2016年12月29日木曜日

上海の歴史、南市(上海でも古地図、古道), パート2

(続きです。)

復興路を渡って光晵路を行きます。ここは南市の南北のメインストリートらしい。

でもこのレベル。。。

復興路から南側はまだ政府の手が入ってないみたい、、、って言うかこの時やってたようです。だからただでさえ汚いのに益々汚いですね。

因みに、前回記事の復興路より北の区域が漆喰塗り直されてきれいになってた件ですが、あれは政府が実施してます。費用も政府が出してます。その代わり、有無言わせないんですけどね。


これはどうでしょう。

恐らく民国の時代だと思います。

ところで、「民国の時代」って分かりますか?

日本で学校で教えないからな。中華民国のことです。辛亥革命から共産党に内戦で敗れるまでの時代。


これはもしかしたら木造で、だとすると清の時代かもしれません。


橋家路に着きました。ここは、商店街ですね。夕方だったので賑やかです。


ここは歴史遺産ですね。徐光啓が住んでた、と、いうことは明末の建物です。しかし、保護してる割には放置だから汚いな。なんか張り紙してあってもうすぐ壊されちゃうかな。


折り返しで兪家です。石庫門が残ってます。


良い感じの通りですね。よく見ると軒先で爺さんが椅子に座ってます。


折り返して又橋家路。石庫門が多く残ってます。



最後に梅家街。


どうでしたか?

上海のイメージとは程遠い、でもこれがReal上海です。ちょうど100年くらい時が止まっている感じです。

と、いうと、三丁目の夕日的な感じがするんですが、実際、復興路から北は漆喰が塗り直されてきれいになってましたから、そんな雰囲気にならないこともないんですが、現実としては、上海の他の区域と比べると、結果的にスラム街のような感じなんですよね。観光客も来ないから珍しいし、生活が軒先に溢れるので、言ってみれば他人の庭先に入るようなものですから、きれいな格好して一眼構えて、というのは、総合的には、あまりお勧めしないです、観光としては。書いときながら、ですが。

2016年12月28日水曜日

上海の歴史、南市(上海でも古地図、古道), パート1

上海県城古地図東半分、1841年頃

上海県城古地図西半分

この古地図は南市、つまり、上海県城内の1841年頃(アヘン戦争の真っ最中)の古地図で、二本実線は水路で、一本点線がfoot pathだ。

西半分は現代地図と見比べると何となくはっきりしないが、東半分は割とはっきり分かる道が残っていて、それが下の現代地図の赤線だ。


拡大しないと分からないので、拡大して確認していただければと思うが、四牌樓から東西姚家に行く道、東街なんかは明瞭だ。これが分かると位置的に学院路が分かってくる。古地図には通りの名は未記載だが。同様に、光晵路が分かり、兪家と梅家街は古地図に記載アリだから分かって、すると橋家が分かる。

と、いうことで、今回は、上海でも古地図、古道ということで進めたい。

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まずは方浜からの四牌樓入口。このような門が残ってます。


八百屋さん。地べたに野菜置いてますが、こんな感じです、どこも。


多分、個人的に、でも商売として洋服のお直しなんかをやってるんだと思う。

これは商売だけど、上海の人はこうして家の軒先に椅子持ってきて座るの好きみたいです。よく見る。

でも注目してもらいたいのはこのおばちゃんたちの左。パイプに豚バラ、腸詰め干してます。上海のこの季節の風物詩。


このおっさんは料理中。この南市の古い住宅は、共同住宅なんですが、風呂、トイレ、流しは共同で、外にあります。

このおっさんの場合は、軒先が好きというわけではなく、これしか方法が無いのです。


四牌樓路から西姚家、東姚家に入りましたが、マンションがあるだけでつまらない道だったのでスルー。東街に入りました。ここは嘗ての白物家電中古品屋さん通りだったんですが、全部無くなっちゃいました。汚い通りだったし、偽物も多く販売されていたので、政府に整理されたんでしょう。

で、残っていたチャリ屋のおっさん。軒先&椅子&昼寝、王道を行ってます。


で、このおっさんの家の隣の隣。地震が無いから大丈夫なんだろうけど。。。


学院路に入りました。学校は無いのに、何故、学院路なのか。恐らく、ここに嘗て文廟があったからだと思ってます。因みにこの通りには嘗て県治もあり、南市のメインストリートだったんだと思う。

四牌樓、姚家、東街と来ましたが、写真でも分かると思いますが、パッと見、きれいなんですよね。以前来たときはもう汚かったんですが、通りに面した側は漆喰を塗り直してきれいになってます。

学院路もそうだったんですが、ふと、上を見上げると・・・・・


そんな学院路には似つかわしくない車で最後締めます。

続きは次回


2016年12月26日月曜日

上海の歴史、外灘

広東路を抜けると一気に視界が開ける。

私はいつもここで左折する。

顔を左に向けるとそこには朝日を浴びた近代建築群。外灘だ。




週末の朝、この光景を見ると自分が上海半分、東京半分の生活をしていて、上海でも自分のリズムで生活できていることを実感し満足する。

さて、外灘は建築様式を見るとイギリスっぽさ満点だが、意外にも、日本と深い関わりのある建物も少なくない。

まずはこの広東路と中山東路の角にあるのは日清汽船。三菱の御大将、岩崎弥太郎が作った会社だ。


次は台湾銀行。その名の通り台湾の銀行だが、台湾が嘗て日本の統治下にあった頃の建物だ。写真では見えづらいがその奥には三井、三菱、住友の三大財閥銀行も並んでいる。


横浜正金銀行。横浜の神奈川県立歴史博物館は元横浜正金銀行。その上海支店だ。


横浜正金銀行の北隣、北京路と中山東路の角という当時の一丁目一番地に陣取るのは、嘗てのジャーデン·マセソン商会。この会社の長崎代理店がグラバー商会だ。ジャーデンが無かったら、維新は無かった。


さて、この辺りで顔を右に向けよう。黄浦江の対岸、浦東地区には打って変わって新しい高層建築が聳え立つ。栓抜きのような形をしているのは森ビルで、その右、建築中(この写真を撮った時は。今はすっかり完成している。)の世界一の高さを誇るビルのエレベータは日立だ。こちらにも日本の影が。


前に進もう。川風が気持ち良い。黄浦江の蘇州河との合流点の先は日本郵船。ここは嘗ての長崎⇔上海航路の発着場。芥川龍之介もここで上海に上陸した。


日本関係はひとまずこれでお終い。

左に目を転ずればGood View. ブロードウェイマンション、外白渡橋、英国領事館、上海郵政ビルだ。


私はいつもここで折り返す。体も温まってきた。汗が噴き出す。

南へ

共同租界とフランス租界の間には共同施設、気象台がある。


ここから南はフランス租界だ。入っていきなりこの建築。アールデコの極み。初めて見た時は、ごく最近の建築とばかり思っていた。しかし、旧イギリス租界(共同租界)との違いに驚く。正に、建築博覧会だ。


フランス租界の終わりは東門路。ここから先は華界。1200年頃から貿易港として栄えた中心はここ十六舗だったが、今は影も形も無い。


さて、広東路まで戻ってアパートに帰ろう。ちょうど一時間。これから帰って洗濯して買い物行って晩飯作りです。

2016年9月27日火曜日

久良岐郡衙~武蔵国衙間官道

さて、今回は、久良岐郡衙~武蔵国衙間官道です。

前回都築郡衙~武蔵国衙間官道の時にも言いましたが、武蔵国衙、都築郡衙、久良岐郡衙は見事なまでの直線で繋がっているということなので、都築郡衙~武蔵国衙は前回と重なるわけです。

