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2022年1月17日月曜日

小野路道、その5, 八王子~横山村~町田街道

924年に武蔵守となった小野孝(隆、以降、"孝" で通す。)泰は、任期は4年ですから928年に、武蔵国府付近の小野郷に土着します。

当時の多摩川・浅川両河川の流路はGoogleMapsの通りで、北から、まず、古多摩川の河岸段丘上に武蔵国府、次に古多摩川、で、実は現在の多摩川は古浅川の流路だったんですが、古多摩川と古浅川の間、つまり、"河原" に府中市小野神社があります。ここは、"河原" ですから氾濫地です。一見陸地に見えても一度大雨が降れば川になる所です。ここに府中市小野神社があるわけです。で、主祭神は瀬織津姫、水の神です。さもありなん、ですね。



古浅川の南に大栗川が合流しています。この大栗川の谷戸を活用し小野牧を整備し、小野牧を管理するこの地に小野郷の中心を置き、小野神社を創建したものと思われます。落川は牧の西側の柵の名残かもしれません(GoogleMaps赤太線)。

その後、小野(横山)氏は、この大栗川沿いに進出していきました。

堀ノ内、下柚木、中山の各村の支流を遡り、大栗川と浅川の間の尾根を越えて、今の八王子駅周辺に進出していったのです。連光寺の支流を遡って、大栗川と乞田川の間の尾根を越えて小野路にも進出しています。

そして、924年ですから武蔵守着任の年ですが、八王子駅周辺に八幡八雲神社を創建しています。927年には小野路に小野神社を創建しています。

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古甲州道シリーズの日野の回でご紹介した、936年に武蔵国府の任期を終えた日奉宗頼は、武蔵国府から見て大栗川の次に位置する浅川沿いに進出し、しかし、長沼より先は小野(横山)氏が存在してましたから、それより上流には行かず、浅川の次の秋川沿いに鎌倉街道を使って移動し、秋川最上流の檜原村まで進出しています。先輩に配慮したのでしょうか。

東京都日野市の日の宮、西党の根拠地
。2021/5/29撮影。

ですから日奉宗頼の西党は浅川・秋川より北、小野孝(隆)泰の横山党はそれより南と棲み分けていたように思います。

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八王子駅周辺に進出した小野(横山)氏は、湯殿川、山田川沿いに進出していったようです。

と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党の痕跡を辿るexploreしたいと思いますが、横山党は1213年の和田合戦で滅亡していますから、痕跡を探すのが難しいです。

が、和田合戦後、その領地を引き継いだのが大江・長井氏ですから、大江・長井氏の痕跡を辿れば、それはイコール横山党の痕跡ということになります。

と、言うことで、今回は、湯殿川、山田川沿いの横山党、大江・長井氏の痕跡を辿るexploreをしたいと思います。

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京王高尾線、京王片倉駅まで輪行。まずは片倉城に向かいます。

片倉城、湯殿川から望む

東京都によれば、

"『新編武蔵風土記稿』などでは応永年間(1394-1428)の大江備中守師親の在城を記し、大江氏や大江氏の後裔の長井氏の城郭とされていますが、確証はありません。築城主体や年代の特定は困難ですが、深大寺城跡などの他の中世城郭との比較から15世紀後半以降に築城され、16世紀代に廃城となったと推定されています。しかし、城郭としての配置や技法、古川越街道や鎌倉街道と隣接する交通の要衝であることから、小田原北条氏による築城や利用の可能性も指摘されています。"

と、ありますが、大江・長井氏築城ならここは横山党のエリアということになります。

個人的には、この鎌倉街道を南下すると横山党相原(藍原、粟飯原)氏の支配地に至りますので、元々は横山党の城だったと思います。

相原の清水寺、相原氏館跡

小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー相原時重

先を行きましょう、斟珠寺です。

斟珠寺

八王子市史によれば、本尊は地蔵菩薩で大江広房内室に縁があるということです。

大江広元(鎌倉幕府政所別当)ー時弘(評定衆)ー泰秀(評定衆)ー時秀(評定衆)ー宗秀(評定衆)ー広秀(大善大夫)ー広房(入道道弘)

