今回はその続きとして日野市平山を訪れ、平山氏の痕跡をexploreしたいと思います。
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多摩サイを府中四谷橋まで。府中四谷橋を渡って浅川サイクリングロードに繋ぎ、平山橋に到着です。
平山橋の北は、大名淵という所で、平山氏の居館があった場所と言われています。今は、大名淵公園にその名を残しますが、痕跡はありません。
平山橋の袂なんて水害のriskが高く城の好適地ではないと事前explore時には思ってましたが、実際に行ってみるとご覧の通り。高台に位置していてここに感があっても良いと思いましたが私は城はマニアではないので。 |
そのまま浅川の北側を行き、平山八幡神社です。
滝合橋で浅川南岸に渡り、平山季重神社に向かいます。
平山城址公園駅から結構登りました。奥に行くに従い急登になっていきました。 |
社名はそのものズバリですが、風土記によれば嘗ては、日奉明神社と呼ばれていて、平山季重を祀るとしています。風土記編纂時点で既に平山季重を祀っていたんですね。
風土記には、近くの引田村の日吉神社に、日奉朝臣平山右衛門太夫と裏書きされた絵馬があることが書かれていて、日奉明神社という社名だし、平山村だしということで、引田村の平山氏がここ平山村に先祖の季重を祀ったのではないかと指摘しています。
先を行きます。平山城址公園駅前の、平山季重遺跡の碑と季重公霊地の碑です。
平山城址公園前駅は平山季重一色でした。 |
ここ平山城址公園駅は、嘗て、大福寺という寺がありました。天正年間(1573〜1591年)に、西多摩の平山氏が、先祖供養の為、開創したのです。しかしながら後に廃寺となり、墓などは宝印寺に移設されたということです。
これで先程の平山季重神社の風土記の記事と繋がりましたね。
天正年間ですから平山氏重が、平山季重神社と大福寺を、先祖供養の為、開いたということです。
はい。旧平山村に平山氏の痕跡を訪ねました。時系列に整理すると、
- 日野から浅川沿いに進出
- 八幡神社、あるいは平山橋北の大名淵に居館。平山氏を名乗る。
- 1185〜1190に、平山季重が八幡神社創建
- 秋川沿いに進出、小川郷、五日市、戸倉、檜原に。畠山重忠の乱、和田義盛の乱、承久の乱、鎌倉幕府倒幕、戦国時代を生き抜く。暫く主戦場はこちらか。
- 1191年、平山季重、大悲願寺開基(再興)
- 1207年、小宮神社創建
- 同年、大行寺開創
- 1381年、平山盛(守)吉、祈願所として平井子安不動堂開基
- 1386年、平山盛(守)吉、日の出町大久野山祇社創建
- 1390年、平山景時、平井八幡神社創建
- 1409~1439年、平山氏が属した武州南一揆宛に足利持氏恩賞状、阿伎留神社
- 1502年、平山氏、祈願所として大光寺開山
- 1527年、日奉宗連、引田大宮神社再興
- 1559年頃、平山氏重、玉林寺再興
- 500年弱の間を空けて、ここ平山村に、天正年間(1573〜1591年), 平山氏重が、先祖供養の為、日奉明神社、大福寺(廃寺)を開く。しかし、生活の場は引き続き西多摩。
さて、折角なので、近くの他の西党痕跡も訪ねましょう。
まずは長沼氏館跡です。
日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗守ー国守ー長沼二郎太夫職任という系図です。
個人的には、同族の平山氏の根拠地の直ぐ隣ですから、こちらの方が長沼館だった場合には、西党長沼氏なのではないか、と思っております。
長沼館跡からは長沼公園内の小野路道、またの名を野猿街道を行きます。とうやく隊道の道が小野路道、旧野猿街道ですが、そこに出たら、永林寺に南下する迅速測図では一本点線徒歩道の古道を行き、永林寺、由木氏館跡です。
日奉宗頼ー宗親ー宗忠ー宗貞ー由木三郎太夫重直という系図です。
帰りはこんな素敵な切り通しがある、永林寺東のやはり迅速測図では一本点線徒歩道の古道を北上し、
小さな峠の切通し |
小野路道、またの名を旧野猿街道に戻り、堀之内から池谷戸、多摩動物公園駅を経由して浅川サイクリングロード、多摩サイと繋ぎ、順調にクルージングしていた所、聖蹟桜ヶ丘手前で、"パスン" という大きな音と共に一瞬でリアの空気が抜けてしまいました。はい、パンクです。穴を確認すると5mm程、縦に鋭利に切れてます。ガラス片を拾いましたね。チューブラーなのでクイックショットで暫定対応するも穴がデカ過ぎたらしく塞がらず。聖蹟桜ヶ丘駅から輪行で帰りました。朝、迷ったんですよね。近場で自走だからバッグ背負いたくないし輪行バッグは要らないか?!, と。でも、今日は平山城址公園内散策もあるのでチェーンロック持って行くし、前回GR3忘れて後悔したので今回は持って行くことにするとやはりバッグか、と、輪行バッグを持って行ったのでした。神様ありがとうございました。
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