なので今回は都築郡衙~久良岐郡衙ということになります。

今回は割とあっさりと道が決まりました。




都筑郡衙〜武蔵国衙間官道と延喜式古代東海道との交差点からそのまま横浜上麻生道路を南下、鶴見川が恩田川と分かれる所まで行きますが、ここまでは鶴見川が削った崖線上に縄文から安土桃山時代までの史跡が残ります。

多摩川と似てますね。

ここ鶴見川も海から川を遡って、何らかの集団が入って来て、ここに根付いたのかもしれません。

と、言う話になるとこの辺りに住んでいる私のようなロマン派ミステリーハンターが思い浮かべるのは杉山神社です。

このルート上にもたくさんありました。


  • 市が尾杉山神社、江戸初期、五十猛
  • 佐江戸杉山神社、室町?、五十猛
  • 鴨居杉山神社、室町、ヤマトタケル、アマテラス
  • 星川杉山神社、詳らかならず、ヤマトタケル

前回、都筑郡衙〜武蔵国衙間官道では、


  • 鐡神社、室町、五十猛


前々回、橘樹郡衙~武蔵郡衙では、


  • 末長杉山神社、詳らかならず、五十猛
  • 久本神社、詳らかならず、杉山社2社を合祀するもその2社の祭神知れず

出雲の神: 大国主の祖先: スサノオの子: 五十猛が多いですね。

と、なると、出雲族が鶴見川を遡って・・・と、考えたくなりますが、出雲族は武蔵国造だから埼玉の辺りで、だとすると鶴見川を遡っては来ないでしょう。

概ね、杉山神社の祭神は、私のExplorerルート沿いにあった杉山社と同じで五十猛やヤマトタケルが多いようですが、そんな中で面白い杉山を見つけました。


  • 新吉田杉山神社、詳らかならずも安房国から移ってきた一族が祭ったとの伝承有、現在の祭神は五十猛
  • 茅ヶ崎杉山神社、674年、安房国安房神社神主の忌部勝麿呂が御神託によって、武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命・天日鷲命の孫・忌部氏の祖)の三柱を祀った「杉山神社」としたことにはじまる。


杉山神社の謎

どうもこれが正解のような気がします。

多摩川は渡来の匂いプンプン、でも鶴見川は忌部氏でした。すぐ近くなのに川によってこれだけ変わるんですね。面白い。

さて、佐江戸、鴨居で鶴見川を渡ったら尾根道です。ここは橘樹郡と都筑郡の境で鎌倉街道の伝承もあるみたいです。航空写真で見ると畑がまだ多く残っているようです。さぞ、気持ちが良さそう。楽しみです。

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時間を稼ぐ為と体力の消耗を防ぐ為、だって、多摩丘陵は本当にUp and Downがきついから、R246ですすっと市ヶ尾まで。しかし、ホントーーーーーに、この道は嫌ですね。車は多いしスピード出してるし道も狭いし。これだったらUp and Downしてでも大山街道旧道の方が良かったかなと思ってたらもう着きました。

東福寺西側の追分を横浜上麻生道路方面に行くとそこはもう古道の雰囲気。そこかしこに庚申塔など石塔があります。

鎌倉街道 中道との追分付近の石塔群

鎌倉街道 中道との追分を過ぎると河輪神社があります。

河輪神社、今の名は川和八幡神社

この神社、『三代実録』の貞観17年(875年)に「武蔵国正六位上河輪神従五位下を授く」とあり、相当な古社です。ここが官道の1つの証拠ですね。

さらに先に行きますと、貝の坂旧道があります。

貝の坂旧道、この先は住宅も見え雰囲気無し


ここ、事前調査段階では、相当に期待してたんですが、階段なんで担がなきゃならないし、何週間も降り続いた雨でぐしょぐしょだし、早朝だから蜘蛛の巣だらけだし、夏なんで草ボーボーだしで、イマイチでした。