次に広園寺を訪れます。

広園寺、仏殿。立派なお寺でした。地紋は一に三つ星、大江・長井氏の家紋です。

寺伝によれば、1389年に、大江師親による開創ということです。片倉城と同じですね。風土記からの採用だと思われます。

が、この大江師親、系図に見つかりません。

一方、その子の長井道広という説もあり、道広は広房の別名です。広房の父は広秀なので、師親 = 広秀、あるいは道広 = 広房の開創ということになります。他に師親 = 広秀開創という記事もあるので、この親子のどちらか、あるいは両方による開創でしょう。

長井広房は1380年頃、米沢城を追われていますので、その後、この地に戻ってきたのかもしれません。

先を行きましょう、真覚寺です。

真覚寺

津久井城主長山忠良が開基ということですが、長山ではなく長井の間違いと言われています。

と、いうことで長井氏関連と思いましたが、この長井忠良という人物が系図に見つかりません。

なので津久井城主の方を調べると、津久井三郎親直という人物がヒットしました。wikiでは、大江氏の津久井氏という言い方がされていますし、"親" は先の大江師親との通字ですから、何らかの関係があるかもしれません。

先を行きましょう、龍見寺です。

龍見寺の大日堂

慶長年間ですから1596〜1614年に開創ということですが、境内にある大日堂の大日如来坐像は、寺伝よれば横山経兼が前九年の役で源頼義に従い奥州を攻めた時、戦勝記念に湯殿山から持ち帰ったと伝わるもので、湯殿川の名前の由来となっているということでした。

ようやく、大江・長井氏ではなく本命横山党の伝承に当たりました。

ここは横山党の館跡という話もあります。"館", "殿入" という地名からして頷けます。

先を行きます。御霊神社と浄泉寺です。

御霊神社

何故ここに鎌倉権五郎景正を祀る御霊神社が???

1079年、横山党と鎌倉党は領地争いをしています。また、1113年、横山党は愛甲氏を攻め立て、鎌倉権五郎景正を含む軍と戦ってもいます。このどちらかの時、このエリアが鎌倉権五郎景正の領地になったのだと思います。これは正に横山党の痕跡ですね。

先を行きましょう、高乗寺、初沢城です。

高乗寺

寺伝によれば、1394年に長井大膳大夫高乗が開基とのことですが、この長井高乗が系図に見つかりません。

しかし、大膳大夫となると広秀になりますし、片倉城の伝承に、応安年間ですから1368〜75年に長井広秀により築城というものもあるのでこの話との整合性は確保されているようです。

次に初沢城です。

高乗寺境内から初沢城がある山を撮影

初沢城は初代は横山党椚田氏による築城とも言われています。

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通常であればこの後は町田街道 = 鎌倉街道山の道の恋路峠を越えて相模国・町田街道に行くのですが、今回は少し戻って、、、

横山党も畠山重忠も通った鎌倉街道山の道を戻ります。

湯殿川が寺田方面へ別れた支流を遡り、そのまま湯殿川と境川の間の尾根(武相国境 = 東京湾と相模湾の分水嶺)を越えて、土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由し相模国・町田街道に出るルートを行きます。

武相国境尾根を越えます。武蔵国から相模国へ。

パーフェクトな尾根道

武相国境尾根上にある大戸山王社、ここは眺望が良いです。

何故か

私は、このルートは、甲州街道の一(いち)ルートだったのではないかと、思ってるんです。

土ヶ谷戸、鍛冶谷戸を経由して町田街道に出たら、大戸ー草戸峠ー梅ノ木平ー案内ー大平からは南に案内川の支流沿いに入っていき、武蔵越から赤馬に下っていく道筋です。赤馬からは千木良、小原へと続き甲州街道に接続します。

