2019年5月27日月曜日

ふじ大山道ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道

前回前々回と、771年以降、且つ、延喜式前の、武蔵国の古代東海道の、定説と異説ルートをご紹介しましたが。

実走してみてつくづく思ったのが、渡河に伴うup & downです。整地された今でも厄介ですし、哲学堂公園の辺りを見ると、哲学堂公園の妙正寺川だけでなく、他の川も恐らく往時は崖だったのではないか、と、思うのです。

哲学堂公園内、妙正寺川の河岸段丘の崖

定説ルートは古寺社も多く、極めつけは天沼熊野神社の伝承ですが、

天沼熊野神社、すっきりとした佇まいでした。風格があるというか。

その点では良いのですが、でも、やはり、渡河に伴うup & downが気になるのです。

再掲、陰影図・全体。武蔵野台地は、神田川と、その支流である、善福寺川、桃園川、妙正寺川、そして石神井川といった5つもの川が東西方向に流れ、南北方向に行くには、それらを渡らなければならない。

この渡河を回避するルートは無いものか、と、陰影図を見てみれば、あるじゃないですか。

陰影図、全体

上の2つのルートを見てください。武蔵国府国庁を出発し、人見街道を行かずそのまま直進北上です。国分寺崖線は、定説・異説ルート同様、上らざるを得ませんが、その後、渡河するのは仙川。仙川を過ぎて直ぐに東進し、仙川と石神井川、石神井川と善福寺川・妙正寺川の間の尾根を行き、定説ルートと異説ルートの合流後の哲学堂公園の少し北のV字に至るのが、千川上水ルートです。

仙川渡河後、直ぐに東進せず、更に石神井川を渡河後に東進するのがふじ大山道ルートです。

どちらも見事なまでの直線です。古代東海道の跡なのではないか、と、思わせます。

が、千川上水ルートの場合、前々回の記事でも言いましたが、道が先にあったとは考えられず、と、なると、近代の道ということになります。

(でも実に惜しいですね。千川上水ルートの場合、仙川と石神井川を渡河するだけなんですね。しかも、石神井川の方は実走であまり高低差がありませんでした。仙川の方も、陰影図ではあまり高低差が無いようです。つまり、最も、up & downが少ないようなんです。)

一方、ふじ大山道の方ですが、大いに可能性があると思っています。

ただ、仙川と石神井川を渡り、もう一度、下頭橋で石神井川を渡り、更にもう一度、石神井川を渡ります。最後の石神井川は、千川上水ルートと同じなので高低差はあまりありません。が、最初の石神井川と下頭橋での石神井川渡河は、陰影図ではソコソコ高低差がありそうです。

また、古寺社も少ないですね。

そもそもこのふじ大山道ルートは、その名の通り、大山、そしてその後方の富士山への参詣道であり、と、なると、大山信仰が盛んになった近代に出来た道ということになります。

が、果たしてそうでしょうか。下図を見て下さい。

陰影図、豊島氏居城とふじ大山道ルートとの位置関係

平安期から豊島郡を根拠地とし、豊島駅エリアにある平塚城と、練馬城、石神井城を居城とした豊島氏がありますが、この3つの城を単純に直線で結んだ青線と赤線のふじ大山道ルートとを比較して下さい。ほぼ重なります。画面右上はやや離れていますが、地形を見るとその理由が分かります。石神井川を避けてるんですね。

つまり、ふじ大山道ルートは、豊島氏の居城間を結ぶ道であり、そうなると平安期には成立していた可能性もあり、と、なると、それ以前から道があった可能性があります。

ふじ大山道は、近代に成立した、富士山、大山参詣の為の道ではなく、平安期から既にあった道かもしれません。その道が、府中に向かっているとなると、古代東海道の可能性も出てきたのではないでしょうか。

それともう1つ。浅間山なんです。

定説ルートの牟礼山と同じく、浅間山が測量上のランドマークになっていたのではないか、そう思わせます。なので、定説ルートと同じくらい、ふじ大山道ルートも、官道の可能性があるのかもしれないと思った次第です。

