2019年5月18日土曜日

杉並区天沼ルート(定説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道

前回の続きです。



この地図は、前回概説した武蔵国の古代東海道を中心に、東山道や下総国と相模国の東海道も含めて、想定ルートを書き込んだものです。

古代官道は、特に初期のものはワイド&ストレートで、現在の道路に必ずしも残っていませんが、残っていそうな所を基本に、現在の道路で繋ぎ合わせています。

地図の説明ですが、まずラインは、

  • これまで説明してきた771年の武蔵国東海道付け替え以降の古代東海道(771年以前は山海両路を承る連絡路)は紫ラインです。複数ありますが、定説や私論を書き込んでいますので。
  • 771年以前の武蔵国東山道時代の東山道武蔵路は黒
  • 青は、これまで語ってない、次にやろうと思ってる延喜式古代東海道、赤も同じく延喜式です。豊島駅と井上駅の間は、延喜式と771年以降とで同じルートとなります。

次にマーカですが、東京都内の平安期以前の寺社等をマークしています。色分けですが、

  • グレーは日本武尊伝承がある神社
  • 黒は源頼義・義家親子の前九年の役・後三年の役の伝承がある寺社
  • 緑は慈覚大師円仁縁
  • 黄は行基
  • 茶は平将門
  • 赤はそれ以外の神社
  • 青はそれ以外の寺
  • オレンジは史跡等
  • 紫は駅比定地です。

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さて、ここで、前回2説あると記述した天沼なんですが、杉並区か大田区かということなんですが、こうしてみると、杉並区の方が、断然、古寺社の集中度合いが高いことが分かります。大田区の方は1030年創建の旗岡八幡があるのみですから。

確かに、杉並区の方も、源頼義・義家親子の伝承、つまり、1000年代が多いのですが、天沼熊野神社は768年創建の可能性があり、阿佐ヶ谷神明宮は日本武尊伝承ですからそれより更に前の可能性があり、源頼義・義家親子の伝承についても、そこに道があったからその伝承があり、その道はそれ以前からそこにあった可能性もあるわけで、考慮に含めた方が良いだろうと思います。と、いうことで、私としては天沼は杉並区を推したいと思います。

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では、武蔵国府から豊島駅までの、杉並区天沼、あるいは練馬を通る道筋とはどのようなものだったのでしょうか。

まず定説は人見街道です。この道はワイド&ストレートで、古代東海道をそのまま残しているように思えます。道筋は、武蔵国府から現在の人見街道を東進し、現在の人見街道のまま三鷹一小を左折、北東に進み、現在の人見街道のまま牟礼二丁目で右折はせず、三鷹台駅方面に抜けます。そのまま北東に進み、神田川、善福寺川を渡り、荻窪八幡の辺りから東に進むようになります。すると天沼熊野神社を通り、この辺りが乗潴駅なのではないかと思ってますが、阿佐ヶ谷神明宮も過ぎ、新井薬師の辺りから北に折れ、やや弧を描くように西ヶ原の豊島駅へと向かいます。東、北、東、北、東と、階段状に行く感じです。

直線性についてですが、ほぼ、直線が階段状に繋がっていると言えます。天沼も通りますし、荻窪八幡、天沼熊野神社、阿佐ヶ谷神明宮と、このエリアで最古参の古社も通りますので、最有力候補、といった感じなんですが、同時に、幾つか疑問もあります。
  • まず第一に、何故、三鷹一小で曲がらなければならなかったのでしょうか。確かに、西ヶ原は北東にありますから、いつかは北に向かわなければならないんですが、何故、ここだったのでしょうか。と、言うのも、この道は、三鷹一小から先も、下高井戸まで直線が続くのです。迅速測図でもそうなんで、明治初期、少なくとも近代、恐らく中世、あるいは古代まで遡れると思われます。
  • 第二に、三鷹一小で北東に折れ、牟礼二丁目で今の人見街道の通りに行きませんが、もし行った場合のこの先の人見街道も実に直線で捨て難いのです。
  • 第三に、このルートの場合、神田川、善福寺川、妙正寺川、最後に石神井川と4度も川を渡らなければなりません。アップダウンもありますし、谷が深く急流で容易に渡れなかったかもしれません。
確かに、三鷹一小で北上せず、下高井戸まで行ったとしても、この4川は渡らなければならないんですが、なら、下高井戸まで直線で来た方が良いのではないか、とも思います。