貝の坂旧道は早々に退散し、佐江戸の東漸寺に向かいます。ここは744年、あの、行基の草創によるそう。古寺です。

東漸寺

出崎橋で鶴見川を渡り、竹山団地手前から尾根道に入ります。が、ここが相当にきつい坂。早速足付きしてしまいました。

やっとこさ、尾根まで上がったら、中世の丘の上のハイウェイです。今日は久しぶりの晴れ間ということでしたが、出発からここまではずっと曇り。でも気持ちの良い道でした。

鎌倉街道の伝承も残る尾根道。ここは農業専用区。眺望が良かった。
どこまでも続く畑

なんとこの尾根道は和田町まで続きます。和田町から保土ヶ谷へ。神明社に立ち寄ります。

神明社、970年に天照大神そのものがこの地に来たことが創建の由来という。

そしてここは相州道と古東海道の交差点です。

道標と

保土ヶ谷宿を行き、ここで左に曲がります。

東海道と金沢道との交差点

この後、石名坂という鬼勾配の坂を上り(勿論、押し)、せっかく上ったのにあっさり下って、首都高を越したらまた鬼のような勾配で更に下って井土ヶ谷を通って久明寺に到着です。

久明寺

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このルートは初めてだったし、史跡も多く楽しかったです。特に、丘の上のハイウェイは、冬、走りたいですね。大山、富士の眺望が良さそうです。

それにしても今回も痛感させられたのは多摩丘陵のアップダウンです。獲得標高、今回は700メートルでした。山越えんのと変わんないですよね。

2016年9月18日日曜日

都筑郡衙〜武蔵国衙間官道

さて、今回は、都筑郡衙〜武蔵国衙間官道である。

いつものように、スタート地点とゴール地点を直線で結び、古道を探す。

が、芳しいのが無いな。

強いて言えば神奈川県道13号かな?!でも、これ川沿いの低地でつまんなそう。

調べてみよう!

そのものズバリは勿論無いんだけど、大先生の記事がありました。

東京西部の古道マニアにはスッカリお馴染みの稲城南山の鎌倉街道。武蔵国衙、この稲城南山の鎌倉街道、都筑郡衙、久良木郡衙が見事なまでの直線で結ばれてるそう。

これを頼りに再び迅速地図と格闘すると、、、出ました。って言うか、これ、鎌倉街道そのもの?!
どうも、官道を活用して鎌倉街道になったらしく、これで合ってるみたいです。

さて、この道は何度か行ってるけど、、、歴史深い所だからもう一回行ってみるか!と、いうことで、ルート決定です!


今回は距離ありそうなんで、鎌倉街道 中道 本道で二子玉まで行って、多摩サイで是政までスーっと行って都筑郡衙まで下って行こうと思います。

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是政橋から大丸の追分へ。ここは、前回の橘樹郡衙〜武蔵国衙間官道と都筑郡衙〜武蔵国衙間官道との追分でもあります。

いきなりこの道雰囲気良し!

道沿いに用水路があってかつてはここで洗い物なんかしてたんでしょうね。

ここから多摩丘陵のエッジ沿いに南東へ。程無く、大麻止乃豆乃天神社があります。

オオマトノツノ テンジンシャ と、読む。

この神社は謎が多い!なんてったって祭神がハッキリしてない!そんな神社あるか?!

一応、櫛真智命が祭神ということになってはいるが、

  1. この神社の名前は大麻止乃豆乃天神社(オオマトノツノ天神社)
  2. さて、奈良に天香山神社があり、その祭神、櫛真知命のことを、延喜式で、『元名 大麻等乃知神』と言っている。
  3. 大麻止乃豆乃天神社の祭神がはっきりしない状況
  4. 櫛真知命のことを、延喜式で、『元名 大麻等乃知神』と言っているじゃん
  5. じゃあ、大麻止乃豆乃天神社の祭神も櫛真知命なのでは?