大戸観音堂

(草戸峠までは、もう2つ、ルートがありそうです。1つは、龍見寺をそのまま南西へ。館町清掃工場から権現谷を経て武相国境尾根を草戸峠まで。もう1つは初沢城から初沢を遡り梅の木平へ出るルートです。)

先の山王社は、物見の場所だったのではないでしょうか。あの眺望ですから。1079年の鎌倉党との領地争い、1113年の横山党征伐の時に活用されたでしょう。

また、このルートは、裏甲州道、あるいは高尾山参詣道と言われていた模様です。

もう一つのルートは勿論小仏峠越えですが、上野原(古郡)には、横山党古郡氏がいましたから、これらルートは、横山党が行き来する道だったと思われます。

小野孝泰(924年、武蔵守)ー義孝(939年、武蔵権介。横山氏の祖。)ー資孝ー経兼ー孝兼ー古郡忠重

和田合戦の最後、横山党党首時兼は古郡に逃げ落ちますが、最後は古郡で自害します。このルートを行った可能性もあります。

正にこの横山党にとって重要な甲州街道を監視、守る役割が小松城だと思います。

龍籠山金毘羅神社から神奈川県道48号に出る尾根トレイル、龍籠山金毘羅神社への参道ですね。この写真は向きが逆ですが。

小松城

小松城は長井大善大夫広秀の築城と言われてますが、上記理由から、横山党の築城の可能性もあると思います。殿ヶ谷形式であることもそれを後押しします。

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如何でしたでしょうか。

横山党が、多摩市小野神社周辺の小野郷から大栗川を遡って八王子駅周辺に進出後、湯殿川を遡って勢力を拡大していった痕跡を辿ってみました。

痕跡が残ってましたね。

2022年1月5日水曜日

小野路道、その4, 小野牧

久し振りの小野路道シリーズです。

古甲州道シリーズ番外編 西党、横山党、大石氏で、西党由井氏が別当を務めたと言われる由比牧をご紹介しました。

由比牧は、大沢川の作った谷 = 谷戸を活用していたと思われます。

谷戸の奥はどん詰まり、左右は山ですから三方は柵が無くとも既に囲まれている状態を作れるからです。あとは大沢川の谷戸の出口に堀と土塁を設け柵とするだけとなりますが、その名残が野堀川と言われています。

大沢川の谷戸を真中に配置しました。御覧の通り、谷戸奥(左側)はどん詰まり、両サイドは山なので、大沢川出口(右)のみ柵で塞げば良い地形です。そこに土塁と堀が柵として設けられ、それが野堀川(青線)ということです。それにしても、野堀川はお誂え向きの場所にありますね。

武蔵国の牧と言えば、由比牧以外では、小野牧、秩父牧、石川牧、立野牧、小川牧ですが、秩父牧は遠い、石川牧と立野牧は比定地がはっきりしません。小川牧はもう2回(1, 2)行ってしまったのと、比定地としてハッキリしている割に地名や寺社の伝承等に痕跡が無いんですよね。

一方、小野牧は近場だし、前回取り上げた横山党が別当だった牧。以前、小野路道シリーズで走ってますが、2022の走り初めとしてはちょうど良いですか、ね。

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京王線北野駅まで輪行、逆方向に少し行って北野天満宮を訪れます。

実は行き忘れて過去picです。2017/12

東京都神社名鑑によれば、横山党の一族が京都北野天満宮をこの地に勧請したと言います。

駅に戻り南口を出て湯殿川を渡りローソンの裏に回っている小道を行きますがこの道が今は何てことない道ですが嘗ては重要な道でした。

歴史的農業環境閲覧システムより、画面上の鳥居マークが北野天満宮です。黄色ピンが絹の道との分岐で、打越弁財天(池がある所)を経由し、(見切れてますが)絹の道へと繋がってます。濃紫線が現在の野猿街道(薄紫線)の1つ前の野猿街道、青線が最も古い野猿街道です。このように、この小道は八王子から大栗川に抜ける尾根越えの重要な道だったんですね。