陰影図、全部紫で分かりづらく恐縮です。三鷹一小で北東に進むのが定説、そのまま東進するのが異説です。それ以外にも幾つか私なりの候補があり、特に北の2本は別記事で説明したいと思いますが、定説と異説の間の、人見街道のまま東進するルートや、古寺社が集中する盾のラインも古道で接続しています。

と、言うことで、定説と言いつつも、疑問が残る人見街道ルートなんですが、話が二転三転して恐縮なんですが、こうして地形を見てみると、善福寺川を渡った後、桃園川と妙正寺川の間の尾根を狙ってルーティングされていて、神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川の合流地点直前で、それを避けるかのように北に向きを切り替えていて、理に適っていますね。

また、疑問1の、何故、三鷹一小で曲がったか、ということに繋がるかもしれない話として、下記陰影図を見てください。

牟礼山、と、勝手に名付けました。

三鷹一小で北東に曲がる所に山があるんですね。今ここは牟礼神明社、牟礼の里公園になっています。北東に曲がらなきゃいけないことは分かってたので、ではどこで切り替えるかと言った時に、この山が測量的なターゲットとなったとも考えられるわけです。

そして、道は、この山のど真ん中を切り通しています。因みに人見街道はこの山を避けるべく曲がっていますね。ど真ん中を切り通しているところなんかは古代官道っぽいような気もします。逆に、牟礼二丁目で右に曲がった後の人見街道は、中世以降の道かもしれません。

また、下高井戸まで行くルートについても、地形を見ると、神田川右岸崖上を行き、神田川が北に向きを変えたと同時にこのルートも北に向きを変え、神田川を渡った後は左岸崖上を行き、そのまま新井薬師まで北上していて、むしろこちらの方が良く理に適っているように思えます。ただ、こちらのルートは古寺社が少ないですが(いずれにせよ、武蔵国府から豊島駅までの延喜式前の古代東海道を考える時、この、東西方向にある、神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川、石神井川が、キーになりそうな予感もしています。これ、次回以降の布石です。)。

と、言うことで、
  • 人見街道~三鷹一小~三鷹台~荻窪八幡~天沼熊野神社~阿佐ヶ谷神明宮~新井薬師~西ヶ原(豊島駅)というルートを定説に据え置きつつ、
  • 人見街道~三鷹一小~下高井戸~大宮八幡~新井薬師~西ヶ原(豊島駅)というルートも押さえておく
ことにしようと思います。

・・・なんですが、やはり捨て置けないのが大宮神社からの古社が密集している縦のラインです。直線性は無いんですが。と、言うことで、以上を踏まえつつ、実走してきたいと思います。

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滝坂道、甲州道中、品川道、古品川道で武蔵国庁跡へ。ここをスタートとします。

武蔵国府国庁跡

京所道を東へ。程無く、国府域を守る、が、故に西向きの武蔵国府八幡宮です。

武蔵国府八幡宮
ここにはこんな素敵な古道が残っています。1300年前まで遡れるかも。

人見街道へのアプローチを甲州道中ではなく京所道を選んだのは、京所道が古甲州道だったということと、この武蔵国府八幡宮が理由です。武蔵国府八幡宮の参道は、今、甲州道中に設けられていますが、社殿の位置から、元々は京所道〜品川道であるこのルートだったのではないかと思ってます。

ちょっと、分かりづらいですが、一番左の青マーカが国庁です。その直ぐ南に東西方向の1本実線(荷車小径)がありますが、これが京所道です。大國魂神社の境内を突っ切って西に行ってますが、これが古甲州道ということになります。人見街道へと続く古代東海道は、ここを東で、京所道、基点(黄色)から、中間点(黄色), 武蔵国府八幡宮(緑), 中間点を結んだ道、途切れ途切れですが、嘗ては繋がってたのでは?!と、思ってます。

航空自衛隊府中基地で一部カットされた残存部分から浅間山通りまで、この辺りが人見村の最も栄えていた所と思われますが、ここから三鷹一小まで直線が続きます。

現在の浅間山通りまで集落となっている。

Wide & Straight, 真っ直ぐです。

三鷹一小で左折、牟礼二丁目で右折せず直進しますが、ここが件の山です。が、ビルが林立する今は山が分かりづらいですね。

しかし、神明社からの眺めはこれですから、やはり、山なんです。

牟礼神明神社からの眺め、ここが山であることが良く分かるショットです。

さて、山越えしたら神田川渡河です。

神田川
神田川を渡河後、向こうの大地に上がり、振り返った絵です。神田川の向こうの牟礼の山も見えますね。今はこのようになだらかですが、当時はどうだったんでしょうか。崖だった???