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と、言うことで、実走したいと思います。

下高井戸ルートを逆走して浅間山公園に到着です。今回はここが起点。早速、浅間山に登山です。

ちょっと、住宅によって頭しか出てないので分かりづらいですが、新小金井街道の旧道から望む浅間山です。
堂山山頂の浅間神社
女坂より山頂を望む

ムサシノキスゲは終わってたようですが、新緑が実に美しく癒やされました。

で、ランドマークかどうかについてですが、上の写真のように、住宅が立ち並ぶ現代では想像力が重要になって来ざるを得ませんが、充分にあり得たと思います。

浅間山の後は国分寺崖線を上がり、仙川を渡河します。

あまりに高低差が無く通り過ぎてしまい振り返っての一枚。こうして見ると少し下って上がってます。

ご覧の通り、高低差は殆ど感じられません。定説、異説ルート時に神田川水系を渡河した時とは大違いです。

続けて石神井川を渡河しますが、こちらも高低差を殆ど感じることは出来ません。

こちらも殆ど高低差無し。

と、いうことで、実走してみると、このふじ大山道ルート、この最初の2川の渡河はネガティブではないことが分かりました。

小金井公園の先で東に折れ、田無をやり過ごすと、見事なまでの直線です。この直線が、私的にこのルートを推す、最大の理由です。

振り返っての一枚、直線なので先の先まで見えます。

道は程無く、石神井城に到着します。

石神井城、全景。正面のこんもりした森が城跡です。
空堀と土塁
氷川神社、豊島氏が城内に勧請しました。

さぁ、ここからふじ大山道は、石神井城と練馬城とを結ぶルートとなります。up&downも殆ど無い、気持ちの良い直線を行きます。

あっという間に練馬城に着きました。あまりに快適で、また、行き過ぎてしまいました。

向山庭園、練馬城の濠跡と言われている。

としまえんが練馬城の跡になるんですが、そのとしまえんも今は閉園で中には入れません。入れたとしても、残念ながら、殆ど遺構がありません。唯一、現存してるのが、この向山庭園のようです。

練馬城は、北を石神井川、東西を石神井川の支流で囲まれた天然の要害で、向山庭園の中央には、東側の支流、つまり天然の濠が南北に流れています。

陰影図、練馬城
練馬城東の谷を西から撮った写真。右手の緑が向山庭園です。真ん中に窪みがありますがこれが東の谷。結構な深さがあります。この谷が向山庭園まで続いていて今は池になってますが、だから、それは練馬城の濠跡と推定されています。

ふじ大山道ルートに復帰し、石神井川の渡河の為、下頭橋を目指します。この間も直線でup&down無いのであっという間。

石神井川渡河、高低差無し

ここも高低差は殆どありませんでした。


この先は過去のルートと重なるので割愛し、帰路に付きました。

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と、言うことで、実走してみたら、渡河によるup&downは懸念ではなく、直線性は見事で、浅間山はランドマークたり得たという結果となり、充分、古代東海道の可能性があるのではないかと思いました。

定説、異説1, 異説2と、今回、3ルートを行ったわけですが、このルートが最も合理的に思いますが、如何でしょうか。

次回は延喜式か、東山道武蔵路を行こうと思います。

2019年5月19日日曜日

下高井戸ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道 + 古寺社集中縦のライン

前回は定説ルートを行きました。今回は、異説ルートを行きます。

まずここ、三鷹一小なんですが、定説ルートではここを左に行きましたが、異説ルートではここを直進します。

見てください、見事な直線ですよね。見れば見る程、来れば来るほど、何故、ここで左折しなければならなかったのかが分からなくなります。

三鷹一小から東を望む

ここから先、古寺社は無く、チャリを止める理由も無くただひたすらに進み、下高井戸で左折、このルート初めての渡河、神田川です。

神田川

勿論、下高井戸からここまでは下りで、神田川を渡った後は永福に向かって上りなんですが、現在の道ではなだらかでさほど苦ではありません。でも往時はどうだったんでしょうか。

永福稲荷神社を過ぎた辺りで台地に上がり切ります。ここからは神田川左岸の台地を安定的に進んでいきます。

永福の駅を過ぎて程無く、龍光寺参道があり龍光寺に向かいます。

龍光寺は、1172年開山とされています。宝仙寺末でした。宝仙寺は義家が開山に関わっていますから、ここ龍光寺も源頼義義家親子による前九年の役、後三年の役伝承に絡む寺と言っても良いかもしれません。

道は大宮八幡宮の参道入口に行き着き、善福寺川に向かって下っていきます。ここが結構な勾配。往時はすごかったんだろうと想像できます。善福寺川を渡った後、再び台地に上がっていくんですが、その縁にある堀ノ内熊野神社からの眺望がこれです。

