2012年9月23日日曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 6 / 世田谷区の古道、滝坂道(パート6)

西の終点まで行ったので、今回は環七から東のご報告である。

滝坂道、環七との位置関係

パート1でも使用した地図だが、滝坂道は、コジマNEW若林店の北の道をそのまま東に行く道だ。やがて、都道423に合流する。この辺りから、都道423号は淡島通りと呼ばれる通りとなる。平坦な道が続くが、太子堂中学の辺りから緩やかに下り始める。淡島の交差点が谷底だ。滝坂道は、淡島の交差点の手前を右斜めに入る。都道420号との交差点、追分に、庚申塔などが集められた祠があった。

滝坂道、淡島交差点の庚申塔群

そのまま道なりに進むと、Up/Dwonの犯人、北沢川があった。

滝坂道、北沢川

ビックリしたのは、水が非常に綺麗なこと。アメリカザリガニや、きれいな婚姻色に染まったヤマベが確認できた。

滝坂道は再び淡島通りに合流する。下った道を再び緩やかに上り、筑波大付属駒場高校の辺りでお地蔵さんが続けて2つあった。

滝坂道、筑波大付属駒場高付近のお地蔵さん
滝坂道、駒場地蔵尊

都立駒場高校を過ぎた辺りから、再び下る。下った先は松見坂の交差点、山手通りとの合流だ。滝坂道は、山手通りの直ぐ脇の道だ。勾配を緩やかにする為嵩上げされた山手通りに階段で上り、真っ正面の道、ここが滝坂道だ。山手通りを渡って直ぐのマンションの入り口付近に、石橋供養塔があった。この坂を登り切った辺りに、嘗て、三田用水があったことに由来する。坂を登り切り、旧山手通りを渡りそのままの道が滝坂道だ。道は再び下り、又上がる。上がったところが道玄坂上、終点だ。

それにしても、渋谷は本当にUp/Dwonの多いエリアだ。地形図を見てみよう。

滝坂道、松見坂、道玄坂

左下の黒い線が目黒川、右上は渋谷川だ。松見坂の交差点の谷は目黒川の支流が削った谷、道玄坂の谷は渋谷川の支流が削った谷である。

それと、今は若者の街、渋谷だが、明治初期の地図を見てみる。

説明を追加

一面、畑、茶畑、樹林地など、のどかな田園風景だったのである。坂上からの眺望は、さぞ、美しかったのではなかろうか。美瑛のように。

ここから先、日比谷湊(日比谷公園)へは、渋谷駅を通り、宮益坂でR246に合流し、三宅坂から内堀通りを日比谷公園までの道筋と思われる。律令の時代や鎌倉時代には、江戸城は無かったから、この道ではないかもしれないが、少なくとも、江戸に入ってからはこの道と思われる。

さて、滝坂道、パート6まで及んだが、これでようやく完成である。最後に、滝坂から人見街道の推定道筋、道玄坂上から日比谷湊までの推定道筋を加えた、滝坂道の全工程の地図、それと、地形図を載せ、滝坂道のご報告を終わりとさせていただく。

御付き合いいただいて、ありがとうございました。


より大きな地図で 滝坂道 を表示

滝坂道、全工程地形図

本当に、Up/Dwonを避けて道が作られている。パート1でご紹介した、赤で囲っているエリアは本当にものの見事だ。それより西の仙川、東の北沢川、目黒川、渋谷川は仕方が無いだろう。避けようとすると大回りとなってしまう。

今まで、古道Exploreは、江戸期の地図、明治初期の地図を頼りにしてきた。今回、地形が密接に絡んでいることを知った。幅が広がった。非常に興味深かった。

以上

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 5 / 世田谷区の古道、滝坂道(パート5)

滝坂から府中への道筋だが、明治初期の地図から推察すると、3本が候補として挙げられる。

滝坂道、滝坂から府中への道筋候補3本

右下の黒が滝坂で、上で東西に走る道が人見街道である。滝坂から府中へ至る道は、人見街道を経由していたと考え、すると、推察すべきは滝坂と人見街道を結ぶ道となる。

赤の候補1は、上ノ原五差路から北上し三鷹市と調布市の境界を行く道である。古道は境界地にある傾向があるからだ。

黄色の候補2は、上ノ原五差路を素直にそのまま西へ行き、武蔵境通りを北上する道である。古道は、『真っ直ぐ』が特徴だからだ。本当は、武蔵境通りで北上せず、そのまま西に行きたいところだが、道が無い。

