2020年4月13日月曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その1, 杉並区編

八王子から横浜の絹の道をexploreしようと、事前机上exploreはほぼ完了済も、コロナで不要不急の外出に自粛要請が出ている状況で、サイクリング自体は可能と判断するも、八王子となると、ゆっくりexploreを楽しもうとすれば輪行ということになり、自粛範囲に入ってくる。

我が区世田谷でのサイクリングなら、"近所でのジョギング等の軽い運動"に含まれると判断し、世田谷区の養蚕痕跡を巡るexplore, つまり、"絹の道、 世田谷周辺版"を敢行した。

絹の道、世田谷周辺版のルート地図は下図の通り:



■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

最初に訪れたのは、蚕糸の森公園です。

蚕糸の森公園、正門。1911年、農商務省原蚕種製造所(後の農林水産省蚕糸試験場)が開設され、1980年に試験場が茨城県つくば市へ移転、1986年より公園として開園。正門など一部当時の建築物残る。

ここに、蚕糸の試験場がありました。

それまで、全国に約1,000種もの蚕が存在していましたが、外国へ輸出する質の良い生糸を生産する目的で、明治44年(1911年)には蚕糸業法が公布されました。この、蚕糸の試験場も1911年設立です。ここで品質チェックしてたんですね。

明らかなる養蚕痕跡です。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、真ん中やや右下に蚕糸試験場を配置した。こうしてみると意外にも桑畑(YにLを合わせたような地図記号)は少ない。西照寺の辺りだけか。

青梅街道から五日市街道に入り、久我山を目指します。

途中、善福寺川を尾崎橋で渡る際、白幡坂、馬橋みち両坂の追分で、地蔵2基と馬頭観音が祀られていました。

左が馬橋道、右が今下りてきた白幡坂。木々で見づらいが、赤い前掛けをした石像が3基祀られているのが見えると思う。

ここは坂だから馬をよく使っただろうし、だから馬頭観音が祀られているのだと思います。1896~1909年の古地図を見ても、周囲に目立った桑畑もありませんし。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、真ん中やや右下に尾崎橋を配置、その直ぐ右が馬頭観音がある場所。ここも、桑畑が目立たない。

ですが、馬頭観音も養蚕農家の信仰対象でした。

ルーツは3つありそうです。
  1. 中国の捜神記(東晋時代、317~420年)から
    父親が旅に出て戻ってこないのを心配した娘が、飼い馬に、冗談で、父を連れて帰ってきたらお前の嫁になると言った。すると馬は家を飛び出し父親を連れて帰ってきた。娘を見る馬の様子がおかしいのに気付いた父親が、娘から馬との約束を聞き、怒ってその場で馬を殺し、皮を剥いで庭に干しておいた。娘も庭に出て馬の皮を蹴った。すると、不意に馬の皮は娘を包み込んで飛び去り姿が見えなくなった。数日後、父親は、娘と馬の皮が蚕と化して庭の桑の木の上で糸を吐いているのを発見した。その繭からは通常の繭の数倍も糸がとれたという。
  2. 上記捜神記が東北地方を中心に入ってきて若干変化したものと思われる、オシラ様伝説から
    昔、ある百姓が娘と二人で住んでいた。娘は飼い馬を愛して夜毎厩舎に行って寝ていたが、ついには馬と夫婦になってしまった。これに怒った父親は馬を庭の桑の木に吊るして殺してしまった。それを知った娘は死んだ馬の首にすがって泣き悲しんだ。この様子を見た父はさらに怒って後ろから馬の首を斧で切り落とした。すると、娘は馬の首に乗ったまま天に昇り去ってしまった。オシラサマというのはこのとき生じた神で、馬を吊り下げた桑の枝でその像を作るのだそう。このオシラ様伝説には続きがあって、1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、その馬の皮で小舟を造り、桑の木の櫂で海に出たが、悲しみのあまり死んで、ある海岸に漂着した。その皮舟と娘の亡骸から湧き出した虫が蚕であるというものと、もう1つは、父親に愛する馬を殺された娘は、「自分は家を出ていくが、残った父が困らないようにしてある。春三月の十六日の夜明けに庭の臼の中を見てください。」と言って、死んだ馬と共に天に飛び去った。言われた日の朝、父が臼の中を見ると、馬の頭をした白い虫(蚕)がわいていて、桑の葉で育てた。
  3. 馬鳴菩薩
    中国の民間信仰に由来し、貧しい人々に衣服を施す菩薩とされ、そこから、養蚕守護・機織りの神仏とされました。馬鳴菩薩の像容は、馬の背に載る六臂の菩薩が、糸枠、糸、秤、火炎といった、養蚕に関連するものを手に持った姿です。
と、いうことで、上記3つ共、馬絡みなんですね。なので、馬頭観音も養蚕農家の信仰対象になっていったものと思われます。