今日は最も古い野猿街道を行きます。湯殿川支流に沿って遡上し、どん突き手前で尾根に上がりまして、絹ヶ丘、北野台の間を抜け、中山白山神社に到着です。

中山白山神社

1826年に社殿裏の経塚から出土した1154年銘の経典10巻の奥書に、"武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊" と、書かれており、平安時代に比叡山西搭の僧、武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であるという伝承が証明されました。

横山党が闊歩していた時期です。

また、この奥書には、"小野氏人等" という記載もあり、小野氏 = 横山党の庇護を受けていたことも分かります。ほら、やっぱり、そうでした。

中山白山神社からは、横山党も通ったであろう一本点線の徒歩道を南東に下って、その後は、ちょっと寄り道して大栗川支流が作った谷戸と尾根の古道を楽しみます。

中山白山神社は画面左の鳥居マーク、マークから真下に行くのは参道、南東に行くのが一本点線の平安古道。歴史的農業環境閲覧システムより

もしかしたら平安まで遡れる一本徒歩道古道

まずは濃青線、中山白山神社下、永昌院のある谷戸です。

谷戸の風景

次に薄青線、ひな鳥山、多摩シルバーハウスがある谷戸です。

谷戸の風景、谷戸どん突きを上り詰めた所から振り返っての眺望

次は黒線、大学セミナーハウスから尾根に乗ります。この道も古い野猿街道だったといいう話を聞いたことがあります。確かに、特に戦の時は尾根の方が安全ですね。

丹沢山系、富士山の眺望

トレイル

尾根から降り立ったら、先日訪れた永林寺西の一本点線徒歩道で北に抜け、、、

永林寺、2021/12/11撮影

由木城址、由木氏は西党と横山党があり、どちらも、あるいはどちらかがここに由木城を築城しています。その後、写真銅像(右)の大石氏も由木城に居住しています。2021/12/11撮影

峠越え

、、、こちらも先日通ったんですが堀ノ内の谷戸道(オレンジ線)に入っていきます。

日陰は昼近くになっても霜が融けません。

野猿街道に復帰したら旧道側を選んで小野神社に向かいますが、途中、清鏡寺に寄ります。

清鏡寺

ここの大塚御手観音は、1213年に法印となった慶派の仏師湛慶によって彫られた仏様との伝承があります。

大塚御手観音堂

横山党がこの地を闊歩していた頃に存在していたお寺ということになります。

今日一はこれでした。寺紋は基本、再興した北条氏照に因んで後北条の三つ鱗なんですが(2つ上の写真をタップし写真選択した後、ピンチアウトして屋根上の寺紋をご確認下さい。), 窓の寺紋は丸に卍。横山党の家紋です。開創の時期からしても元々は横山党の庇護下にあったんだと思います。

先を行きます、もう何度も訪問してますが改めて、多摩市小野神社です。

多摩市小野神社

社伝によれば、BC531創建、主祭神は天下春命、武蔵国一之宮。一之宮であることは南北朝期に書かれた神道集にも書かれています。

しかし謎が多い神社です。

まず主祭神が天下春命であること。天下春命は知々夫国造の祖神です。

何故、秩父???, と、思いますよね。この地で秩父の神様天下春命が祀られる合理的理由は、600年代後半に无邪志国造と知々夫国造が合併し武蔵国が成立したという一点しか無いでしょう。逆に言えば、天下春命が主祭神となったのは、600年代後半の武蔵国成立以降、更に言えば、今の位置に国府が置かれた700年前半以降ということになりそうです。

もう1つ。小野神社が多摩市と府中市の両方にあるという点です。

しかし、社伝にも書いてありますが、鎌倉時代に書かれた吾妻鏡に、"多西郡吉富ならびに一宮・蓮光寺" と書かれていて、連光寺と一宮は、"・" で繋げられる一体の土地、つまり一宮は連光寺に隣接していると考えることが出来、一宮とは神道集にあるように小野神社のことですから、少なくとも鎌倉時代、南北朝期の小野神社とは、即ち、多摩市小野神社であると考えられます。

加えて、多摩市小野神社の西数百メートルの位置にある落川遺跡です。

落川遺跡

東京都によれば、

"800軒以上の竪穴建物跡、300軒以上の掘立柱建物跡、2400基以上の土坑、溝、井戸跡、鍛冶炉、祭祀跡等の遺構が検出されています。豊富な墨書土器、輸入磁器、農耕具や馬具などの武具などや、焼印(文字「土」)や和銅7年(714)銘のある石製紡錘車が出土しています。遺跡は古墳時代前期から中世前期まで途切れることなく生活が営まれた痕跡があります。このことは、多摩丘陵開発や多摩川対岸の武蔵国府・国分寺との関係、東方約300mに鎮座する小野神社を中心とする小野郷や小野牧との関係が推定されます。"

ということですから、BC531はアレとしても、古墳時代前期ですから3世紀後半から4世紀にかけて、この地にとある集団が住み始め、後に多摩市小野神社を中心とした小野郷が成立していったと推測できるのです。

元々は異なる神だったと思いますが、700年頃、武蔵国が成立すると、知々夫国造の祖神天下春命が主祭神となったのかもしれません。

そして、鎌倉時代、南北朝期には、武蔵国一之宮の位置付けでした。

さて、小野牧です。

小野牧は陽成上皇、あるいは清和天皇の院の牧として開かれました。ですので早ければ清和天皇在位858年頃のことです。931年に御牧となってその時の別当は小野諸興でした。

場所はやはり東京都の落川遺跡の説明にあったように、小野神社、落川遺跡の近くだったと思われます。

冒頭の由比牧のことを思い出していただくと、大栗川の谷戸を自然の柵とし、谷戸出口のみ、人工の土塁・堀などの柵を設ける、それが小野牧だったのではないでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムより、大栗川の谷戸出口にちょうど野猿街道が走ってます。分かり易いように赤線を添えました。その上にあるポイントが落川遺跡、その右の寺マークは廃仏毀釈で多摩市小野神社の文殊菩薩が移設された真明寺、更にその右の鳥居マーク2つが小野神社です。

何かこう、ちょうど小野牧の出口柵を監視するような位置に小野神社と落川遺跡があるように思いませんか???

さて、御牧としての小野牧初代別当である小野諸興、939年には、武蔵権介(仮の介)になっています。この頃の武蔵守ですが、918年小野(高向)利春、924年小野隆(孝)泰、932年は西党の祖日奉宗頼が任じられています。

この、諸興、利春、隆(孝)泰といった小野氏、繋がりは分かりませんが、小野隆(孝)泰は、子、義隆(孝)が939年に武蔵権守となり〜ですから小野諸興と権ペアだったんですね。この権ペアで平将門を追討しています。それだけ、この地で武力含め勢力を張ってたということです。〜、その後、八王子横山に土着し横山を名乗り横山党の祖となっています。

この地で相当な勢力を誇っていたこれら小野氏は、落川遺跡、小野神社周辺に住んでいたんではないでしょうか。やがて小野義隆(孝)は八王子横山に飛び出し横山氏を名乗ったのです。小野路道は小野氏の初期の根拠地と義隆(孝)の横山とを結ぶ道だったのです。小野郷、小野神社、八王子横山が、横山党と小野路道で繋がりました。