ピンクの候補3は、仙川キリスト教会の少し先で北上し、都道114号の手前で西に向かい、候補1の境界道に接続するルートだ。

それでは実際に走ってみよう。まずは候補1と2である。

滝坂から暫く行くと、目の前にものすごい下り坂がある。その直後には上っており、谷底に落ちるイメージだ。谷底に降りてみたら、中仙川遊歩道があった。そう、ここは川跡、正に谷だったのである。

滝坂道、中仙川遊歩道

中仙川から上る。下ったら上るのだ。自転車で、ギヤを軽くしギリギリ上れる程の急勾配。ここが本命とは思えない。上った先が上ノ原五差路だった。

上ノ原五差路の追分には、昭和50年代に建てられた新しい馬頭観音があった。昭和50年代に新規に馬頭観音を立てるとは考えにくい。恐らく、元々あったものが崩壊した為、建て替えたのであろう。

滝坂道、上ノ原五差路

ここを左に行くと候補2の道筋、右に行くと候補1だ。候補1は、中仙川西原のT字路から、本来なら消防大学校の中を通り、次に海上技術安全研究所の中を通って東八道路に出、三鷹郵便局前のT字路で人見街道に接続している。殆どの道筋が失われているのだ。人見街道との接続点の写真がこれである。

滝坂道、人見街道との接続点

次は候補2。上ノ原五差路をそのまま素直に真っ直ぐ西へ向かう。上ノ原小入口の手前の追分に、庚申塔があった。

滝坂道、上ノ原小入口追分の庚申塔
滝坂道、上ノ原小入口追分の庚申塔正面
滝坂道、上ノ原小入口追分の庚申塔右面
滝坂道、上ノ原小入口の庚申塔右面

右は大沢に向かう道、左は深大寺に向かう道である。ここで、深大寺にちょっと寄り道。すると意外な発見があった。

深大寺元三大師参詣の道標

元滝坂上にあった道標が移設されていたのだ。寄り道の結果、滝坂道に関する歴史遺産が発見でき、嬉しかった。

上ノ原小入口の追分に戻り大澤道を行く。しかし、これといった歴史遺産もなく、人見街道に辿り着いた。

さて、既述したが、候補1と2は考えにくい。中仙川の谷越えがあるからだ。地形図を見てみる。

滝坂道、中仙側谷越え地形図

台地標高は約50m、谷底は約30mで、20mの高低差がある。その後、台地に再び上がった後は平坦だが、本当に、この谷底はひどかった。

実は、候補1か2が本命と思い実際に走ったものの、この谷越えを体験し、候補3を考え出したのだ。

候補3を実際に走ってみる。これといった歴史遺産は無いものの、道は平坦だった。本命は、この道ではなかろうか。

以上

2012年9月19日水曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 4 / 世田谷区の古道、滝坂道(パート4)

滝坂道は、経堂小学校を過ぎて暫く行くと、ヨークマートのところで追分となる。

滝坂道、古府中道との追分

滝坂道はここを左に行くのだが、右の道も大化の改新より前に成立したと言われる相当な古道で、古府中道と呼ばれている、府中に続く道だ。

暫く行くと、八幡山一丁目のところで、滝坂道は途切れる。HondaCars東京中央を過ぎ、交差する道を横切りそのまま進み、突き当りを右に行き都道118号に出たら、都道118号を渡り、ファミリーマートの角を右に曲がり、交差した道が滝坂道だ。ここを左に行く。※地図参照