これも、養蚕の痕跡かもしれせん。

先に進みます。

ここまで、目立った桑畑が無かったんですが、大宮前新田に入ると様相が一変します。五日市街道沿いに桑畑が広がり始めました。

1917~1924年の古地図 by 今昔マップ、五日市街道沿いが網掛けされてますが、これは集落です。その外側に桑畑が広がってます。

そんな中に、庚申塔がありました。

大宮前新田の庚申塔

農家では養蚕が貴重な現金収入源でしたので、蚕のことを「オカイコサマ」「オコサマ」と呼んでそれはそれはもう大切に育てたそうです。また、手間もかかったようでして、蚕は4回脱皮を繰り返し、その間は桑の葉のみを食べ、農家は朝昼晩と桑の葉を与えなければならず、日に1回は蚕の糞や桑の食べかすを掃除し、寒い日には囲炉裏や火鉢に炭を燃やして部屋を暖めなければならなかったそうです。それほど気を使って育てても、全滅してしまうこともあったそうです。

一方、庚申信仰が農家の間で広がっており、庚申の日の夜は寝てはいけませんから、天帝や猿田彦や青面金剛など、庚申の神様を祀り、宴会をしたりして徹夜していたんですが、当時の話題は、貴重な現金収入の手段であり、しかしながら手間が掛かる養蚕が主だったんじゃないかと推測しています。あそこはあーして上手く行った、下手をした等など。

と、いうことで、次第に庚申塔そのものが養蚕農家の信仰対象になっていったんだと思います。

ここ大宮前新田の庚申塔も、そういった謂れがあるのかもしれません。

直ぐ先に、春日神社があり、境内社に三峯神社があります。

春日神社
三峯神社

春日神社は、大宮前新田の名主、井口八郎右衛門勧請により創建ということで、何故、春日神社だったのか、井口家は大和の出身だったのか?, 等々、興味がある所ではありますが、今日の所は三峯神社です。

三峯神社は養蚕守護のお札を出していますので、養蚕農家から信仰を集め、三峯講が多く生まれました。

1804~1829年に編纂された風土記を見ると、春日神社は太神宮(天照大神)と八幡を相殿とあり、明治12年(1879)年の神社明細帳では境内社は稲荷1社とあるので、現在ある第六天と稲荷の相殿、三峯単独殿は、その後に持ってこられたものと思われます。明治12年以降というと、ちょうど、養蚕が盛んな頃ですね。

これも養蚕の痕跡と思われます。

久我山に向かいます。

1896~1909年の古地図、久我山周辺

真ん中に、"久我山"が見えると思います。久我山には、"Y"と"L"を合わせたような地図記号、桑畑が多く見られます。

奇跡的に残っている畑をパノラマ撮影

もう桑の木は無いんですが、このように畑が残っていますね。癒されます。

少し戻るように久我山稲荷神社です。

久我山稲荷神社

ここにも庚申塔があり、養蚕信仰を集めていたとのことです。

境内掲示
更新等と砧

やっぱり、そうだったんですね。庚申塔は養蚕農家の信仰対象だったのです。大宮前新田の庚申塔もやはりそうだったのではないでしょうか。

また、ここ久我山の人たちは、毎年4/15に、榛名正月と称して、榛名神社に五穀豊穣のお参りに行く風習があったそうです。榛名神社と言えば、特に雹除け、嵐除けにご利益があるとして、全国に知られていました。関東の養蚕農家は桑や農作物の無事生育を願い、榛名講をつくって参拝していたそうですから、これも養蚕痕跡ですね。

もう1つ。

神功皇后、応神天皇の時代に数千人から1万人規模で渡来したとの記録が残っていて、土木や養蚕、機織などの技術を持ち込んだとされる秦氏一族ですが、ここ久我山神社境内の寄進者Listはこうなっています。

秦さん一色ですね。秦さんの土地だったということです。これも、養蚕痕跡と言えるかもしれませんね。

久我山から人見街道で牟礼の神明さんに行く途中、欅の大木の根本に庚申塔がありました。

これも養蚕痕跡かもしれません。

実は何度も何度も訪れ撮影している庚申塔です。ひっそりと佇んでいて癒されます。

で、牟礼の神明さんを訪れたんですが、本命はこっちの方だったんです。

牟礼神明社の境内社、榛名神社と三峯神社相殿です。

風土記にも説明が無く、境内の由緒説明版にも説明がありません。逆に言えば、最近~とはいっても明治・大正か~持ってこられたものと推定されます。榛名、三峯ということを合わせて考えれば、これも、養蚕痕跡と言えるでしょう。

■□◆◇■□◆◇■□◆◇■□◆◇

長くなりましたので、杉並区を終えたということもありますので、続きは別記事にしたいと思います。

0 件のコメント: