2012年12月6日木曜日

Ancient Road in Setagaya ward, "Old" Ooyama-michi / 世田谷区の古道、旧大山道

二子道は大山道だった。

前回の記事で、そう言った。だから、今回は、大山道としたい。

大山道は、実は、二つある。新と旧だ。

旧道は現在の世田谷通り、新道は玉川通り、国道246号だ。三軒茶屋で追分となる。やがて、新旧の大山道は、用賀で再び合流する。ここでは、二子道とも合流する。

二子道の時に、慈眼寺の方と行善寺の方、両方大山道と言ったが、慈眼寺が旧道で、行善寺が新道とのことである。

下記地図を参照されたい。


より大きな地図で 大山道 を表示

さて、大山道は、律令時代の古東海道をベースとしているとのことだが、であるならば、武蔵国の国府、府中に繋がるはずだ。よって、世田谷区の大山道は、律令時代の古東海道をベースにしているのではなく、その後に成立したものと考えられる。

大山は、元は自然崇拝としての山岳信仰の地で、元々、山頂にあった霊石と天狗を崇拝の対象としていた。山頂近くで霧がよく発生し、雨が多かったことから、あふり山と呼ばれ、崇神天皇の御代だから紀元前100〜30年頃に、霊石と天狗を御祭神とした阿夫利神社が創建され、752年には大山寺が開山し、大山の、宗教の聖地としての位置が確立した。大山寺を本拠とする修験者も多く存在した。

時は流れ、1605年、東照宮の命により、不学不律の修験者は山を下り、下山させられた修験者達が、関八州を回って大山詣を勧誘したことから、大山詣が盛んになり、関東各地に大山詣の道が出来た。

世田谷区の大山道は、この頃に成立したものと考えられる。

さて、では何故新旧で道が異なることになったのか。新道は、江戸中期以降に成立したらしい。

地形図を見てみよう。

大山道 地形図

赤線の旧道は、蛇崩川と烏山川の作った谷の間の尾根を走るよう、ほぼ真西に走っている。世田ヶ谷宿の辺りで、南西に折れているが、ちょうど、蛇崩川の作った谷の終りをかすめるような道筋となっている。

一方、青線の新道は、追分から直ぐの所で、蛇崩川を渡っている。が、駒沢の辺りで不自然に北西に曲がっている。よく見ると、呑川を避けているようだ。

推理すると、旧道の頃は、大阪夏の陣、冬の陣や島原の乱など、幕府もまだ安定政権とは言えず、橋も整備されておらず、川を避けなくてはならなかった。江戸も中期以降になると、幕府も安定し、平和になり、蛇崩川にも橋もかけられたのではないだろうか。だから、距離的に短い新道が作られた。が、呑川には橋はかけられなかったので、避ける道筋となったのだ。

では、実走することにしよう。
池尻から出発する。

R246、玉川通りの池尻大橋が出発点だ。池尻大橋とは、池尻と大橋の間に位置するからだが、大橋とは、玉川通り池尻大橋上り方向すぐの所にある目黒川に架かる橋から来ている。

又、池尻の尻とは、出口を意味し、池の出口、流れ出しを指す。では、この辺りに池があったのかというと、西に目を転ずると、北沢川と烏山川の合流点、目黒川になる地点があり、この辺りは、デルタ、沼地だったという。

さて、池尻大橋の東口に、玉川通りと大山道旧道の追分がある。ここを出発点とする。前置きが長くなった。

旧道に入り暫くすると、右手に池尻稲荷がある。

池尻稲荷

明暦年間の創建とのことなので、1655〜1657年だ。

旧道は、直ぐに玉川通りに戻る。暫くすると、三軒茶屋の、旧道と新道の追分だ。ここに、大山道の道標がある。

新旧大山道追分道標

この道標、寛延2年(1749)建立、文化9年(1812)に再建されたそうだ。上に、お不動さんが乗っかっている。正面に、「左相州通大山道、」側面に「右富士、登戸、世田谷通」「此方二子通」 と、刻んである。

三軒茶屋の地名由来だが、この追分に三軒の茶屋があったから、というのは有名な話。角屋、田中屋、信楽の三軒だが、何と田中屋は商売は変わったが、まだ残っている。

さて、それでは、道標に従い、右の旧道に行くとしよう。

特に何も無い東京の大通りが続く。環七も過ぎ、暫くすると、右手に、大吉寺と円光院明王寺がある。

円光院明王寺
大吉寺

大吉寺は、開山年不明なれど、吉良氏の祈願所だというから、1336〜1590年の間に開山のはずだ。隣の明王寺は、天正年間開基で、やはり、吉良氏の祈願所だった。

明王寺の前に左に入る道があるが、それが旧大山道だ。左に曲がって一本目を右に折れる。クランクになっているのだ。クランクということは、そう、ここは、世田谷宿という宿場だった。クランクを境に西が上宿、東が下宿だ。この上宿と下宿は新宿で、元宿は、区役所の辺りだ。元宿は、吉良氏の時代に始まったと考えるのが妥当だろう。その後、1532年頃の吉良頼康と北条氏綱の娘、崎姫との結婚から成立した、吉良氏の、北条氏の実質的な御家人化以降は、ここ世田谷は、小田原城と江戸城の間に位置する重要拠点となり、世田谷宿を更に発展させる必要が出て来て、新宿を設け、楽市を始めたと推察される。この楽市が、今日のボロ市だ。

はて、大山道は、東照宮の不学不律の僧や修験者の下山命令から始まったと言ったが、それより前ということになる。大山詣で使われ始めたのは江戸期からだが、道そのものは、少なくとも、北条氏が江戸城を落とした1524年には、江戸城と小田原城を結ぶ道として成立していたと考えよう。

大山道は、上宿に入ると直ぐ、世田谷代官屋敷がある。

世田谷代官屋敷表門
世田谷代官屋敷主屋
世田谷代官屋敷内部

表門と主屋は、国指定重要文化財だ。主屋は、1737年の建築で、表門は、1753年と言われている。この代官屋敷は、世田谷領代官、大場氏の屋敷で、大場氏は、吉良氏の重臣だった。元は、元宿の辺りに住んでいたが、ここに移った。恐らく、北条氏に新宿の管理を任されたのだろう。

さて、大山道は、世田谷通りを越え、突き当たり、左に曲がり、又、世田谷通りを越えて続いている。二回目に世田谷通りを越えた後、これは古道ではないが都道427号を越える手前、嘗てここに道標があったことを示す石碑がある。肝心の道標は、世田谷代官屋敷内の郷土資料館にある。

大山道道標跡

移設された大山道道標

これまで、大通りが続いて古道らしくなかったが、都道427号を越えてからは、古道の雰囲気が出てくる。やがて、道は下りとなり、下り切った所の公園に、大山詣の銅像がある。

大山詣旅人、にしても、良く出来ている。

銅像の向かい、マンションの敷地には、小さな祠もある。この祠、元八幡様だったようだ。又、この辺りは蛇崩川の源流であり、水場もあったのだ。一服するには格好の場所だったのだろう。銅像の表情が、何とも良くそれを表している。作者、あるいは企画者は、よく勉強したに違いない。

元八幡様

再び坂を上り、上り切った辻にお地蔵さんがある。この辻も古道だ。

お地蔵さん

暫く進み、道は下りとなり、やがて、二子道の際、出会った鎌田酒店に出る。ゴールだ。左からは、新道も合流している。

新道に続く。

2012年10月13日土曜日

Ancient Road in Setagaya ward, Futako-michi / 世田谷区の古道、二子道

滝坂道の経堂南道を思い出していただきたい。小田急線ガード南側に道標を兼ねた庚申塔があった。

滝坂道 南道 小田急線ガード下庚申塔

『南ふたこ道』

と、彫られている。道標に従い南下すると、現農大通りとの辻に出る。

そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

滝坂道 南道 農大通りとの辻にある庚申塔

『南二子道』

又、道標に従い南下すると、農大の手前でT字路となり、そこにも、道標を兼ねた庚申塔がある。

二子道 農大とのT字路の庚申塔

『南大山道』

大山道は、つまり、二子道だ。大山に行くには、二子の渡しで多摩川を渡らなければならない。

と、いうことで、世田谷区の古道、第三弾は、二子道(大山道)としたい。

さて、農大さえ無ければ簡単そうなものだが、農大により、二子道は消失している。

と、いうことで、いきなり、明治初期の古地図で推理してみる。

明治初期の古地図では、農大は無く、二子道はそのまま、ほぼ、真南に南下している。やがて津久井道とぶつかり、津久井道に沿って品川用水があり、ちょうどこの地点で品川用水が南下しているが、この品川用水と袂をを断つように南西に伸びる黒い実線が二子道ではなかろうか。雑草地、畑、茶畑を縫うように走るこの道、途中には天神さんと池もあるようだ。やがて、旧大山道と新大山道の追分に向かっている。

明治初期の古地図

二子道消失部分、緑の囲み上が農大、下が馬事公苑

現代の地図と見比べると、農大、馬事公苑で二子道は消失しており、馬事公苑以南も、区間整理されているようで、二子道は残っていない。辛うじて、馬事公苑西端の道の一本西の道が、一部、残っているかな?!と、いう程度だ。