と、いうことらしいです。

でも、『天神』だからな。『天神』って言うと菅原道真だけど、『天神』とついたからといって必ずしも天満宮ではない。

式内社で言うと、

  • 穴澤天神社(稲城)、少彦名命 ※菅公は江戸時代に追加
  • 布多天神社、少彦名命 ※菅公は室町時代に追加
  • 阿豆佐味天神社(瑞穂町)、少彦名命


あれ?! 全部、少彦名命だ。

が、少彦名命自体、謎の神だ。益々、謎が大きくなっただけだった。。。

でもこの神社、式内論社です。もしホントに式内社だったら、少なくとも927年には存在していて、しかも、ソコソコ大きかったということになります。

式内論社の話をすると、ここ稲城には論社が3つもある!!!

  • 大麻止乃豆乃天神社
  • 穴澤天神社
  • 青渭神社

しかも、この3論社の対抗はというとこうなる。


奥多摩 vs. 多摩ですね。でも多摩川で繋がってる。地名の共通性とか無いのかな。宿題(暇つぶしネタ)出来ました。

◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆

進みます。

これまた謎多き、妙見寺です。

妙見寺、この山に囲まれた感じ、雰囲気がたまらない。
鳥居はあるがこれも妙見寺の一部、北辰妙見尊

どういうことかというと、正真正銘の神仏混淆がきちんと残ってるお寺さんなんです。

760年、一宮(妙見宮)を建立したのが開基で、1112年に妙見寺をその宮の別当としたのが開祖。北辰妙見尊はこの寺の奥の院の位置づけ。奥の院本尊は北辰妙見尊、寺の本尊は阿弥陀如来。

ここ妙見宮の裏からも行けるんですが、ここは東京西部MTBerのお手軽トレイル、稲城南山で、そのトレイルの1つが、今回の官道、後の鎌倉街道でもあります。

が、この日は生憎の数日間降り続いた雨上がりの日。山はぬかるんで、とても奥深くまで行く気にはなれませんでした。

入り口付近の鎌倉街道遺構のみ、撮影。

分かるかな??? 写真中央横に帯のように土塁っぽいのが。その土塁とチャリが置いてある道の間の掘割、あるいは土塁の向こうが鎌倉街道遺構と私は思ってます。

ぬかるみも理由ですが、ここ南山は今開発の真っ最中。更にその先はゴルフ場ですから、いずれにせよ行けないんですね。だからランド坂まで大きく迂回。ちなみにこの道も古道。で、一山超えてゴルフ場の向こう側に出ました。

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この先はただの新興住宅地で、正直写真を撮る気にならないです。冬なら霊峰大山と富士が良く見えるんですが、雨上がりの今日は無理。住宅街の端でようやく写真を撮る気になる風景が。

おっこし山に残る幅一間の尾根道。律令時代の官人も、頼朝も義経も義貞も尊氏も氏照も家康も通った道。
両脇の金網が無粋だが仕方が無い。だって両脇は急峻な崖。

この後は横浜上麻生道路で市ヶ尾にあっという間に到着です。

都築郡衙

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何度も行った道でしたが、稲城は歴史、謎深く、面白いですね。南山の開発が残念ですが。おっこし山も癒されます。

PS.
帰りは矢倉沢往還で帰りましたが、相変わらずこの道は多摩丘陵をいやというほど体験させてくれますね。うちに着いてLogで獲得標高確認したら808mもありましたよ。

2016年9月10日土曜日

橘樹郡衙~武蔵国衙間官道

江戸時代の古道を見つける方法は、迅速地図を使ってそのものズバリを探せば良い。迅速地図は明治13~14年に作図されているが、自動車社会になる前なので、江戸時代とさほど変わらないからだ。

鎌倉~室町時代になると、軍事戦略上、尾根道を好んで使っていたので、川沿いの低地に走る道と尾根道が平行してある場合、尾根道を選択すれば良い。徒歩道(一本点線)や軽車道(一本実線)で結構残っている。

しかし、古代官道はというとそうはいかない。流石に1,000年経っているので、迅速地図にも殆ど残っていないからだ(逆に、残っているものは残っていて、それは現代地図でも確認できる場合が多い。)。