これは、西党日奉宗頼が936年に武蔵守の任期を終え、日野に土着したのとそっくりそのまま似ています。逆に小野氏(横山氏、横山党)の方が少し早いようです。

面白いですね。武蔵国府から最初の支流が大栗川でその流域は横山党が、その次、浅川と更にその次の秋川は西党が支配したわけです。

大栗川と浅川の分水嶺、今、帝京、東京薬科、中央、明星と大学があるこの尾根は、横山党と西党の分水嶺でもあったわけです。

さて、この小野神社、吾妻鏡に、"一宮別当松蓮寺" という記載もあり、その松蓮寺は現在の百草園にあったと言いますから、百草園のある所にあったかもしれません。

多摩市小野神社から百草園(松蓮寺)へ向かう松蓮寺道の馬頭観音にも松蓮寺道と彫られていました。

日野市によれば、この松蓮寺は、1335〜1581年間にこの地に、最初に開かれたようです。その前は、真慈悲寺という大寺が存在していました。1079年に長厳という僧が真慈悲寺で写経したという記録があり、

松蓮寺道が尾根に上がった所にある六地蔵、ここから百草園までは4, 500m。ここから寺域が始まっていたということです。

1062年には前九年の役の際、源頼義・義家が同じ敷地内にあった百草八幡宮に立ち寄ったという伝承があります。横山党が八王子横山、管理していた小野牧があるこの小野郷を闊歩していた時期ですね。

百草八幡神社

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如何でしたでしょうか。

今の京王線聖蹟桜ヶ丘駅から百草園駅にかけてのエリアは、嘗て、1700年前から人々が住み始め大集落を築き、それが途切れることなく、1000年前には小野氏がこの地に居住し、小野牧を経営し、武蔵国の国司も務め、権勢を振るっていました。その後、小野氏は義孝(隆)の時代、この小野郷を飛び出し八王子横山に拠点を移しました。その2拠点を結ぶのが現代の野猿街道です。野猿街道は、平安まで遡れる古道で、今でも、その痕跡が見られます。

清鏡寺の直ぐ手前にある、馬場碑、江戸時代ここには農耕馬で競技する馬場があったそう。由木城の馬場の名残もあると思いますが更に遡った小野牧の土地の記憶がそうさせているのではないでしょうか。。。


2018年11月18日日曜日

小野路道、その3, 武蔵国 小野郷

八王子横山から町田小野路へ行く道を小野路道と言う。何故そう言うかというと、小野路に行く道だからだ。では何故八王子横山から小野路に行かなければならなかったのか。小野氏を祖とし八王子横山を本拠とした横山氏が、その本拠から、小野牧別当として、管理地である小野路(後の小山田牧が小野牧の一部とした場合)に向かう為だった。

・・・と、言うのが前回までで、前々回は小野路道の本道を、前回は恐らく最も古い、平安時代の伝承を持つ白山神社のルートを行きました。

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さて、気になるのは小野路です。小野路は、"路"で既に道の意だから、小野に行く道という意味。地名としての小野路はその小野路沿いにある地という意味となります。

では、小野とはどこか。
  • 武蔵国総社六所宮縁起并社伝
    多東郡小野県を以て本国之府と為す。呼ひて府中と曰ふ也。・・・然るに大国魂の大神小野県に鎮坐するを以て、本国の総社と為す。
  • 新編武蔵風土記稿
    社伝に景行帝の御宇大己貴尊、小川郷小野里に降臨ありしを、里人私に祠を立て祀れり、成務天皇の朝に及て、兄多毛比尊国造を賜ひて此地に来れり、 庁府を開かれし時、大己貴命に素盞鳴尊等の五神を配して、始て宮社を建て祭れり、これを六所宮と称せり
と、あることから、大國魂神社があるエリア、武蔵国国府があるエリアが小野だと言えます。

では何故、小野路から小野に行かなければならなかったのか?

八王子横山と小野路は小野氏を祖とする横山氏で繋がってましたが、小野路と小野は、何で繋がっている? やはり、横山氏(小野氏)?