現代の地図


より大きな地図で 二子道消失部分 を表示

さて、推理も済んだので実走しよう。

農大通りを南下し、烏山川を越え、再び台地をひたすら上ると、ここに出る。

二子道と六郷田無道(上)との出合い

ここが、二子道が農大で消失している場所だ。カーブミラーの左脇に庚申塔が見える。

農大を迂回し、津久井道に出て、少し西に行く。ちょうど、農大の正門の正面に、馬事公苑の東端に沿う道があるが、その道に入った所に、北見橋跡の碑が建っている。既述した品川用水に架かっていた橋だろう。この通りは、品川用水を埋めた道ということになる。

北見橋跡

この通りを馬事公苑南端まで行き、覆馬場との間の道を西に行き、馬事公苑西端の一本西の道に入る。少しばかり入った右手に、用賀本村稲荷があった。

用賀本村稲荷

インターネットで調べたところ、このお稲荷さんの近くには天神さんもあり、この辺りは天神山と呼ばれていたという。明治初期の地図にあったあの天神さんだ。やはり、この道が、辛うじて、二子道と重なっている。

天神山から緩やかに下る。真福寺の北端の道を東へ。馬事公苑東端の道を南下すると、大山道にぶつかる。

品川用水と大山道出合い

大山道を西へ。すぐ交差するのが、真福寺の参道だ。大山道は、この辺りだけ、古道が残っている。

真福寺

大山道は、直ぐに都道427号に接続する。やがて、首都高を過ぎ、暫くすると、追分にお地蔵さんがあった。と、いうことは、ここで分かれる道も、古道ということになる。帰り道はこちらを通ろう。

追分のお地蔵さん

さて、大山道は、瀬田の交差点で環八に接続する。大きな交差点の向こう側、道なりの道が大山道だ。暫く行くと、追分だ。左側が古道である。

暫く行くと、行善寺があった。

行善寺

開基は長崎伊予守重光、法名行善。長崎重光は、後北条氏に仕えていたが、秀吉による小田原征伐で滅亡すると、この地、瀬田に土着した。行善寺は、小田原征伐の前、だから1590年より前、永禄年間に開かれたとされている。

行善寺から先は、崖かと見まごう物凄い急勾配の坂だ。それもそのはず、古多摩川が削った国分寺崖線である。

行善寺坂

下り切ると、六郷用水、別名次大夫堀、丸子川だ。1597年に小泉次太夫により開削が開始された、これも歴史遺産だ。

六郷用水

道は、その後、再開発された二子玉川の駅前を通り抜け、やがて、多摩川に出る。ゴールだ。

二子道と多摩川出合い

さて、帰りは、約束通り、お地蔵さんの追分に向う道を行く。多摩川沿いを西へ。兵庫島を過ぎ、多摩堤通に合流して直ぐ右折がその道だ。

二子玉川小の手前の真っ直ぐな道は、1924年開業の嘗ての砧線跡だ。砂利採取の為の路線で、関東大震災の復興に大きく寄与したという。

砧線跡

NTT瀬田前の辻で再び六郷用水を渡る。この橋を『じだいゆうばし』という。勿論、六郷用水=次大夫堀から来ている。ここに、新しいものと思われるが道標と、世田谷区の説明板があった。

次大夫橋
説明板

この道が大山道であることが確認出来た。

この辺り、玉川寺に玉川太師、瀬田玉川神社、慈眼寺と寺社が集中している。が、何と言っても、国分寺崖線の急坂が凄い。これでも切り通しなのだろう、瀬田玉川神社の階段も急勾配だ。ここを昇る。

急坂

瀬田玉川神社

永禄年間に勧請し、その後、寛永3年(1626年)に、長崎四郎右衛門嘉国が寄付をして遷宮した。行善寺と時期と長崎氏が共通している。この地の長崎氏との関わりの深さが分かる。

急坂をようやく上り切ると五差路となっており、西の道が慈眼寺の参道になっていて、入口に庚申塔などか建っている。

慈眼寺前石塔群

大山道、二子道はここを右に行き、二つ目の追分を左に行く。大空閣寺を過ぎ、環八を渡り、暫く行くと、お地蔵さんの追分に出る。ゴールだ。

二子道全工程地図


より大きな地図で 二子道(推定) を表示

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さて、二子道は大山道だった。経堂から二子に向かい、大山、阿夫利神社に向う道だった。

大山は、阿夫利神社があることから、別名、雨降り山とも呼ばれ、干ばつが続き飢饉になると、農家が雨乞いに参詣していたという。

経堂は、今でも畑が残る、江戸時代は農村地帯だ。沢山の農家が、この道を二子に向かい、大山、阿夫利神社に向かったのだろう。うちの大家さんも行ってたのかな?!