私の場合、古代官道は以下の手順で探し当てる(「当ってる」かどうかは別にして・・・)。

  1. GoogleMapsでスタートとゴール間を直線で結んだ地図を作図
  2. KMLに落とし、予め迅速地図を仕込んであるGoogleEarthの迅速地図上で表示
  3. 直線になるべく近い道を繋いでいく。この時、中世古道探しのように尾根とかは気にしない。直線優先である。しかし、国衙間、つまり東海道等は直線大優先だが、国衙~郡衙間はさほどでもないだろうという感じで繋いで行っている。

そのようにして、今回の橘樹郡衙~武蔵国衙間官道も探してみたんだが、最初は神奈川県道14号を推定していた。多摩丘陵と多摩川デルタの境の低地側を行く道だが、だから走ってもつまらなそうだったので、ずっと行かないでいた。

先日、暇に任せて迅速地図を見ていたところ、この神奈川県道14号説は、北東向きに膨らんでいる感じがどうも気になるようになって、もう一度見直してみたのであった。すると、より直線に近く、きれいに尾根を行く道があるではないか。実は最初に作図した時も、この道の存在には気付いていた。気付いてはいたんだが、R246を過ぎた辺りから怪しくなったので途中で検討を止めてしまっていたのであった。今回、改めて検討したところ、むしろ、こっちの方がシックリくる。

赤が尾根ルート、青が低地ルート。とりあえず、大山街道まで。

道が決まったら次は道中の立ち寄りスポットの検討だ。

  • 橘樹神社
  • 富士見台古墳
  • たちばな古代の丘緑地(橘樹郡衙跡)
  • 影向寺

は、当然押さえるとして、迅速地図を見ていると、影向時周辺、今回の推定官道尾根ルート、推定官道低地ルート(こっちも捨ててはいない。)とR246に囲まれたエリアに、

  • やたらと神明神社が多い。
  • 天台寺院が多い。しかも全部深大寺末。
  • 古道も残っている。

    ことに気付いた。特に、影向寺周辺に集中している。って言うか、天台寺院は第三京浜の向こうにも4つ程あるが、みな開山が室町で、なんかやっぱり様子が違う感じ。一方、影向寺周辺の天台寺院、西蔵時、能満時は、影向寺の塔頭で開山時期も同じらしい。

    下記地図参照してください。お手数ですが、ズームアップして頂いて、橘樹郡衙付近を大きく表示して確認いただきたい。神明神社は太陽マーク、天台寺院は山マーク、古道は黒実線で表示してあります。

    集中してますよね!



    神明神社が多いのは、この辺りが稲毛庄だった時、稲毛三郎重成が、伊勢神宮に寄進したからではないか。江戸川区に住んでた時もそうだった。あそこも、葛西三郎清重が伊勢神宮に寄進したので天祖神社がものすごく多い。

    天台寺院が多いのは、恐らく以下の理由だろう。

    1. 影向寺の草創、7世紀末。この時、法相宗。
    2. 深大寺の開山、733年。同じく法相宗。
    3. 影向寺、聖武天皇の勅願により行基が橘樹郡寺として改めて開山。740年。
    4. 858年、慈覚大師円仁が、影向寺に薬師如来造立。この時、影向寺が天台宗に改宗。
    5. 859年、深大寺も天台宗に改宗
    6. 深大寺、隆盛となり、逆に、影向寺は衰退し、影向寺が深大寺末に
    7. 影向寺の影響下にある能満寺など周辺の寺院も改宗、あるいは深大寺末に
    8. これ以降に開山の寺院については、むしろ、天台寺院がここに集まった。

    ということで今回は、定番の4つに加え、能満寺など天台寺院と、もう残っていないかもしれないが神明社の幾つか、官道以外の古道を立ち寄りスポットに、Explorerしてみたいと思う。

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    まずは、みなさんご存知、橘樹神社。お馴染みの伝説がある神社です。詳しい説明は避けましょう、ネット上にたくさんあるから。