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小野篁の孫の小野美材の次男である小野利春がいます。養子に入り高向利春と称したんですが、この小野高向利春は、延喜五年(905)八月、宇多上皇に秩父牧の馬を御覧にいれました。小野高向利春は秩父牧の牧司だったんです。

その後、小野高向利春は、延喜十年(910)になると武蔵国司の三席、権小掾となり、翌年には、武蔵国司次席の武蔵介になります。さらにそれから四年後の延喜十八年(918)、武蔵守になります。

高向氏に養子に入ったとは言え、小野妹子や小野篁を輩出した名門小野氏の出。高向氏の高向玄理は遣隋使 小野妹子の留学生として同行したと言いますから、小野氏の方が格上だったんでしょう。格下の高向氏に養子入りし、東国に下向もして、辛酸をなめてきたと思いますが、ようやく、武蔵国のTopになったわけです。

武蔵国のトップとなった小野高向利春は、"小野氏"色を強めていったのではないでしょうか。

924年には、小野氏族の小野隆泰が武蔵守となります。小野高向利春の次の次です。小野隆泰は都から来たんですが、小野高向利春の影響もあったと思います。

その後、小野隆泰の子、義隆は、八王子横山に土着し横山氏を名乗ります。

更に、義隆の子、資隆は、1004年、小野牧の別当となります。

やはり、小野路(地名)と小野は横山氏で繋がってたんですね。だから、小野路(道)が出来た、と、こういう訳です。

こうなると八王子横山と小野とを直接結ぶ道も出来たでしょうが、それが、甲州道中の元になったのではないでしょうか。

まぁでも、府中に行く道だから元々あった可能性の方が高いですかね・・・
でもその場合、府中道と言った方が通りが良いと思いますが、敢えて、小野路と言っているのは、国府ができる前からあったからですかね?!

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さて、大國魂神社の至近に小野神社があります。しかも2社。これらの小野神社ですが、実は祭神も、創建年も、全く同じです。では何故2社あるのか、しかも多摩川を挟んではいるものの至近で。

謎ですね。

これについては諸説あるようですが、先の新編武蔵風土記稿には、

"東殿の三神は櫉扉に印記して、一乃宮小野客来三所瀬織津比咩天下春命倉稲魂神とあり、 一乃宮は即ち多西の一乃宮村祭神天下春命なりと云ふ、小野は本宿村小野神社祭神瀬織津比咩なり、今なを二社各村に其祠宇あり、何の故ありて何かの世神坐を当社に移して、合殿に祀りしや其来由を詳にせず"

と、あり、多摩市一宮の小野神社の祭神は天下春命、府中本宿の小野神社の祭神は瀬織津姫と、祭神が異なっていて、名前こそ同じながら、別の神社だということになります。

また、宝亀三年(772)九月に神祇行政を司る神祇省に対する太政官符が出てるんですがそれでは、

”右、去年九月二十五日、武蔵国司の解を得た。今月十七日、入間郡の正倉四宇に着火し、焼くところの糒穀惣じて一万五百壱拾参斗消失す。百姓十人たちまち重病に臥し、頓死二人なり。卜占するに、郡家の西角にある神、出雲伊波比神が祟りて云く、我常に朝廷の幣帛を受給う。しかるに頃年の間給わらず。これにより郡家内外にあるところの雷神を引率し、この火災を発すなり。よって祝外大初位下小長谷部広麿を勘問するに申して云わく。実に常に朝廷の幣帛を奉る神なり。しかるに頃年の間給ひ下さず。よって案内を検するに、去る天平勝宝七年十一月二日の太政官符に云う、武蔵国の幣帛に預かる社四処、多摩郡小野社、加美郡今城青八尺稲実社、横見郡高負比古乃社、入間郡出雲伊波比社なり。官符に灼然なるも、時々幣帛を奉るに漏れ落すもの。右大臣宣す。勅を奉はるに、例によりて施行せよ。官宜しく承知し、勅に准じて施行せよ。符到らば奉行せよ。”