ちょっと分かりづらいですが、高低差があることはお分かりいただけるかと思います。目の前のマンションの3階より上ですね。

堀ノ内熊野神社からの眺望

台地に上がったら、道は再び、今度は善福寺川左岸を安定的に進んでいきます。ここは、うっすらと上りが続き、途中、善福寺川の支流を渡河するんですが、実に安定的です。

鍋屋横丁まで上り切ったら、紅葉山公園に向かうんですが、このルートは、定説ルートと違い、桃園川を渡河しなければならないんですね。上り下り多い。古寺社が少ないのと、この、渡河が多いというのが、このルートを定説に引き上げられないポイントなんです。

桃園川跡、しかも結構な勾配なんです。

桃園川に向かって下り、桃園川を渡って紅葉山公園の上りをこなし、実は再び桃園川の支流が作った谷に向かって下るんです。

今はただの道路ですがここは桃園川の支流でした。

道は、早稲田通りに向かって上り、やがて、新井薬師に辿り着きます。ここからは定説ルートと同じです。実はこの間、今度は妙正寺川の支流を渡河するんですが、気付きませんでした。暗渠化されてるのと、勾配の変化があまり無かったからだと思います。

と、言うことで、お見せする写真も大してない、そういうルートだったんですが、そのことに象徴されるように、古寺社が無いんですね。人が通っていた、あるいは集落の痕跡が薄い感じです。

その代わり、川の写真が多い。やはり、このルートは、神田川とその支流群の下流に近く、そうなるとそのまた支流も多くなる為です。

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ガっと下高井戸まで真っ直ぐに行って、ガっと西ヶ原まで行くこのルートの方が見栄えは良かったんですが、神田川とその支流群の下流域ということで、渡河する川が多く、アップダウンも多く、古寺社も少なくて、実走してみたら、???というルートでした。

一方、前回の定説ルートは、やはり、4川の渡河があり、階段状ではあるものの、異説ルートよりは3回少なくて済んでますし、古寺社も多く、有力に思いました。

武蔵国で、国府から豊島駅へのルートを考える時、この、東西方向に流れる神田川とその支流群の存在を無視できないぞ、と、思った次第です。

そう思って陰影図と古地図を見比べながら発見したのが、千川上水ルートと富士街道ルートですが、それらは後日としたいと思います。

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さて、写真的に面白みの無い記事となりましたので、縦のラインも行ってみました。以下にご紹介します。

こうして俯瞰すると一目瞭然ですが、まず延喜式古代東海道(青・赤線)沿いに古寺社が集中してますね。特に浅草。ここまで縮小するとマーカが重なってしまってますが、夥しい古寺社です。その他も、品川、豊島駅周辺など、古寺社集中エリアはあるんですが、杉並区天沼辺りも負けず劣らず集中しているのが分かります。

迅速測図、全体

ズームするとこうなります。

黄色はルート沿いで既に行ったところです。今回は青を行きました。

古寺社が沿った道が3本ありますが、阿佐ヶ谷八幡宮、あるいは源頼義・義家親子の前九年、後三年の役伝承がある宝仙寺旧地である世尊院で合流し、鷺宮八幡神社を経由し赤羽から奥州に向かう、所謂後の鎌倉街道です。

では南から、まずは大宮八幡宮です。

大宮八幡宮、1063年、源頼義凱旋の際、ですから前九年の役の復路ですね。岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれます。復路だけでなく、往路、この地に差し掛かった時、大空に白雲たなびき源氏の白旗の如くとし、奥州を平らげた後は必ずこの地に戻り八幡信を勧請するといった伝承もあります。更に、その子、義家も後三年の役の往復にこの地に寄ったという伝承があります。

撮影は午後夕方近くだったんですが、写真の通り、太陽をを背にしている、つまり、東向きなんですね。これは江戸時代、江戸城守護の為、南向きから変えさせられたとの伝承が残ります。

次は、白山神社です。

諸々、詳らかでないんですが、創建は、大宮八幡宮とほぼ同時期だろうとのことです。

その次は尾崎八幡神社です。

尾崎八幡神社、やはり、詳らかではないんですが、大宮八幡宮と同じ頃ではないかと言われています。

最後に、須賀神社です。

成宗須賀神社、941年に創建、1599年に再建されたと伝えられているといいます。

この4社は全て善福寺川沿いなんですね。川に面した崖上に位置しています。その視点で見ると、ルート沿いにあって、既に訪れた、荻窪八幡神社は善福寺川、天沼熊野神社は桃園川沿いですね。

大宮八幡宮はその典型ですが、縄文・弥生時代の祭祀遺跡が見つかっています。大宮八幡の正門は嘗て北門で、川 = 水を崇拝していた頃から、"天子南面す"の考え方が伝わる前からの聖地であり、何らかの集落があり、だから、頼義・義家親子もこの道を通ったと思われます。

八幡、白山、八幡、須賀と、祭神は異なるように見えますが、それは後の世の人が合祀したのであって、元は、川、あるいは崖地故の湧水を神格化したのではないでしょうか。

2019年5月18日土曜日

杉並区天沼ルート(定説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道

前回の続きです。



この地図は、前回概説した武蔵国の古代東海道を中心に、東山道や下総国と相模国の東海道も含めて、想定ルートを書き込んだものです。

古代官道は、特に初期のものはワイド&ストレートで、現在の道路に必ずしも残っていませんが、残っていそうな所を基本に、現在の道路で繋ぎ合わせています。

地図の説明ですが、まずラインは、

  • これまで説明してきた771年の武蔵国東海道付け替え以降の古代東海道(771年以前は山海両路を承る連絡路)は紫ラインです。複数ありますが、定説や私論を書き込んでいますので。
  • 771年以前の武蔵国東山道時代の東山道武蔵路は黒
  • 青は、これまで語ってない、次にやろうと思ってる延喜式古代東海道、赤も同じく延喜式です。豊島駅と井上駅の間は、延喜式と771年以降とで同じルートとなります。

次にマーカですが、東京都内の平安期以前の寺社等をマークしています。色分けですが、

  • グレーは日本武尊伝承がある神社
  • 黒は源頼義・義家親子の前九年の役・後三年の役の伝承がある寺社
  • 緑は慈覚大師円仁縁
  • 黄は行基
  • 茶は平将門
  • 赤はそれ以外の神社
  • 青はそれ以外の寺
  • オレンジは史跡等
  • 紫は駅比定地です。

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さて、ここで、前回2説あると記述した天沼なんですが、杉並区か大田区かということなんですが、こうしてみると、杉並区の方が、断然、古寺社の集中度合いが高いことが分かります。大田区の方は1030年創建の旗岡八幡があるのみですから。

確かに、杉並区の方も、源頼義・義家親子の伝承、つまり、1000年代が多いのですが、天沼熊野神社は768年創建の可能性があり、阿佐ヶ谷神明宮は日本武尊伝承ですからそれより更に前の可能性があり、源頼義・義家親子の伝承についても、そこに道があったからその伝承があり、その道はそれ以前からそこにあった可能性もあるわけで、考慮に含めた方が良いだろうと思います。と、いうことで、私としては天沼は杉並区を推したいと思います。

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では、武蔵国府から豊島駅までの、杉並区天沼、あるいは練馬を通る道筋とはどのようなものだったのでしょうか。

まず定説は人見街道です。この道はワイド&ストレートで、古代東海道をそのまま残しているように思えます。道筋は、武蔵国府から現在の人見街道を東進し、現在の人見街道のまま三鷹一小を左折、北東に進み、現在の人見街道のまま牟礼二丁目で右折はせず、三鷹台駅方面に抜けます。そのまま北東に進み、神田川、善福寺川を渡り、荻窪八幡の辺りから東に進むようになります。すると天沼熊野神社を通り、この辺りが乗潴駅なのではないかと思ってますが、阿佐ヶ谷神明宮も過ぎ、新井薬師の辺りから北に折れ、やや弧を描くように西ヶ原の豊島駅へと向かいます。東、北、東、北、東と、階段状に行く感じです。

直線性についてですが、ほぼ、直線が階段状に繋がっていると言えます。天沼も通りますし、荻窪八幡、天沼熊野神社、阿佐ヶ谷神明宮と、このエリアで最古参の古社も通りますので、最有力候補、といった感じなんですが、同時に、幾つか疑問もあります。
  • まず第一に、何故、三鷹一小で曲がらなければならなかったのでしょうか。確かに、西ヶ原は北東にありますから、いつかは北に向かわなければならないんですが、何故、ここだったのでしょうか。と、言うのも、この道は、三鷹一小から先も、下高井戸まで直線が続くのです。迅速測図でもそうなんで、明治初期、少なくとも近代、恐らく中世、あるいは古代まで遡れると思われます。
  • 第二に、三鷹一小で北東に折れ、牟礼二丁目で今の人見街道の通りに行きませんが、もし行った場合のこの先の人見街道も実に直線で捨て難いのです。
  • 第三に、このルートの場合、神田川、善福寺川、妙正寺川、最後に石神井川と4度も川を渡らなければなりません。アップダウンもありますし、谷が深く急流で容易に渡れなかったかもしれません。
確かに、三鷹一小で北上せず、下高井戸まで行ったとしても、この4川は渡らなければならないんですが、なら、下高井戸まで直線で来た方が良いのではないか、とも思います。

