2019年5月5日日曜日

概説、延喜式前の武蔵国の古代東海道

771年より前、武蔵国は東山道に属していました。京都からの場合、上野国新田駅から武蔵国府へ行き、同じ道を戻って、下野国足利駅へと行きます。この、上野国新田駅・下野国足利駅から武蔵国府への道を東山道武蔵路と言います。

尚、この時、東海道は、相模国→上総国→下総国→常陸国というルートであり、相模国→上総国は、三浦半島から房総半島に渡る海上ルートでした。このテーマについては、古代東海道シリーズの前回でご紹介しています。

西の青マーカが上野国国府、東が下野国国府、両国府間を結ぶ青線が東山道で、その間が上野国新田駅。そこから南に延びる青線が東山道武蔵路で、行き着く先が武蔵国府。

768年、続日本紀、『また、下総国井上・浮島・河曲の三駅、武蔵国乗潴・豊島の二駅は、山海両路を承けて、使命繁多なり。乞う、中路に准じて、馬十疋を置かんと。勅を奉るに、奏に依れ。』とあり、これは、下総国の井上、浮嶋、河曲の3駅と、武蔵国の乗潴、豊島の2駅は、東海道と東山道とを連絡しているが非常に良く使われるので、中路に格上げして馬も10匹に増やしましょうという内容で、と、言うことは、本来、繋がらないはずの東山道武蔵国と東海道下総国がこの5駅を通る連絡路で繋がっていたことが分かります。

この連絡路ですが、豊島駅まではほぼ分かっているんですが、問題は、乗潴駅なんです。説が確定されていません。

そもそも、読み方も確定していません。2字目は、 "ヌマ" で決まりなんですが、1字目は、 "アマ" , あるいは、 "ノリ" のどちらかです。つまり、 "アマヌマ" か、 "ノリヌマ" のどちらかとなり、前者なら天沼、後者なら練馬で、天沼の場合、更に、杉並区か大田区の2つの選択肢が出てきます。

ただ、東海道と東山道を結ぶ連絡路ですから、東山道側の接点は武蔵国府と考え、と、なると、乗潴駅は豊島駅と武蔵国府の間に位置していて、練馬か杉並区天沼が妥当だろうとする説があり、少なくともこの時点ではその説を採用しておきたいと思います。

東から、河曲駅、浮嶋駅、井上駅、豊島駅、一番西に武蔵国府。そうすると、豊島駅と武蔵国府の間に杉並区天沼、練馬が位置しました。

771年、続日本紀、『太政官奏すらく、武蔵国は山道に属すと雖も兼ねて海道を承け、公使繁多にして祗共堪へ難し。其の東山の駅路は上野国新田駅より下野国足利駅に達せり。此れ便道なり。而るに枉げて上野国邑楽郡より五ヶ駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日、また同道を取りて下野国に向ふ。いま東海道は相模国夷参駅より下総国に達せり。其の間四駅にして往還便近し。而るに此を去り彼に就くことを損害極めて多し。臣ら商量するに、東山道を改めて東海道に属せば、公私ところを得て、人馬息ふこと在らん、と。奏可す。』と、あり、これは、武蔵国は東山道に属しているものの東海道と連絡し、非常によく使われている・・・これは768年の話と同じ話をここでも言っていますね・・・で、東山道はというと、上野国新田駅から下野国足利駅に直接繋がったら非常に便利だが、今は5つの駅を経て武蔵国に行き、帰りも同じ道で帰ってこなければならない・・・と、東山道の事情を記述した後・・・東海道は、以前は海上ルートだったけれども今は既に相模国夷参駅から武蔵国を通過し下総国に行っていて、この間、たった4駅で非常に便利なので、いっそ、武蔵国を東山道から東海道に付け替えしてはいかがでしょうという内容で、このことから、768年の続日本紀同様、繋がらないはずの東山道武蔵国と東海道相模国が、相模国夷参駅から東山道武蔵国の武蔵国府(1)に繋がり、以降、乗潴駅(2), 豊島駅(3), 東海道下総国井上駅(4)の4駅で東海道下総国に繋がっていたということが分かります(諸説ありますがこれが有力なようです。)。更に、この時から晴れて武蔵国が東海道に属し、相模国夷参駅、武蔵国府、乗潴駅、豊島駅、井上駅のルートが東海道になります。

一番西が夷参駅

整理すると、武蔵国の官道は、
  1. 771年より前、東山道武蔵路
  2. 768年、東海道下総国井上駅から、東山道武蔵国豊島駅、乗潴駅を経由し武蔵国府へという連絡路
  3. 771年より前、東海道相模国夷参駅から東山道武蔵国府への連絡路と、2のルートを逆走し東海道下総国井上駅へと行く連絡路
  4. 771年以降、武蔵国が東海道へ付け替えとなり、3の連絡路が東海道に昇格
と、言うことになります。変遷としては4ですが、ルートは1と4 (3)の2つですね。

ここで、では何故、東海道は道(どう)が異なる武蔵国と連絡しなければならなかったのか、最終的には武蔵国を東海道に付け替えしなければならなかったのかを考えてみたいと思いますが、やはり、よく言われているように、東北が影響していたと思われます。
  • 724年、陸奥国の国府として多賀城築造
  • 759年、坂東の兵士、民衆を徴発し桃生城(宮城県石巻市), 雄勝城(秋田県横手市付近)を築造
  • 768年、東海道下総国河曲、浮嶋、井上の各駅、東山道武蔵国豊島、乗潴の各駅を中路に格上げし馬数を10匹に増加
  • 771年、武蔵国を東海道へ付け替え
  • 776年、出羽で発生した叛乱の鎮圧のために騎兵を派遣
  • 776年、安房・上総・下総・常陸の4国で船50隻を造って陸奥国に設置
  • 777年、相模・武蔵・下総・下野・越後の5国が甲200領を出羽国に送る。
  • 780年、兵士と食料を多賀城に送る。
  • 781年、相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸が陸奥国へ米を海運で送る。
  • 792年、郡司の子弟からなる健児を設け、軍事力の強化が図られ、下総国では150人の設置が指示された。
  • 794年、更に10万人を派兵
  • 801年、坂上田村麻呂を征夷大将軍とした4万人の兵を送り込む。
  • 802年、胆沢城(岩手県奥州市)を築き、駿河・甲斐・相模・武蔵・上総・下総・常陸・信濃・上野・下野といった諸国の浪人4000人を送る。
  • 804年、下総国など坂東諸国が米を陸奥国に送る。
既述の武蔵国東海道付け替えだけでなく、835年には、渡河用の舟が、下総国太日川(今の江戸川)では2艘から4艘に、武蔵国と下総国の境だった隅田川でも2艘から4艘に増やされています。

東北を支配下に入れ国力を上げる必要があり、その為には、最前線となる坂東("坂"は足柄峠のことでそれより東、今の関東のこと)諸国は米や馬、兵、船などを物流する必要があって、武蔵国を東海道に入れる必要があった、ということです。

そもそも何故国力を上げなければならなかったのかと言えば、白村江の戦で敗れ、唐の脅威に備えなければならなかったから。この時、倭から日本に変わっています。

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