暫く行くと、突き当りとなり、右を向くと、八幡山の地名の由来となった、八幡神社がある。

滝坂道、八幡山八幡神社

創建年は不明とのことだが、吉良氏が源氏、足利の流れを汲む家であることと、源氏と八幡神社の関係を考えると、遅くとも、吉良氏の時代には創建されていたと思われる。

そのまま進むと滝坂道は明治大学八幡山グラウンドの南端に沿って進み、やがて、下り坂となる。滝坂道 南道以外、滝坂道の本道では初めての下りである。環七⇔東京世田谷線の間のご報告でもご報告したが、あれだけ避けていた低地への下りに、とうとう捕まるのである。

下った先は、避けに避けてきた、あの烏山川だ。

滝坂道、烏山川

今は川は暗渠とされ、緑道となっている。

そのまま道なりに行くと、環八と都道118号線の交差点、千歳台に出る。この後滝坂道は、都道118号線となり、緩やかに上りながら広い道が続く。暫く進むと榎の交差点に出る。ここで、南東⇔北西方面に交差する道が、古道である六郷田無道である。ここから滝坂道は南西に進むが、ここから再び細い道となり、古道の風情が復活する。

自転車で5分もしない内に、又、下りとなる。折角、烏山川低地から上って来たのに。下り坂の途中で、恐らく新しいものと思われるが建てられた時期が不明の、富士見小路の石碑があった。少し行くと、右手に安穏寺がある。

滝坂道、富士見小路石碑
滝坂道、安穏寺

安穏寺の写真を見れば、どれだけ下っているかお分かりと思う。

安穏寺は真言宗智山派で、途中、荒廃時期があり正確な開山年は不明も、元禄年間と言われている。曹洞宗ではなく真言宗。元禄、つまり、徳川の時代であり、吉良氏の時代ではない。だから、真言宗ということか。

坂を下りきったところに、お地蔵さん、庚申塔、馬頭観音が集められていた。

滝坂道、安穏寺坂下石像群

ここで交差する道も江戸期には存在していた道ではあるが、この集められ方からして、元からここにあったわけではないだろう。

直ぐ先で祖師谷公園を右に見て、仙川を渡る。岸と川面の落差が激しい。石神井川のように、嘗ては渓谷だったことを偲ばせる。

滝坂道、仙川

滝坂道を渡ってすぐ右手に、上祖師谷神明神社と石橋供養塔がある。

滝坂道、上祖師谷神明神社
滝坂道、石橋供養塔
上祖師谷神明神社は1700年前後の創建とされている。吉良氏の影響が無い江戸期の神社、だから八幡様ではなく神明神社か。

さて、ここから再び上りだ。下ったら、上らなければならない。もう一度言うが、あれだけ避けてきたのに、何故、この道を選んだのか。この道が、律令の時代に成立し、武士の時代=軍の時代である平安、鎌倉、戦国時代も使われていた滝坂道なのか、疑問に思ってしまう。

上り切ってファミリーマートを過ぎると直ぐの追分に、庚申塔がある。

滝坂道、追分の庚申塔
滝坂道、追分の庚申塔ズーム

滝坂道は、都道114号線を横切り、島忠ホームズ、桐朋学園、京王線を過ぎると、とうとう、仙川二丁目の交差点で甲州街道に出る。

長くなったがあともう一息。仙川二丁目の交差点を渡り、西に向かうと直ぐに甲州街道から右に分岐する坂がある。これが滝坂道だ。

滝坂道、滝坂

雨が降ると、雨水が滝のように流れ落ちるから滝坂道と呼ばれた。分岐点には、滝坂道の案内石標がある。

滝坂道、滝坂案内石標

坂を下る。途中に薬師如来坐像とお地蔵さんがある。古道Exploreしていて、初めての薬師さんである。『何故?』とよく観察してみると、墓標だった。生前、病気で苦しんだのか、あの世では苦しむことの無いよう、薬師さんを墓標にしたのだろう。愛、感謝だ。

滝坂道、薬師さんとお地蔵さん

滝坂道はこの後甲州街道に接続して終わる。

さて、振返ってみると、実際にサイクリングしてみて、ここが本当に滝坂道なのか疑問に思ってしまうほど、高低差があった。烏山川の高低差はまだしも、仙川の高低差はなかなかきつかった。戦国時代、ここを、甲冑を着て走り抜けるのはきついだろう。

又、課題が見つかった。この道が本当に律令の時代に成立し、戦国時代利用されていたのか?

