2020年9月6日日曜日

深大寺道と牟礼道

このシリーズの前々回で、後北条氏による世田谷城陥落を契機とした江戸城防衛ラインについて記事にしました。

今回はその続きです。

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まずは振り返りから

1495年、小田原城を居城としていた大森氏を退け、北条早雲が伊豆韮山から小田原城に入りました。

1504年、小沢城で、扇谷上杉朝良を助ける為、北条早雲の軍勢が山内上杉顕定を打ち破っています。

→1504年辺りから、小沢城は後北条氏の城だった、ということになりますかな。

1524年、北条氏綱は、江戸城を奪取すべく、高縄原(高輪)で、扇谷上杉朝興と戦い、見事、江戸城を奪い取りました。扇谷上杉朝興は、主城の川越城に退却します。

1530年、扇谷上杉朝興は、川越城から度々深大寺城に移動し、江戸城奪還の機会をうかがってました。

一方、多摩川対岸の小沢城には北条氏康が陣取り、牽制します。そしていよいよ、小沢原の戦いが勃発しました。

初陣だった北条氏康、初戦は破れ、小沢城に籠城します。

この時、扇谷上杉朝興は、江戸城との間にある世田谷城にもちょっかいを出しに行き、世田谷城は一旦落城します。

が、結局、初戦の勝ちに酔っていた扇谷上杉朝興に夜襲をかけた北条氏康が勝ち、扇谷上杉朝興は河越城へ退散して、世田谷城は奪還され、江戸城も無事でした。

1537年、この小沢原の戦いが契機となり、江戸城主北条綱高は、深大寺城と江戸城の間、世田谷城の北西に、烏山砦、牟礼砦を築きました。

後北条氏は、小沢城、世田谷城に加え、牟礼砦、烏山砦と、江戸城防衛ラインを築き、扇谷上杉朝興も、深大寺を江戸城奪還の重要拠点として、両陣営鍔迫り合いを繰り広げていたんですが、、、

味方をも騙したのか、それを尻目に、その年、北条氏綱は深大寺城を迂回し、河越城を直接襲い、念願の河越城を奪取、武蔵国全体を手中に収めるに至りました。

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この時の、扇谷上杉朝興側の、川越城〜滝の城〜深大寺城を結ぶ軍道を、"深大寺道" と言い、それに対抗する後北条氏側の、武蔵岡城〜牟礼砦を結ぶ軍道を、"牟礼道" と言います。

今回はこれを行きます!!


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滝坂道で青渭神社まで。

青渭神社前の都道121号線三鷹通りが深大寺道です。ここを南下すれば深大寺城です。

手前の木の奥の森が深大寺城

深大寺道を北上し、滝の城を目指します(今回は川越城までは行かない。)。

道は野崎で都道12号線武蔵境通りに合流します(これも古道)。

今回は後北条氏と扇谷上杉朝興が江戸城を巡って対峙していた時(1524~1546年)に既にあった寺社を巡り、当時の痕跡を探るマイクロツーリズムですが、実は、深大寺城から黒目川河畔の宝泉寺まで、何もありません。

理由は何度か話してます(1, 2)が、ここら辺りは武蔵野原野で、江戸時代に玉川上水が開削されるまで、白子川、黒目川、柳瀬川の河畔以外は、前人未踏の原野だったからです。

と、言うことで、宝泉寺です。

宝泉寺

宝泉寺の由来については明らかではないですが、明治28年の社寺調書に、承和5年慈覚大師円仁の開基と伝う、とあります。また、宝泉寺に現存するもので一番古いものは、文永5年(1268)5月作の不動明王像があります。

と、言うことで、1524~1546年には確実にここにあったでしょうから、扇谷上杉朝興の軍勢も訪れたことでしょう。

先に行きます。

柳瀬川沿いの円通寺です。

円通寺

風土記によれば、

"除地、一段五畝、小名岡にあり、真言宗新義、同郡成木村安楽寺の末山なり、清水山と號す、本堂八間に六間南向、本尊観音木の立像にて長二尺、行基菩薩の作と云、古へ新田義助奥州下向のとき(1340年), 此観音の像を相州鎌倉松ヶ岡より此地に移す、往古は當寺の前に堂ありて安置す、いつの頃か當寺に移し今は本尊とせしなり。此像松ヶ岡より移せしによりて、此あたりを小名に岡と云り、此像霊佛にして古観音堂に安せし比、其前を乗うちするものあれば必落馬す、故に當寺に移すと云、當寺は暦應三年創造せりと、開山詳ならず、中興開山應永三十二年巳三月十日に寂せり。"

と、言うことですから、扇谷上杉朝興も訪れただろうと思いますが、面白いのは脇田義助の話ですね。吉川英治さんの私本太平記は大好きな本ので、思わず身が入ってしまいますが、1340年は、義助が四国に入った年ですから、奥州に下向はないでしょう。義助本人ではないのだろうと思います。

先を行きましょう。

滝の城です。

黒目川にかかる橋から滝の城を望む。高架の向こうの森が滝の城。

この城は、山内上杉家重臣大石氏が築城したと言われています。

扇谷上杉家ではないんですよね。

果たして河越城と深大寺城の連絡城として、扇谷上杉家に使われたんでしょうか???

