前回、滝坂道の全ルートを、古道真っ直ぐ原則、古道行政境原則、現代の地図、明治初期の古地図、地形図、実走までして推理したばかりだが、結論からいうと、早速訂正させていただきたい。だか、これは、前回の推理より自信がある。
では、推理の順番でご報告させていただく。
まず現代の地図だ。以下の点を頭に入れ、現代の地図を眺める。
1. 起点はヨークマート
2. 古道真っ直ぐ原則
3. 古道行政境原則
4. 府中へは、人見街道を経由
すると、以下の推理地図が出来上がる。
より大きな地図で 古府中道 を表示
これを、明治初期の古地図で検証する。律令の時代の古道を検証するのに明治初期の古地図が十分ではないことは分かっている。が、無いよりはマシだろう。又、地名5,000年と言われるではないか。地名が5,000年ならそれを繋ぐ道も、意外にも古いものが残されているはずだ。
古府中道 明治初期古地図 |
さて、精度の問題で、ピタッと一致はしてないものの、概ね、合っている。
ここまで来たら、実走だ。冒頭に戻る。
人見街道の真福寺の追分だ。ここに、日蓮宗高栄山真福寺がある。
真福寺 |
開山は目黒碑文谷の法華寺からきた日栄上人で、後北条氏の家臣、高橋綱種が建てた寺だ。
この高橋綱種は、天文六年(1537年)、扇谷上杉方の難波田弾正が拠る深大寺城に相対する為に牟礼砦を築陣した人物だ。だから、真福寺もこの年代に開山したと思われる。
この少し前、1530年には、世田谷城が、扇谷上杉氏に一度は奪われたという話もある。その直後、1532年頃ということであるが、当時の世田谷城主 吉良頼康は、北条氏綱の娘、崎姫(高源院)と婚姻を結んで、後北条氏と姻戚関係となっていた。
つまり、世田谷城は、この頃既に、実質は後北条氏の城となっており、それを守らんが為に、後北条氏家臣、高橋綱種に牟礼砦を作らせたということになる。
話が横道に逸れた。元に戻そう。真福寺の追分の三角地帯に、古峯神社がある。インターネットで調べたが、云われは分からなかった。
古峯神社 |
追分を南に分かれ、道なりに進むと、東八道路にぶち当たる。そのT字路を東に行く。もうあとは基本的に一本道だ。自転車の速度も自ずと上がる。一瞬通り過ぎかけたが、久我山病院のすぐ先に、庚申塔などが大切に保存されていた。追分など無いのに何故ここに?と思ったが、保存のされ方を見ても、移設であろう。
久我山病院前 庚申塔等 |
先に進む。中央高速を潜ると、古道の雰囲気が出てくる。
古道の趣 |
そのまま行くと、環八の手前に医王寺がある。
医王寺 |
寺伝によると、承和元年(834年)弘法大師が東国を巡行した際、箱根山で彫った薬師如来像を、海星和尚がここ上高井戸に草庵を建て、本尊として安置したのが始まりという。
医王寺を過ぎるともう環八だ。環八を南に行き一つ目を東に行く。突き当たりを南に行き、甲州街道を渡り、八幡山の駅のガードを潜り抜け、道なりに進むと、ヨークマートに出る。
さて、実走してみて真っ先に感じたのは、走り易さだ。行きは滝坂道だったわけだが、比較して、全然楽だった。理由は、アップダウンが無いからだ。ずっと、平坦なのである。
地形図で確認してみる。
古府中道 地形図 |
やはり、ずっと、台地上を行っている。
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走り終えてみて、確信した。滝坂道は、こっちだったのではないだろうか。
つまり、こうだ。
今の滝坂道は、家康が江戸に入府し、甲州街道を整備してから出来た。正に、滝坂を目指す道で、滝坂から甲州街道を経由し、府中も経由して、甲州に向かう道だった。
それ以前の滝坂道は、滝坂道とは言わず、古府中道と呼ばれ、ヨークマートから分岐し、人見街道に至り、武蔵国の国府、府中を目指した。
滝坂道は律令の時代から成立していたというが、それは、ヨークマートまでだったのではないか。滝坂道の核心部分は、ここだったのである。(東はやはり、日比谷湊か品川湊だろう。)
『地形』以外の視点での検証も試みる。
真福寺のいわれを調べてた最中に思いついた。ポイントは、深大寺城の扇谷上杉氏と世田谷城の吉良氏、後北条氏の、関東の覇権争いだ。
大永4年(1524年)1月、北条氏綱は、扇谷上杉氏の居城だった江戸城を奪う。朝興は、反撃を図るため、逃げ先の河越城から頻繁に南武蔵に出撃するようになった。享禄3年(1530年)6月、朝興は深大寺城に陣を敷き後北条氏と相対した。
子 上杉朝定は、江戸城奪還を図るため、天文6年(1537年)4月、難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築、しかし、同年七月、氏綱は深大寺城を迂回して河越城を直接攻め、朝定は松山城に敗走することとなった。その後、天文15年(1546年)、後北条氏と再び河越夜戦で戦い、戦死し、扇谷家は滅亡した。
この地図を見て欲しい。
より大きな地図で 後北条氏の城と古府中道、滝坂道の位置関係 を表示
赤ポイントが深大寺城、黄ポイントが世田谷城だ。深大寺城と世田谷城は、緑線の滝坂道と黒線の深大寺道できれいに真っ直ぐ繋がっている。扇谷上杉が、世田谷城に攻め入る場合、この道を使うのが普通だろう。
一方、紺線が古府中道、青ポイントは、後北条氏の砦や塁、城だ。後北条氏の砦や塁、城は、滝坂道沿いには全く存在せず、古府中道沿いに集中しているのが分かる。滝坂道が、律令の時代から成立し、戦国時代も使われていたなら、扇谷上杉氏の進軍ルートは滝坂道となり、後北条氏は、滝坂道に砦や塁、城を築いたはずだ。それが全く無い。
扇谷上杉氏は、赤線のルートで古府中道に至り、世田谷城に向かうつもりでいた。滝坂道ではない。
やはり、少なくとも、江戸時代までは、ヨークマート以西の滝坂道は無かったのではないだろうか。あったとしても、軍事や物資運搬などの公の目的では使われておらず、『道』としての認識はされていなかったのではないだろうか。
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