また、772年当時は、小野神社は、雷神を祀っていたことが分かります。雷神といえば瀬織津姫ですから、府中本宿の小野神社のことを指しているのか、あるいは、多摩市一宮の小野神社にも実は瀬織津姫が祀られていたのかのどちらかだということになります。

では何故、多摩市一宮の小野神社の祭神が天下春命に変わったのか。天下春命は秩父国造の祖なので、秩父から来た小野高向利春が祭神に加えたのかもしれません。

でも小野氏の祖は天押帯日子命なので、この推定は無しかな・・・

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と、いうことでその3となる今回は、小野路のゴール、武蔵国 小野郷をExplorerしたいと思います。

滝坂道→甲州道中でまずは大國魂神社です。

七五三で賑わう大國魂神社

ここの東殿に多摩市一宮小野神社の天下春命と、府中本宿小野神社の瀬織津姫が祀られてます。

古甲州道で府中本宿小野神社へ。

非常に静かな府中本宿小野神社、瀬織津姫が主祭神

新田義貞と同じく、関戸橋を渡って続いて多摩市一宮小野神社へ。

多摩市一宮小野神社、主祭神は天下春命

続いて、多摩一宮小野神社の別当寺だった今はもう無い松蓮寺に、松蓮寺道で向かいます。ここが良かった。

真中の馬頭観音の土台に、"八景山松蓮寺道"と刻まれている。
切り通し
土道で残る古道

百草八幡に着きました。平安の頃には既にあったようです。

百草八幡
鎌倉時代の旧参道

以上です。

2018年11月11日日曜日

小野路道、その2, 白山神社を通る最も古いルート

前回の小野路道のその2です。

小野路の"路"も道の意味だから、"路", "道"と重なってる不思議な古道名です。小野路に行く道だから小野路道なんですが、小野路という町が小野(小野郷、今の府中小野神社、多摩小野神社がある辺りか?!)に行く道にあるから小野路なのでしょう。確かに、小野路は鎌倉街道上道や東海道が通っていて府中に向かっています。

既述の通り、小野路道は小野路に行く道なんですが、ではどこから小野路に行く道なのかと言えば、八王子横山です。では何故、八王子横山から小野路に行く必要があったのか、それについては前回一応の見解を記載しています。

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さて、復習も終わったところで、今回のExplorerのご報告です。この地図にあるように、小野路道は幾つかのルートが考えられます。



始まりと終わりは同じなんですが、浅川と大栗川の間の尾根をどう越えるかで分かれます。本道は濃い紫と思われます。その後は長沼公園を抜ける黒線、明治13年の古地図では両実線と県道クラスの道でした。その後は薄紫、明治44年頃の地図ではこっちの方が県道クラスとなっています。

で、今回は藍線を行きました。沿道に白山神社があり、最も古い道だと思われる道です。

この白山神社は、平安時代に比叡山西搭の僧、あの武蔵坊弁慶の血縁であった弁智が法華経を奉納した関東七社の一社であると伝えられています。文政九年(1826)春、社殿裏の塚より法華経十巻が発見され、その経巻の奥書に、"大歳甲戌、仁平四年(1154)九月時許於 武蔵国西郡船木田御庄内長隆寺 西谷書字了勧進僧弁智血縁者僧忠尊"とあり、村人の伝承が裏付けられました。

八王子中山白山神社
経巻の奥書のあった長隆寺の礎石

さて、今回のハイライトはこの道を見つけたことでした。

明治13年の古地図に小径(徒歩)として描かれている道、平安時代に遡れるかも

Webでいっくら探しても出てなかったので諦めてたんですが、現場で見つけました。これが古道Explorerの楽しみの1つです。

青マーカが白山神社、そこから南東に行く点線が今回発見した古道です。

ではまた