1537年、北条氏綱が河越城を攻略。

1546年、有名な河越夜戦で、後北条氏は勝利を収め、大石氏は後北条氏に下り、滝の城は後北条氏の城となります。

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牟礼道です。

武蔵岡城です。

住居の向こうの森が武蔵岡城

この城も明確には、北条方だったか分かりません。太田道灌のひ孫の太田康資の居城という伝承もあり、康資の康は、北条氏康の康ですから、北条方なんですが、生まれたのが1531年ですから。

深大寺城と小沢城、世田谷城で丁々発止し、牟礼砦や烏山砦を作ってたのは1524~1546年。

康資、殆どの期間でまだ元服前ですね。

なので牟礼道は、江戸城を巡って丁々発止していた時というより、後北条氏が河越城を奪取し、河越夜戦でも勝った後、割と後半の軍道ということかもしれません。

先に進みましょう。

本仙寺です。

本仙寺

明治17年の過去帳によれば、創建年は天文元年(1532)で、開山は池上本門寺第九世恵眼院日純上人。旧境内付近からは宝篋印塔、板碑等が出土されていますが、このうち最古の年代は貞治五(1366)年であることから、少なくとも14世紀半ばには何らかの堂宇あるいは持仏堂の建立があったと推測されています。

と、いうことで、後北条氏も訪れたかもしれません。

境内に祀られてたオシャクジ様。恐らく近隣で見つかったものなんでしょう。

程なく、東円寺です。

東円寺

開基は詳細不明としていますが、いつの日か荒廃し、法印永慶という僧侶がその荒廃ぶりを見て嘆き、寛弘年中(1004~1012)になって再興に尽力したとありますから、平安に遡る相当な古寺です。

長禄・文明の頃(1457)に太田道灌がこの地を領有した際、寺近くに城を築き、薬師の威徳を崇めんと一時借り受けたところ、戻した方が無事幸いだと夢告げをみたという逸話もあり、この城は武蔵岡城でしょうから、と、なると、太田道灌、子の資康、孫の資高の居城でもあったでしょうから、で、あれば、資高は後北条氏江戸城奪取の立役者ですから、そうなんであれば、丁々発止していた時の、深大寺道に対抗する軍道だったということになりますね。

先を行きます。

泉蔵寺です。

泉蔵寺

風土記によれば、1328年に寂した法印慶誉寂心房を開山としているから、鎌倉時代ということになろうかと思います。1429年や1504年の板碑も発掘されています。

後北条氏も訪れたかもしれません。

次です。

子の神氷川神社です。

子の神氷川神社

風土記によれば、膝折の地名は小栗小次郎助重が賊に追われて馬で当地まで逃れて来たところ鬼鹿毛というその馬が膝を折って死んだことに由来するそうで。また昔高麗の城の落人5人が原野だった当地を開墾したともいいます。

廻国雑記には、1486年、ここで休憩した際に、この地に市が立てられて商人が集まっていたと記されていますので、後北条氏も訪れたことでしょう。

ここまで黒目川沿いに来ましたが、ここから黒目川からは離れ、白子川に向かいますが、それまでは武蔵野原野ですから、何もありません。

次は白子川沿いの妙福寺です。

妙福寺

以前ご紹介済みですが、この妙福寺を中心として、この辺りは日蓮宗の勢力が張った地区。

江戸城主北条綱高の末の弟は日蓮宗の僧で、牟礼に真福寺を開いていますから、この辺りの妙福寺を中心とした日蓮宗の寺は、後北条氏に協力的だったのではないでしょうか。

牟礼道は程なく神明通りにぶつかり、江戸時代の新田開発でスッカリ碁盤の目になってしまって牟礼砦までの道筋は分からす、ここで終了としたいと思います。

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深大寺道は多摩郡と新座郡の郡境道と重なりますので、一度行った道でしたが、視点が違ったので寺社を訪れることは無く、そういった意味では楽しめました。

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