    橘樹神社

    その、弟橘姫の御櫛を治めた伝説がある、富士見台古墳。

    富士見台古墳、残念ながら墳頂のみ残存

    迅速地図見て頂きたいんですけどね、キレーイな半島なんですよ。さぞね、眺めが良かったんじゃないかと。

    橘樹神社は黄色ピン。この東は多摩川デルタ。平安鎌倉の時代は海進で海だったろう。さぞ、眺めが良かったに違いない。

    で、今はというと、南東の眺望はこんな感じ。雰囲気はある、、、か。。。

    富士見台古墳、墳頂から南東の眺望

    この橘樹神社、名前が、橘→立花→橘樹と変わったそう。橘→立花は、713年の諸国郡郷名著好字令によるのだろう。と、なると、この神社は713年より前からあったということになる。

    じゃあ、いつか。

    可能性は2つ。1つは、伝説の通り、ヤマトタケルノミコト東征の時、西暦にして100年前後。2つ目は、ヤマトタケルノミコト東征の記載がある記紀発行の720年頃。720年だと諸国郡郷名著好字令と前後しちゃうけど、都から遠く離れた東国だから、少し遅くなったと考えれば良い。

    ■□■□■□■□■□

    さて、橘樹神社と富士見台古墳のエリアから離れ、中原街道を超え、影向寺エリアに入って行く。以下、天平の天台三山。

    能満寺。観音像は、衣は大ぶりに足までかかり、膝から下にはU字状の衣文が見られるなど平安時代の貞観彫刻(784-894)の特徴が認められる。慈覚大師が影向時に薬師如来を作ったのが858年だからこの観音様も慈覚大師作か?!

    本命、大御所、影向寺

    西蔵寺。本尊聖観世音菩薩像は慈覚大師の御作と伝えられ、影向寺の薬師如来を掘った余り木で作られた。

    そしてここが橘樹郡衙跡地。

    橘樹郡衙跡地、今のところただの空き地

    さて神明だが、迅速地図だとこういう配置だ。

    天台三山エリアの神明神社4社の配置

    粘って探したんだけど、現存するのは野川神明社のみだった。

    唯一現存する野川神明社

    この野川神明社、祭神はというと、

    • 天照大神
    • 伊弉諾尊
    • 伊弉冉尊
    • 素戔嗚尊
    • 大己貴命
    • 韋駄天尊神
    ん?! イザナギ、イザナミ、スサノオ、オオナムチ???

    実は、神明の多さも気なってたんだけど、少しエリアは外れますが八坂と杉山も多いなと思ってたんですよね。この野川神明社のスサノオは八坂合祀によるもの。このエリアにも八坂があったんですね。オオナムチは第六天合祀でしょ。イザナギ、イザナミは??? なんだけど、近所の馬絹神社も女体 = イザナミでしたね。杉山はイソタケル = スサノオの弟で、ここは、出雲の香りもプンプンしますな!!!

    (でもやっぱり神明は伊勢神宮の御厨かな。出雲とアマテラスは並立しないもんね。まず出雲がこの地に来て、その後、伊勢神宮御厨となって神明が出来たんでしょう。)

    ■□■□■□■□■□

    あんまりウロウロばかりしてないで、さてでは官道を走りましょう。この尾根ルートは非常に気持ちの良い尾根道です。

    馬頭観音と如意輪観音が並ぶ

    尾根道の証拠たる写真、大山が見える。

    周辺の古道も良い感じ。っていうか、すごく良かった。

    風情のある坂や

    丘の上のハイランド古道

    このエリアには末長杉山神社

    末長杉山神社、出雲の神、イソタケルを祭る。

    梶ケ谷からはあまり面白くない道筋となり、長尾の山越え後、府中街道に合流し是政から府中に至る。だから写真は無い。

    ■□■□■□■□■□

    梶ケ谷から先はつまんなかったけど、梶ケ谷までは期待以上に面白かったです。ここは歴史深いですね。ぜひ、訪れてください。

    以上です。