五畿七道
って、お聞きになったことございますかって、ないですよね?!
質問も終わらないうちに自分で答えてしまいましたが。。。
天武天皇の時代ですから673〜686年に始まったとされる行政区画です。
東海道とか東山道とか、そういったものなんですが、一番大きな単位が、"道" なんですね。道の中に、武蔵国とか相模国といった、"国" があります。
同じ道内の各国の国府、今で言う県庁所在地のような位置づけのものですが、国府を接続する道路があって、例えば東海道ならその道路のことを、"東海道" と言います。
はい、ややこしいんですが、行政区画としての名称と道路としての名称が同じなんですね。
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既述のように、各道には、各国の国府と国府とを接続する道路があるんですが、甲斐国と武蔵国が所属する東海道の場合、甲斐国が山側に入った位置にあるので、隣国駿河国と甲斐国の国府を直接接続せず、"甲斐路" という支路で、駿河国の横走駅から甲斐国府へと接続されていました。
甲斐国から行く場合、甲斐国府→甲斐路→駿河国横走駅→相模国→武蔵国といったようになり、下がって横行って上って、といった感じで遠回りになります。
一方で、甲斐国と武蔵国は隣国で、武蔵国府から奥多摩を経由すればそこはもう山梨県小菅村で、甲斐国に入ることが出来る訳です。
そういった場合、割と柔軟に連絡していたようなんですね。
ですので、武蔵国府と甲斐国府とを接続する連絡路もあって、今回はこれを行きたいと思います。
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武蔵国と甲斐国を結ぶ古道、そう言うとまず思い浮かぶのは甲州街道だと思います。
家康江戸入府の際、五街道を整備しましたが、その内の一つが甲州街道です。
この甲州街道に対して、武蔵国府と甲斐国府とを結ぶ連絡路は、言ってみれば、"古甲州道", 今回はこれを行きます。
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ここがスタート地点です。
大國魂神社の随神門前を横切る道、京所道と呼ばれる道が古甲州道です。
西に行き、JR武蔵野線、南武線の線路を陸橋で渡り降りた所が鎌倉街道で、この道が古甲州道となります。
鎌倉街道は分梅駐在所交差点で左に折れ、ここから先は御猟場道と名が変わります。
そうこうしてる内に道は新府中街道を渡り、NEC府中事業場に突き当たり寸断されますが、この敷地内の道筋に、1604年に整備された、甲州街道の一里塚があります。
※敷地内なので訪問せず、写真もありません。
これはどういうことかと言うと、初期の甲州街道は、古甲州道を踏襲していたようなんです。
NEC府中事業場を迂回し向こう側に行き続きを行きます。通りの名は日新通りとなりました。
古甲州道はやがて中央高速を潜り、いずみ大通りを越え、上之島神社を折り返し、いずみ大通りを北上し、R20の日野バイパス石田大橋を潜り、国立温泉湯楽の里辺りが石田の渡し場だったようです。
(なんとここまで写真を1枚も撮らずに来てしまいました。それほど、写真を撮りたいと思わせる風景がありませんでした。)
しかし、ここが渡し場なのは、1590年に、多摩川の流路が今の流路となって以降の話です。
府中市史によると、古多摩川の流路は下図のようでした。
一際太い青線が古多摩川と古浅川の流路です。北が古多摩川、南が古浅川です。
古多摩川は府中崖線に沿った流路、古浅川がむしろ今の多摩川と重なります。
1590年以前は、NEC府中事業場正門前が正に多摩川の渡し場だったということになります。
そして、石田の渡し場は勿論存在しませんでした。
足利尊氏も関戸の渡しではなく是政の渡しの方を選択するわけです。関戸の渡しの場合、多摩川と浅川と二度、渡河しなければならないわけですから。
新田川緑道に新田義貞の分倍河原の戦いの碑がありますが、随分と多摩川から離れてるなと思ってましたが、それもそのはずですね。正にここが当時の多摩川流路だったわけですから。
また、多摩川と浅川に挟まれたこのエリアは小野郷と言い、武蔵国一宮小野神社がありますが、2つの川に挟まれたエリアですから、やはり、洪水が多く、流され、対岸に遷座されています。
※府中観光協会より
多摩川と浅川の洪水によって、何度も繰り返しリセットせざるを得なかった、その結果、古道につきものの、庚申塔、地蔵、馬頭観音が全く残っておらず、よって、古道の面影は無く、写真を撮る気にならなかったと自己分析します。
その代わりと言ってはなんですが、ここには府中崖線の湧水と府中用水の織りなす癒やしの風景が残っています。
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