2011年12月11日日曜日

One Hundred Famous Views of Edo by Hiroshige Utagawa, Winter No.104 "Koume embankment"

Present view
Painted by Hiroshige in 1856 - 1858
(English)

Koume had 2 famous places. One of them was Nanzoin temple which had the Jizo being bound. The reason why people bind the Jizo was that people believed if binding the Jizo, the wish will be answered. Second one was Narihira Tenmangu shrine. Narihira came from the name, Narihira Ariwara. Narihira Ariwara was the model of Ise story which was very popular.

So Koume was crowded and had many shops and restaurants. The most popular and famous restaurant was Koume Oguraan.

But why did not Hiroshige draw Nanzoin, Narihira Tenmangu and Koume Oguraan to represent Koume as a famous view?

I think, Hiroshige was fascinated his heart by this scenic farm village view.

Now, the river was reclaimed, the farm village changed to just a city.

(Japanese)

小梅は、縛られ地蔵で有名な南蔵院(現在は葛飾区東水元に移転)と業平天満宮(今は廃社)で有名だった。だから、小梅は、これら寺社への参拝者や観光に訪れる観光客で賑わっていて、小梅小倉庵など、料亭もたくさんあった。江戸から隅田川を渡り直ぐという近さ、それでいて、隅田川を渡るという行為で非日常感を味わえる為、大いに賑わったそうだ。

しかし、では、何故、広重は南蔵院や業平天満宮、あるいは料亭が立ち並ぶ街並みを描かなかったのか?

小梅がある隅田川の東側は低地で、大雨が降ると氾濫し、水浸しになった。が、そうした氾濫流が土砂を押し上げ作った少し高い土地があり、向島、押上、牛嶋、京島などの地名にその痕跡が残っている。小梅もその一つで、その地に梅があったので梅ヶ原と呼ばれるようになったのが始まりだとか、業平天満宮の梅(天満宮が祀る菅原道真は梅を愛したので、天満宮には多くの梅が植えられている。)が起源だったとか言われている。

想像してみていただきたい。
低地部分には、春と夏には緑、秋には黄金色に輝く水田。その水田に、松島のようにポツリポツリと浮かぶ島々(高地)を。

広重の目には、華やかな街より、そういった、江戸にはもう無くなった原風景の方が、印象に残ったのかもしれない。

Map made in 1858


より大きな地図で 小梅堤 を表示

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