西党、横山党、村山党、丹党、猪俣党、私市党、児玉党
をベースとし、武蔵七党系図では私市党の代わりに野与党が、貞丈雑記には村山党の代わりに綴(綴喜、都筑)党が、記載されています。
今回は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡をexploreします。
大倉精神文化研究所では、催し物、"武士団「綴(都筑)党」を追う-中世の多摩丘陵に生きた武士たち-" 紹介文で、(ー以下引用ー)
"その「武蔵七党」のひとつに綴(都筑)党があります。綴(都筑)党の実態は不明ですが、港北を含む旧都筑郡域を地盤とした武士団であったことは間違いありません。丘陵地帯に属する都筑郡には平安時代、朝廷に馬を献上する石川牧・立野牧がありましたが、この牧の存在が武士団発生の一因ともなりました。"
と、綴(綴喜、都筑)党と石川牧、立野牧の関連性を指摘しています。
また、綴(綴喜、都筑)党は、武蔵七党系図に記載が無く、これまで取り上げてきた西党、横山党、村山党のようなアプローチが出来ません。
そこでまずは石川牧から切り込んでみたいと思います。
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往路は鎌倉街道中道登戸ルートで向かいます。
長沢の浄水場を過ぎたら三叉になります。左はゴルフ場沿いの古道、真ん中は新道、右が鎌倉街道ですが、ここは写真撮りませんでしたが今は階段ですね。当時は相当な傾斜だったものと思われます。
真中に件の階段古道を配置、等高線を見れば階段も頷けますが、今昔マップで時代を追っていくと振動が出来たのは戦後ですね。それまでこの急斜面を通ったなんて。 |
長沢の丁字路、平瀬川を過ぎ、軽い上りのピークには菅生神社がありました。
神奈川県神社誌によれば、創立は天福元年(1233)で、同郡平村白旗八幡大神からの御分霊を奉斎したといわれています。
菅生神社の前の道が鎌倉街道である証拠と言えるでしょう。
さて、こんな素敵な古道なんかも通りながら、
繰り返されるup and downを何とかクリアしながら、鶴見川と多摩川の分水嶺に到着です。
ここの分水嶺尾根道を右に折れ、保木薬師堂に向かいます。
"柿生文化 第12号" によれば、ここは石川牧の経営者石川六郎の居館跡とのことです。
また、同じく、"柿生文化 第66号" では、ここの御本尊、薬師如来像は、承久3年(1221), 石川六郎の一族が建立したものとのことです。
早速、石川牧の経営者です。小野牧から横山党が出たように、由比牧、小川牧から西党が出たように、石川牧、立野牧からは綴(綴喜、都筑)党が出て、石川牧の方は石川氏が経営していた、ということです。これ当然、石川氏は綴(綴喜、都筑)党ということになりますね。
分水嶺尾根道から鎌倉街道中道に復帰して、折角登ったのに早渕川まで降ります。
早渕川の渕上橋の少し先にあるのが驚神社です。
境内掲示によれば、
"創立年代詳かならざるも、往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守なりしと云ふ。其の当時、石川牧の地域は頗る広汎にして旧都筑郡内は旧山内村石川・同荏田・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鉄・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺、橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大字に亘れるものの如し。依って昭和14年、横浜市に合併当時まで、此の石川に秣場と称する馬料共有地五十餘町歩を遺せる。又、社前は旧鎌倉街道に当たり源頼朝の臣畠山重忠篤く崇敬せりと云へり。 (中略) 当神社の名称は、右の如く馬を大切にする意から、馬を敬う即ち「驚」がついたものと伝ふ。"
と、いうことで、石川牧の経営者石川六郎の居館跡に続き、石川牧の総鎮守です。これ当然、管理者は石川氏ということになりますね。
石川牧は当初令制牧でした。令制牧とは、700年頃成立した厩牧令に基づく牧のことで、全国の牧は兵部省兵馬司が管理し、実際現場では、国司のもとで牧長ら牧官が経営していました。
やがて令制牧は官牧、勅旨牧、近都牧の3つに分かれました。石川牧は、9世紀に、西党が管理した小川牧、由比牧と共に勅旨牧となっています。
ですので石川牧は早ければ700年代、遅くとも800年代には既にここにあった、ということになりますね。
その総鎮守ですから、驚神社も相当な古社だということになります。
また、石川牧の範囲ですが、東は第三京浜、西は新百合、北は生田緑地、南は横浜市歴史博物館までの広大なエリアです。茶線の都筑郡と橘樹郡の郡境も越えてますね。
さて、ここは牧跡らしく、近世の競馬場の伝承も残っています。
"都筑の民族" によれば、荏田高校の上から北へ五叉路までの凡そ300mで、秋の収穫期が終わると、農耕馬で競馬を行ったそうです。明治後半には終わったそう。
これは、横山党の小野牧でも全く同じ話がありましたね。
小野牧にある競馬場跡の碑 |
ここまでまとめますと、石川牧を経営していたのは石川氏だったということになりそうで、冒頭のように石川氏は綴(綴喜、都筑)党の一族のようですから、驚神社、競馬場跡は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡と言えると思います。
石川六郎は、吾妻鑑の、建久元年(1190), 11/7の頼朝上洛の記事で登場しています。頼朝の先陣随兵として、隊列の十二番に、都筑三郎、小村三郎と並んで石河六郎が記載されています。
上記、"柿生文化" の記事と時代が合いますね。
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さて、吾妻鑑で石川六郎は先陣十二番でしたが、後陣四十五番に江田小太郎がいます。
一方、驚神社から鎌倉街道中道を南下すると荏田城があります。
この荏田城、諸説ありますが、綴(綴喜、都筑)党の荏田氏の居城という説もあります。
荏田城主荏田氏は、吾妻鑑に登場する、江田小太郎と思われます。
1343年の山内首藤通綱・通範の寄進状に、"武蔵国荏田郷内堀内赤田之田畠" という記述があって、"赤田" というのは、"赤田東公園" や、"赤田西公園" に残っている通り、この辺りの地名であり、その赤田の堀内と書かれていることから、1343年時点で既に荏田城があったと考えられています。
驚神社と荏田城の間、驚神社よりにある観福寺近くの山は、風土記で敵見塚として書かれており、鎌倉街道を東西両側から押さえる東側の砦と考えられています。
石川牧の中心地、驚神社、荏田城があるエリアは、都筑郡衙がある都筑郡の中心地でもあります。
また、県重文で平安時代末期の作となる本尊の木造千手観音立像、国重文で鎌倉時代の作となる客仏の木造釈迦如来立像がある真福寺が、鎌倉街道中道沿いにあります。
今真福寺が立つ場所は嘗て観音堂があった所で、上記県重文の本尊はその観音堂の本尊でした。
真福寺は今の場所から北へ3.4kmの所にあったそうですが、鎌倉期には今の場所の近く、今、宿自治会館がある場所に、釈迦堂と共に移っていたようです。
上記国重文はその釈迦堂にあったもので、清涼寺式釈迦とよばれる形式の仏像です。
如何でしたでしょうか。
武蔵七党系図に記載が無くexplore困難かと思われましたが、何とかなりました。
何度もexploreしてるところですが、新たな視点で楽しめましたし。
にしても、ここは牧になるだけあってup and downが激しい。最近になって改めて覚え直したダンシングをフル活用して何とか押しをしないでいましたが、鷺沼駅ての上りは足が残ってませんでした。
次回は立野牧をexploreします。