陰影図、全部紫で分かりづらく恐縮です。三鷹一小で北東に進むのが定説、そのまま東進するのが異説です。それ以外にも幾つか私なりの候補があり、特に北の2本は別記事で説明したいと思いますが、定説と異説の間の、人見街道のまま東進するルートや、古寺社が集中する盾のラインも古道で接続しています。

と、言うことで、定説と言いつつも、疑問が残る人見街道ルートなんですが、話が二転三転して恐縮なんですが、こうして地形を見てみると、善福寺川を渡った後、桃園川と妙正寺川の間の尾根を狙ってルーティングされていて、神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川の合流地点直前で、それを避けるかのように北に向きを切り替えていて、理に適っていますね。

また、疑問1の、何故、三鷹一小で曲がったか、ということに繋がるかもしれない話として、下記陰影図を見てください。

牟礼山、と、勝手に名付けました。

三鷹一小で北東に曲がる所に山があるんですね。今ここは牟礼神明社、牟礼の里公園になっています。北東に曲がらなきゃいけないことは分かってたので、ではどこで切り替えるかと言った時に、この山が測量的なターゲットとなったとも考えられるわけです。

そして、道は、この山のど真ん中を切り通しています。因みに人見街道はこの山を避けるべく曲がっていますね。ど真ん中を切り通しているところなんかは古代官道っぽいような気もします。逆に、牟礼二丁目で右に曲がった後の人見街道は、中世以降の道かもしれません。

また、下高井戸まで行くルートについても、地形を見ると、神田川右岸崖上を行き、神田川が北に向きを変えたと同時にこのルートも北に向きを変え、神田川を渡った後は左岸崖上を行き、そのまま新井薬師まで北上していて、むしろこちらの方が良く理に適っているように思えます。ただ、こちらのルートは古寺社が少ないですが(いずれにせよ、武蔵国府から豊島駅までの延喜式前の古代東海道を考える時、この、東西方向にある、神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川、石神井川が、キーになりそうな予感もしています。これ、次回以降の布石です。)。

と、言うことで、
  • 人見街道~三鷹一小~三鷹台~荻窪八幡~天沼熊野神社~阿佐ヶ谷神明宮~新井薬師~西ヶ原(豊島駅)というルートを定説に据え置きつつ、
  • 人見街道~三鷹一小~下高井戸~大宮八幡~新井薬師~西ヶ原(豊島駅)というルートも押さえておく
ことにしようと思います。

・・・なんですが、やはり捨て置けないのが大宮神社からの古社が密集している縦のラインです。直線性は無いんですが。と、言うことで、以上を踏まえつつ、実走してきたいと思います。

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滝坂道、甲州道中、品川道、古品川道で武蔵国庁跡へ。ここをスタートとします。

武蔵国府国庁跡

京所道を東へ。程無く、国府域を守る、が、故に西向きの武蔵国府八幡宮です。

武蔵国府八幡宮
ここにはこんな素敵な古道が残っています。1300年前まで遡れるかも。

人見街道へのアプローチを甲州道中ではなく京所道を選んだのは、京所道が古甲州道だったということと、この武蔵国府八幡宮が理由です。武蔵国府八幡宮の参道は、今、甲州道中に設けられていますが、社殿の位置から、元々は京所道〜品川道であるこのルートだったのではないかと思ってます。

ちょっと、分かりづらいですが、一番左の青マーカが国庁です。その直ぐ南に東西方向の1本実線(荷車小径)がありますが、これが京所道です。大國魂神社の境内を突っ切って西に行ってますが、これが古甲州道ということになります。人見街道へと続く古代東海道は、ここを東で、京所道、基点(黄色)から、中間点(黄色), 武蔵国府八幡宮(緑), 中間点を結んだ道、途切れ途切れですが、嘗ては繋がってたのでは?!と、思ってます。

