2012年9月15日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Takisaka-michi Part 3 / 世田谷区の古道、滝坂道パート3

東急世田谷線沿いの都道427号、これも古道で、鎌倉道である。鎌倉道を渡り、滝坂道を西へ行く。直ぐに、乗泉寺世田谷別院がある。乗泉寺世田谷別院は、近代的な建築だ。趣が無い。(すみません)

直ぐ隣には、山門と木々の緑のコントラストが美しい曹洞宗 常徳院がある。

滝坂道、常徳院
開山年は、1486年に室町幕府第9代将軍足利義尚が開山したという説があるが、1573年の吉良氏印判状に記載があることから、少なくとも1573年には在ったとのこと。いずれにしても、吉良氏が支配していた時期だ。吉良氏が開山にかかわっていたことは明らかだろう。

さて、滝坂道に話を戻す。暫く行くと追分があり、そこに、庚申塔とお地蔵さんがある。

滝坂道、北道と南道の追分
滝坂道、北道と南道の追分にあるお地蔵さんと庚申塔

この追分は、滝坂道の北道と南道の追分だ。北道はそのまま真っ直ぐと台地を進み、南道は烏山川が削った低地へ一度下り、再び台地に上る道筋となっている。前回の記事にも書いたが、どう考えても北道の方が都合が良いはずだ。何故、南道が出来たのか。。。

今回は両方の道をExplorerするが、まずは本道と思われる北道から。滝坂道 北道は、本町通り商店街となり、小田急線経堂駅前に出る。

滝坂道 北道の古道の道筋

小田急線のガードを潜り、すずらん通りが滝坂道 北道だ。これといった歴史遺産もないまま、経堂小学校に至る。ここで左(南西)から合流してくる道が、滝坂道 南道である。

北道と南道の追分に戻り、今度は南道を行く。追分を南道に入ると直ぐ、又追分となる。滝坂道 南道はここを右(北)に行くのだが、左(南)もまた古道だ。この三角地帯は畑となっていて、境界地には樹齢が50年や100年じゃ利かないだろう巨木が聳えている。昔からの農家なのだと思う。世田谷の良いところだ。

滝坂道 南道、追分直後の畑

暫く進むと烏山川が削った台地に下っていく。下った先にある御屋敷の門が素晴らしかった。不老門というらしい。

滝坂道 南道、不老門

先に進む。滝坂道 南道も、古道らしい道筋が楽しめる。

滝坂道 南道、古道らしい道筋

暫く行くと、農大通りとの交差点に出る。この農大通りも古道で、二子玉川に続く道であり、二子道と呼ばれている。この追分に、庚申塔があった。

滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 正面
滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 西面
滝坂道 南道、二子道との追分の庚申塔 南・東面

道標に従い、府中(西)に向かう。直ぐに、1624年開山のこれもやはり曹洞宗 福昌寺がある。が、それもそのはず、開山は常徳院の第八世住職年齢玄甫大和尚だ。

しかし、福昌寺の歴史はそこからではない。当時の江戸城のお抱え医師だった、松原土佐守彌右衛門が開基だという。この、松原土佐守彌右衛門は漢方医で中国から帰化した人物だった。松原土佐守彌右衛門は1588年死去なので、遡って後北条氏が支配する江戸城だ。後北条氏と言えば、吉良氏との関わりが深い。吉良成高の息子頼康は、北条氏綱の娘と政略結婚し、吉良氏は後北条傘下に入っている。つまり、この福昌寺も、吉良氏が建てた寺といえる。

滝坂道 南道、福昌寺

話を滝坂道に戻す。暫く行くと小田急線のガードに出るが、その手前に、庚申塔がある。

滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔正面
滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔 西・南面
滝坂道 南道、小田急線ガードの庚申塔 西・北面

道標に従い、西に行く。西通り商店街が滝坂道 南道だ。直ぐに追分があり、お地蔵さんがある。

滝坂道 南道、子宝地蔵

この追分を右(北)に行くのが滝坂道 南道である。左(南)の道も古道だが。暫く行くとT字路となる。ここを右に行くと経堂小学校で、滝坂道 北道と合流する。このT字路に、金網で囲まれた何とも不思議な稲荷神社がある。

滝坂道 南道、T字路の稲荷神社
稲荷神社ということで、恐らくは屋敷神として祀られていたが、屋敷が無くなり、神社だけが残ったのだろうが、何故、金網で囲まれているのか。。。

北道と南道、北道が本道と思われるが、地形図を見てみよう。

滝坂道、北と南

ちょっと分かりづらいかもしれないが、色が濃い方が北道、薄い方が南道だ。北道は台地の上を走っている。南道は、一度烏山川が削った低地に下り、小田急線のガードを潜った辺りから西通り商店街を上っていく。実際にjoggingしてみても、北・南道の追分から暫く行った所で台地から低地に下りる下り坂となっているし、西通り商店街は緩やかな上りが続いていた。

何故、わざわざ一度下って又上るのか。。。

それと、写真を見てもお分かりの通り、南道の方が、庚申塔やお地蔵さんなど、歴史遺産が多い。北道には追分以降、何も無い。

推理してみよう。


  • 道は、江戸時代以降は庶民も使っていたが、それ以前は基本的に軍用だった。
  • 北道は台地上、平坦。南道は上り下り。
  • 庚申塔は、道教に由来する庚申信仰によるものだが、仏教、神道、修験道などが複雑に絡み合った信仰で、仏教では青面金剛を本尊とし、神道では猿田彦とした。猿田彦は、邇邇芸尊が天から葦原中国に降り立たんとした天孫降臨の時に、足元を照らし道案内したということから、道祖神と同一視されていた。だから、村境や追分、辻などに建てられている。
  • お地蔵さんも道祖神と習合している。
  • 共に、江戸時代に盛んに建てられた。


北道は公の道で、南道は庶民の道だったのではないか。北道は江戸時代以前に成立していて、南道は江戸時代に成立した。北道は軍用の道。だから、平坦でなければならない。南道は庶民の道。だから、上り下りを強いていた。

次回は、経堂小学校より西をご報告する。

以上

0 件のコメント: