今の多摩川の流路は1590年の大洪水によって出来たもので、それ以前、古甲州道の時代は、概ね、府中崖線のハケ下を古多摩川が流れ、今の多摩川には古浅川が流れていました。
多摩川の渡し場は石田の渡しや万願寺の渡しではなくNEC府中事業場正門の辺りだったし、新田義貞と北条軍の分倍河原の戦いは、正に、多摩川と浅川の間の、"河原" で行われたし、武蔵国一宮小野神社は対岸に遷座せざるを得なかった、そんなエリアを古甲州道は通っていた、だから古道につきものの庚申塔や地蔵、馬頭観音などは全く残ってなく(度重なる洪水で流された?!), 古道の面影は希薄で写真を撮る気にならなかった、しかしこのエリアは府中崖線の湧水や府中用水による水の都で、癒やしの風景が広がっている、そういう話をしました。
今回は、そんな府中の先、日野を行きます。
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だから日野は、古甲州道の時代、多摩川で府中と隔てられたエリアではなく、府中とは地続きでした。
この地続きの日野に入って始めにあるのが、1604年時点の甲州街道の、万願寺の一里塚です。
はい、ちょっと説明しましょう。
江戸時代の甲州街道は何度かその道筋を変えていまして、上記地図のオレンジ線はその最終形ですが、初期の道筋は古甲州道と同じだったと考えられています。だからなんですね。
さて、日野と言えば土方歳三ですが、確かに、日野に実際に行ってみると土方歳三推し、新選組推しであることは間違い無いし、立派なお屋敷だなと思い表札をチェックしてみると土方姓であることも少なくなく、そういった意味ではそこかしこに痕跡が残っているんですが、土方歳三は幕末の人で、今回のテーマは古甲州道ですから、今回はスルーします。
上記地図の鳥居マークは神社、卍マークはお寺なんですが、全て、江戸時代より前の時代のもののみにマーキングしてます。
どうですか?, 江戸時代になってから開かれた町ではない、日野の歴史の深さがよく分かりますよね。
今回はこの辺りを紐解きながら、日野という町を、古甲州道を、見てみたいと思います。
まずはこちらです。
日野市史によれば、、、
―――創建年代不詳も、伝によれば、武蔵七党中の西党の祝日奉宗頼は武蔵国司となり、任終ってここに土着し、居館を構えて祖神天御中主尊・高魂尊を配った。その孫宗忠は西内太夫と称して、西党嫡流の始祖となった。その子孫は永くこの土地に住み、先祖の宗頼・宗忠を併せ祀って日野宮権現と称したと言う。日野宮は日野の地名起源説の一となっている。
江戸時代には別当日輪山薬王寺、明治二年以後は八坂神社の神職が祭儀に当たっている。―――
日奉宗頼。名字は、"ひまつり" と読みます。日祀部という、太陽信仰に基づく太陽祭祀を職業とする一族の出身とのこと。
偶然か必然か、冬至の日、日野からは、富士山頂に沈む夕日が拝めるのです。だから、この地に土着したのでしょうか。
日奉宗頼は931年に京都から武蔵国に下向し、932年から、936年に藤原善方に変わるまで武蔵守を務めました。
ということですから、日野は、それまでに既に開かれていた可能性もありますが少なくとも、936年に日奉宗頼が開いて以降の歴史ある集落だということです。
日奉宗頼が武蔵守の時、詰めていたのは府中ですよね。
府中と日野を結ぶ道が、古甲州道だったわけです。
それ以前から既に武蔵国府府中と甲斐国府甲府を結ぶ道だったのか、まず、府中と日野とを結ぶ道ができて、それが甲府まで延長したのか分かりませんが、何れにせよ、この府中〜日野間の道は、936年の時点で既にあった道、ということになります。
さて、日野宮、その別当薬王寺の近くには、こちらもあります。
日奉宗頼の妻を祀るといいます。
少し西に進むと成就院があり、そこには、栄町5丁目の丁字路にあった東光寺が移設されています。この東光寺は、日奉宗頼の孫、西内太夫宗忠が、日奉館の鬼門除けとして建立したとのことです。
また、東光寺神明社の背後にある台地に日奉館があったと考えられています。
東光寺神明社から多摩川方面への眺めは、正にここに館があったのだと思わせる眺望でした。多摩川、東光寺、日野宮、姫宮権現社が一望できたはずです。
さて、帰りには日奉宗頼の子、由井宗弘の直系、田村氏館跡と目されている安養寺に寄り道してから帰ります。
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如何でしたか。
日奉宗頼がこの地を選んだ理由が冬至の日のダイヤモンド富士だとしたら、ナント!!, ロマン溢れる物語となるか。
面白かったです。
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