航空自衛隊府中基地で一部カットされた残存部分から浅間山通りまで、この辺りが人見村の最も栄えていた所と思われますが、ここから三鷹一小まで直線が続きます。

現在の浅間山通りまで集落となっている。

Wide & Straight, 真っ直ぐです。

三鷹一小で左折、牟礼二丁目で右折せず直進しますが、ここが件の山です。が、ビルが林立する今は山が分かりづらいですね。

しかし、神明社からの眺めはこれですから、やはり、山なんです。

牟礼神明神社からの眺め、ここが山であることが良く分かるショットです。

さて、山越えしたら神田川渡河です。

神田川
神田川を渡河後、向こうの大地に上がり、振り返った絵です。神田川の向こうの牟礼の山も見えますね。今はこのようになだらかですが、当時はどうだったんでしょうか。崖だった???

神田川が削った谷から台地へ上がり、上がったと思ったら善福寺川が削った谷に下り、善福寺川を渡河します。

善福寺川に向かいこの下り
善福寺川

善福寺川を渡河したら進路を東へ。889〜898年創建で、源頼義が前九年の役の往路で戦勝祈願したとの伝承もある荻窪八幡の前の道を行きます。

荻窪八幡神社、何故か東を向いてます。

荻窪八幡を過ぎて直ぐ、道筋がV字状になっていて直線を保持できていないのは、妙正寺川の支流(による谷)を避ける為です。


V字にして妙正寺川の支流を避けたルーティング

道は、現在の日大ニ高通りから早稲田通りへと続きますが、ここから新井薬師まで、直線をよく保持しています。この区間に、乗潴駅私的比定地天沼熊野神社と、日本武尊伝承によって創建は律令以前にまで遡れる可能性がある阿佐ヶ谷神明宮があります。

天沼熊野神社、伝承によると、768年、東海道巡察使である紀広名が東海道巡察の為、この地を訪れ、故郷の氏神を祀ったのが起こりとのことです。そのものズバリでした。

旧社地はこのルート沿いにあった阿佐ヶ谷神明宮です。

阿佐ヶ谷神明宮

で、この直線です。

見よ!!!この直線性を

道は、新井薬師の少し南に行き着き、北にほぼ直角に曲がります。この先(東)は神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川が合流し、且つ、それらの支流も多く、これより先に進んだら最後、山あり谷ありの複雑な地形をやり過ごさなければならなくなってしまいます。よって、ここで曲がるのは必然と思われます(上記1つ目の陰影図参照)。

さて、新井薬師です。縁起を見ると鎌倉期の開山とのことでマーキングしてなかったんですが、武相国境をexploreした身としては、 "薬師" が、どうしても気になるのです。

新井薬師、正面参道越しに瑠璃殿
ちょっと中を。ここはいつ来てもお経が唱えられてますね。

そこで、もう一度、縁起を調べれば、徳川秀忠の第5子、和子の方が患った目の病気を快癒したことから目の薬師と呼ばれたとのこと。やはり。

そう言えば、先程言ったようにここは川だらけ。行く先には妙正寺川があります。覗いてみればやはり、鉄でした。

妙正寺川に江古田川が合流する所は水酸化鉄でした。

で、あるならば、800年前後、この地に、坂上田村麻呂に敗れた東北の奴隷達が連れて来られたのかもしれません。

その妙正寺川は、本日3つ目の河川渡河でした。

妙正寺川と妙正寺川が削った崖線
哲学公園内に入り崖線を確認するとこの通り。今の通りはかなりなだらかにしてあるのであって、神田川も善福寺川も、妙正寺川も、元はこのような崖だったのではないかと思いました。

さて、妙正寺川の谷から台地に上がれば千川上水沿いの道筋となります。上水ですから必ず高い所から低い所に配置されます。だから、上水が出来た後、その土手に道が出来るという順番は理解出来るんですが、今回の場合は、律令の時代の道ですから、まず道があって、その道沿いに上水が出来た、と、しなければならないんですが、だとすると、道を、わざわざ高き所から低き所へ配置したということになります。これは到底考えられない訳で、と、なると、たまたま一致したか、この道筋ではないということになりますね。

ともかくも、道は板橋宿をやり過ごし、4つ目の川、石神井川旧流路を渡河します。今はご覧の通り、ただの道路ですが。

写真だと分かりづらいかもしれませんが、下ってます。

そしてこの道は現在の諏訪台通り、都道455に突き当たりそこが豊島駅の目の前になります。


豊島駅

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定説ルートは完走です。帰りは異説ルートだったんですが、長くなったので後日にします。