次回は滝坂道と、滝坂道から府中に続く道をご報告する。滝坂道から府中に続く道は、色々と調べたが、これといった情報が無い。だったら、推理するしかない。

以上

2012年9月15日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 3 / 世田谷区の古道、滝坂道パート3

東急世田谷線沿いの都道427号、これも古道で、鎌倉道である。鎌倉道を渡り、滝坂道を西へ行く。直ぐに、乗泉寺世田谷別院がある。乗泉寺世田谷別院は、近代的な建築だ。趣が無い。(すみません)

直ぐ隣には、山門と木々の緑のコントラストが美しい曹洞宗 常徳院がある。

滝坂道、常徳院
開山年は、1486年に室町幕府第9代将軍足利義尚が開山したという説があるが、1573年の吉良氏印判状に記載があることから、少なくとも1573年には在ったとのこと。いずれにしても、吉良氏が支配していた時期だ。吉良氏が開山にかかわっていたことは明らかだろう。

さて、滝坂道に話を戻す。暫く行くと追分があり、そこに、庚申塔とお地蔵さんがある。

滝坂道、北道と南道の追分
滝坂道、北道と南道の追分にあるお地蔵さんと庚申塔

この追分は、滝坂道の北道と南道の追分だ。北道はそのまま真っ直ぐと台地を進み、南道は烏山川が削った低地へ一度下り、再び台地に上る道筋となっている。前回の記事にも書いたが、どう考えても北道の方が都合が良いはずだ。何故、南道が出来たのか。。。

今回は両方の道をExplorerするが、まずは本道と思われる北道から。滝坂道 北道は、本町通り商店街となり、小田急線経堂駅前に出る。

滝坂道 北道の古道の道筋

小田急線のガードを潜り、すずらん通りが滝坂道 北道だ。これといった歴史遺産もないまま、経堂小学校に至る。ここで左(南西)から合流してくる道が、滝坂道 南道である。

北道と南道の追分に戻り、今度は南道を行く。追分を南道に入ると直ぐ、又追分となる。滝坂道 南道はここを右(北)に行くのだが、左(南)もまた古道だ。この三角地帯は畑となっていて、境界地には樹齢が50年や100年じゃ利かないだろう巨木が聳えている。昔からの農家なのだと思う。世田谷の良いところだ。

滝坂道 南道、追分直後の畑

暫く進むと烏山川が削った台地に下っていく。下った先にある御屋敷の門が素晴らしかった。不老門というらしい。

滝坂道 南道、不老門

先に進む。滝坂道 南道も、古道らしい道筋が楽しめる。

滝坂道 南道、古道らしい道筋

暫く行くと、農大通りとの交差点に出る。この農大通りも古道で、二子玉川に続く道であり、二子道と呼ばれている。この追分に、庚申塔があった。

滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 正面
滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 西面
滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 南・東面

道標に従い、府中(西)に向かう。直ぐに、1624年開山のこれもやはり曹洞宗 福昌寺がある。が、それもそのはず、開山は常徳院の第八世住職年齢玄甫大和尚だ。

しかし、福昌寺の歴史はそこからではない。当時の江戸城のお抱え医師だった、松原土佐守彌右衛門が開基だという。この、松原土佐守彌右衛門は漢方医で中国から帰化した人物だった。松原土佐守彌右衛門は1588年死去なので、遡って後北条氏が支配する江戸城だ。後北条氏と言えば、吉良氏との関わりが深い。吉良成高の息子頼康は、北条氏綱の娘と政略結婚し、吉良氏は後北条傘下に入っている。つまり、この福昌寺も、吉良氏が建てた寺といえる。

滝坂道 南道、福昌寺

話を滝坂道に戻す。暫く行くと小田急線のガードに出るが、その手前に、庚申塔がある。

滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔正面
滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔 西・南面
滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔 西・北面

