前回の記事で、そう言った。だから、今回は、大山道としたい。
大山道は、実は、二つある。新と旧だ。
旧道は現在の世田谷通り、新道は玉川通り、国道246号だ。三軒茶屋で追分となる。やがて、新旧の大山道は、用賀で再び合流する。ここでは、二子道とも合流する。
二子道の時に、慈眼寺の方と行善寺の方、両方大山道と言ったが、慈眼寺が旧道で、行善寺が新道とのことである。
下記地図を参照されたい。
より大きな地図で 大山道 を表示
さて、大山道は、律令時代の古東海道をベースとしているとのことだが、であるならば、武蔵国の国府、府中に繋がるはずだ。よって、世田谷区の大山道は、律令時代の古東海道をベースにしているのではなく、その後に成立したものと考えられる。
大山は、元は自然崇拝としての山岳信仰の地で、元々、山頂にあった霊石と天狗を崇拝の対象としていた。山頂近くで霧がよく発生し、雨が多かったことから、あふり山と呼ばれ、崇神天皇の御代だから紀元前100〜30年頃に、霊石と天狗を御祭神とした阿夫利神社が創建され、752年には大山寺が開山し、大山の、宗教の聖地としての位置が確立した。大山寺を本拠とする修験者も多く存在した。
時は流れ、1605年、東照宮の命により、不学不律の修験者は山を下り、下山させられた修験者達が、関八州を回って大山詣を勧誘したことから、大山詣が盛んになり、関東各地に大山詣の道が出来た。
世田谷区の大山道は、この頃に成立したものと考えられる。
さて、では何故新旧で道が異なることになったのか。新道は、江戸中期以降に成立したらしい。
地形図を見てみよう。
大山道 地形図 |
赤線の旧道は、蛇崩川と烏山川の作った谷の間の尾根を走るよう、ほぼ真西に走っている。世田ヶ谷宿の辺りで、南西に折れているが、ちょうど、蛇崩川の作った谷の終りをかすめるような道筋となっている。
一方、青線の新道は、追分から直ぐの所で、蛇崩川を渡っている。が、駒沢の辺りで不自然に北西に曲がっている。よく見ると、呑川を避けているようだ。
推理すると、旧道の頃は、大阪夏の陣、冬の陣や島原の乱など、幕府もまだ安定政権とは言えず、橋も整備されておらず、川を避けなくてはならなかった。江戸も中期以降になると、幕府も安定し、平和になり、蛇崩川にも橋もかけられたのではないだろうか。だから、距離的に短い新道が作られた。が、呑川には橋はかけられなかったので、避ける道筋となったのだ。
では、実走することにしよう。
池尻から出発する。
R246、玉川通りの池尻大橋が出発点だ。池尻大橋とは、池尻と大橋の間に位置するからだが、大橋とは、玉川通り池尻大橋上り方向すぐの所にある目黒川に架かる橋から来ている。
又、池尻の尻とは、出口を意味し、池の出口、流れ出しを指す。では、この辺りに池があったのかというと、西に目を転ずると、北沢川と烏山川の合流点、目黒川になる地点があり、この辺りは、デルタ、沼地だったという。
さて、池尻大橋の東口に、玉川通りと大山道旧道の追分がある。ここを出発点とする。前置きが長くなった。
旧道に入り暫くすると、右手に池尻稲荷がある。
池尻稲荷 |
明暦年間の創建とのことなので、1655〜1657年だ。
旧道は、直ぐに玉川通りに戻る。暫くすると、三軒茶屋の、旧道と新道の追分だ。ここに、大山道の道標がある。
新旧大山道追分道標 |
この道標、寛延2年(1749)建立、文化9年(1812)に再建されたそうだ。上に、お不動さんが乗っかっている。正面に、「左相州通大山道、」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」 と、刻んである。
三軒茶屋の地名由来だが、この追分に三軒の茶屋があったから、というのは有名な話。角屋、田中屋、信楽の三軒だが、何と田中屋は商売は変わったが、まだ残っている。
さて、それでは、道標に従い、右の旧道に行くとしよう。
特に何も無い東京の大通りが続く。環七も過ぎ、暫くすると、右手に、大吉寺と円光院明王寺がある。
円光院明王寺 |
大吉寺 |
大吉寺は、開山年不明なれど、吉良氏の祈願所だというから、1336〜1590年の間に開山のはずだ。隣の明王寺は、天正年間開基で、やはり、吉良氏の祈願所だった。
明王寺の前に左に入る道があるが、それが旧大山道だ。左に曲がって一本目を右に折れる。クランクになっているのだ。クランクということは、そう、ここは、世田谷宿という宿場だった。クランクを境に西が上宿、東が下宿だ。この上宿と下宿は新宿で、元宿は、区役所の辺りだ。元宿は、吉良氏の時代に始まったと考えるのが妥当だろう。その後、1532年頃の吉良頼康と北条氏綱の娘、崎姫との結婚から成立した、吉良氏の、北条氏の実質的な御家人化以降は、ここ世田谷は、小田原城と江戸城の間に位置する重要拠点となり、世田谷宿を更に発展させる必要が出て来て、新宿を設け、楽市を始めたと推察される。この楽市が、今日のボロ市だ。
はて、大山道は、東照宮の不学不律の僧や修験者の下山命令から始まったと言ったが、それより前ということになる。大山詣で使われ始めたのは江戸期からだが、道そのものは、少なくとも、北条氏が江戸城を落とした1524年には、江戸城と小田原城を結ぶ道として成立していたと考えよう。
大山道は、上宿に入ると直ぐ、世田谷代官屋敷がある。
世田谷代官屋敷表門 |
世田谷代官屋敷主屋 |
世田谷代官屋敷内部 |
表門と主屋は、国指定重要文化財だ。主屋は、1737年の建築で、表門は、1753年と言われている。この代官屋敷は、世田谷領代官、大場氏の屋敷で、大場氏は、吉良氏の重臣だった。元は、元宿の辺りに住んでいたが、ここに移った。恐らく、北条氏に新宿の管理を任されたのだろう。
さて、大山道は、世田谷通りを越え、突き当たり、左に曲がり、又、世田谷通りを越えて続いている。二回目に世田谷通りを越えた後、これは古道ではないが都道427号を越える手前、嘗てここに道標があったことを示す石碑がある。肝心の道標は、世田谷代官屋敷内の郷土資料館にある。
大山道道標跡 |
移設された大山道道標 |
これまで、大通りが続いて古道らしくなかったが、都道427号を越えてからは、古道の雰囲気が出てくる。やがて、道は下りとなり、下り切った所の公園に、大山詣の銅像がある。
大山詣旅人、にしても、良く出来ている。 |
銅像の向かい、マンションの敷地には、小さな祠もある。この祠、元八幡様だったようだ。又、この辺りは蛇崩川の源流であり、水場もあったのだ。一服するには格好の場所だったのだろう。銅像の表情が、何とも良くそれを表している。作者、あるいは企画者は、よく勉強したに違いない。
元八幡様 |
再び坂を上り、上り切った辻にお地蔵さんがある。この辻も古道だ。
お地蔵さん |
暫く進み、道は下りとなり、やがて、二子道の際、出会った鎌田酒店に出る。ゴールだ。左からは、新道も合流している。
新道に続く。
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