伊直弼を名君と賛辞した。

二人共、日本を守りたかった。その方法が違っていただけだった。

結果的に、二人が思っていた通りになった(列強の侵略を免れ、逆に、列強の仲間入りした。)ことが、救いだ。

考えを近くし、やがて離れ、今再び近くに眠る。

2013年3月3日日曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Spring No. 27 "Plum Orchard in Kamada"

Present view
Painted by Hiroshige in 1856 - 1858

奈良時代の頃、花見と言えば、中国から伝来したばかりの梅だった。平安時代になると、いつの間にか主役が桜に取って代わった。万葉集では、梅を詠った歌が多かったが、古今和歌集では逆転している。

江戸で花見と言えば、飛鳥山と御殿山、それと隅田川だった。全部、八代将軍吉宗が植えた桜だ。広重も、この3つ全て名所として描いている。

しかし、江戸庶民は梅も忘れてなかった。

江戸で梅といえば、亀戸梅屋敷、新梅屋敷こと向島百花園、そしてここ蒲田の梅園である。

蒲田の梅園は、山本忠左衛門が、それ以前よりそこに存在していた、道中常備薬大森「和中散」の店を、3,000坪の敷地とともに買い受けたのが出発点である。東海道最初の宿、品川宿を出て一里半という好立地も手伝って梅園は繁盛した。

因みに、画面右の宙に浮いているように見えるのは駕籠だ。上着が庇に如何にもぱっと脱いでぱっとかけたように無造作にかけられている。

江戸を出て、品川宿で休んだばかりなのに、ここも名所だからしょうがねぇ休んでいくかと、駕籠だからいいとこの旦那なのだろうが、ニヤニヤしている顔が目に浮かび、旅の高揚感が伝わってくる。

江戸名所図会、大森和中散
さて、今も同じ場所に残る蒲田の梅園だが、すぐ脇をうるさいR15は走ってる(当時と東海道と同じ道筋)し、京急もうるさい。又、2013年3月現在、京急の工事をしていて、往時の隆盛を示すものは何もない。残念だ。

写真だが、池が干上がっていて逆に広重の構図に近い構図を見つけることができた。分かりづらいが、東屋も構図に入れ込んでいる。

公園内に、句碑が幾つかあるのだが、その中の一つをご紹介しよう。

神酒ささぐ間に鶯の初音かな

私は、梅見の酒宴で酒を注いでいる間に鶯が鳴いたと解釈したが、奥さんは、ついこの前正月でお神酒を神様に捧げたばかりなのに、もう鶯が鳴いている。季節の移り変わりは早い。と、解釈した。脱帽。