道標に従い、西に行く。西通り商店街が滝坂道 南道だ。直ぐに追分があり、お地蔵さんがある。

滝坂道 南道、子宝地蔵

この追分を右(北)に行くのが滝坂道 南道である。左(南)の道も古道だが。暫く行くとT字路となる。ここを右に行くと経堂小学校で、滝坂道 北道と合流する。このT字路に、金網で囲まれた何とも不思議な稲荷神社がある。

滝坂道 南道、T字路の稲荷神社
稲荷神社ということで、恐らくは屋敷神として祀られていたが、屋敷が無くなり、神社だけが残ったのだろうが、何故、金網で囲まれているのか。。。

北道と南道、北道が本道と思われるが、地形図を見てみよう。

滝坂道、北と南

ちょっと分かりづらいかもしれないが、色が濃い方が北道、薄い方が南道だ。北道は台地の上を走っている。南道は、一度烏山川が削った低地に下り、小田急線のガードを潜った辺りから西通り商店街を上っていく。実際にjoggingしてみても、北・南道の追分から暫く行った所で台地から低地に下りる下り坂となっているし、西通り商店街は緩やかな上りが続いていた。

何故、わざわざ一度下って又上るのか。。。

それと、写真を見てもお分かりの通り、南道の方が、庚申塔やお地蔵さんなど、歴史遺産が多い。北道には追分以降、何も無い。

推理してみよう。


  • 道は、江戸時代以降は庶民も使っていたが、それ以前は基本的に軍用だった。
  • 北道は台地上、平坦。南道は上り下り。
  • 庚申塔は、道教に由来する庚申信仰によるものだが、仏教、神道、修験道などが複雑に絡み合った信仰で、仏教では青面金剛を本尊とし、神道では猿田彦とした。猿田彦は、邇邇芸尊が天から葦原中国に降り立たんとした天孫降臨の時に、足元を照らし道案内したということから、道祖神と同一視されていた。だから、村境や追分、辻などに建てられている。
  • お地蔵さんも道祖神と習合している。
  • 共に、江戸時代に盛んに建てられた。


北道は公の道で、南道は庶民の道だったのではないか。北道は江戸時代以前に成立していて、南道は江戸時代に成立した。北道は軍用の道。だから、平坦でなければならない。南道は庶民の道。だから、上り下りを強いていた。

次回は、経堂小学校より西をご報告する。

以上

2012年9月11日火曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 2 / 世田谷区の古道、滝坂道パート2

ここが、問題の地点である。


より大きな地図で 滝坂道、問題の地点 を表示

ん? 問題?と、思った方は、前回の記事を、ご参照いただきたい。

さて、問題の地点に戻る。赤が滝坂道、黄色が都道423号、青が烏山川である。西からの道筋を考えていただきたい。多少の凸凹があるものの、都道423号の方が、『まっすぐ』ではなかろうか。

この、『まっすぐ』というのは、古道の第一条件である。道の細さといい、微妙な曲がり具合といい、実際、今はこちらが都道に指定されているし、この道も、江戸期には存在していた。

宿場の出入り口である直角カーブを作る為というのも考えられるが、この地点に作る必然性が分からない。

と、いうことで、地形図を見てみた。で、答えが分かった。

滝坂道、問題の地点の地形図

もし、そのまま行っていたら、都道423号を選択していたら、坂道を下ることになる。『下る』ということは、その後に、『上る』ということだ。ただ歩くだけならまだ良いが、殆どの場合、荷物があっただろう。なるべく平坦の方が良いのだ。都道423号の側は、烏山川が削った谷だったのである。

実際に都道の側もjoggingしてみた。実際に走ってみるとよく分かる。環七の側から走ったのだが、直ぐに下りとなり、暫くは平坦だったが、柄杓の底に当たる辺りから、上りとなり、つらかった。

柄杓の最後の部分、お地蔵さんの手前の写真がこれだ。

滝坂道、問題の地点、坂下よりお地蔵さんを望む

だから、滝坂道は、赤の方なのだ。この謎解きが、古道Explorerの醍醐味である。

最後に、もう一度言うが江戸期から存在していた都道423号の追分にあった綺麗な庚申塔をご紹介して終わりとさせていただく。

滝坂道、都道の側の綺麗な庚申塔

次回は、東急世田谷線の西側をご報告する。

以上