神田川が削った谷から台地へ上がり、上がったと思ったら善福寺川が削った谷に下り、善福寺川を渡河します。

善福寺川に向かいこの下り
善福寺川

善福寺川を渡河したら進路を東へ。889〜898年創建で、源頼義が前九年の役の往路で戦勝祈願したとの伝承もある荻窪八幡の前の道を行きます。

荻窪八幡神社、何故か東を向いてます。

荻窪八幡を過ぎて直ぐ、道筋がV字状になっていて直線を保持できていないのは、妙正寺川の支流(による谷)を避ける為です。


V字にして妙正寺川の支流を避けたルーティング

道は、現在の日大ニ高通りから早稲田通りへと続きますが、ここから新井薬師まで、直線をよく保持しています。この区間に、乗潴駅私的比定地天沼熊野神社と、日本武尊伝承によって創建は律令以前にまで遡れる可能性がある阿佐ヶ谷神明宮があります。

天沼熊野神社、伝承によると、768年、東海道巡察使である紀広名が東海道巡察の為、この地を訪れ、故郷の氏神を祀ったのが起こりとのことです。そのものズバリでした。

旧社地はこのルート沿いにあった阿佐ヶ谷神明宮です。

阿佐ヶ谷神明宮

で、この直線です。

見よ!!!この直線性を

道は、新井薬師の少し南に行き着き、北にほぼ直角に曲がります。この先(東)は神田川、善福寺川、桃園川、妙正寺川が合流し、且つ、それらの支流も多く、これより先に進んだら最後、山あり谷ありの複雑な地形をやり過ごさなければならなくなってしまいます。よって、ここで曲がるのは必然と思われます(上記1つ目の陰影図参照)。

さて、新井薬師です。縁起を見ると鎌倉期の開山とのことでマーキングしてなかったんですが、武相国境をexploreした身としては、 "薬師" が、どうしても気になるのです。

新井薬師、正面参道越しに瑠璃殿
ちょっと中を。ここはいつ来てもお経が唱えられてますね。

そこで、もう一度、縁起を調べれば、徳川秀忠の第5子、和子の方が患った目の病気を快癒したことから目の薬師と呼ばれたとのこと。やはり。

そう言えば、先程言ったようにここは川だらけ。行く先には妙正寺川があります。覗いてみればやはり、鉄でした。

妙正寺川に江古田川が合流する所は水酸化鉄でした。

で、あるならば、800年前後、この地に、坂上田村麻呂に敗れた東北の奴隷達が連れて来られたのかもしれません。

その妙正寺川は、本日3つ目の河川渡河でした。

妙正寺川と妙正寺川が削った崖線
哲学公園内に入り崖線を確認するとこの通り。今の通りはかなりなだらかにしてあるのであって、神田川も善福寺川も、妙正寺川も、元はこのような崖だったのではないかと思いました。

さて、妙正寺川の谷から台地に上がれば千川上水沿いの道筋となります。上水ですから必ず高い所から低い所に配置されます。だから、上水が出来た後、その土手に道が出来るという順番は理解出来るんですが、今回の場合は、律令の時代の道ですから、まず道があって、その道沿いに上水が出来た、と、しなければならないんですが、だとすると、道を、わざわざ高き所から低き所へ配置したということになります。これは到底考えられない訳で、と、なると、たまたま一致したか、この道筋ではないということになりますね。

ともかくも、道は板橋宿をやり過ごし、4つ目の川、石神井川旧流路を渡河します。今はご覧の通り、ただの道路ですが。

写真だと分かりづらいかもしれませんが、下ってます。

そしてこの道は現在の諏訪台通り、都道455に突き当たりそこが豊島駅の目の前になります。


豊島駅

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定説ルートは完走です。帰りは異説ルートだったんですが、長くなったので後日にします。

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