小野路道
という道がある。
八王子と小野路を結んだ道なのだが、現在の野猿街道が、昭和の初めまで小野路道と言われていたようだ。
野猿街道は八王子と一ノ宮を結んでいるが、と、いうことは、堀之内の辺りから小野路に向かっていたと思われる。
小野路道の謂れは何なのか。何故、八王子と小野路を結ぶ必要があったのか。
- 延長2年(924年)、武蔵守、小野隆(孝)泰は、武蔵国多摩郡横山に、石清水八幡宮を勧請し八幡神社を創建した。
- 天禄年間(970~973年)、国司として武蔵国に赴任した小野隆(孝)泰は、小野路に先祖小野篁を祀る小野神社を創建した。
若干の矛盾(延長2年と天禄年間では約50年も間が空いている。人生50年の時代に無理がある。)はあるものの、八王子と小野路は小野隆(孝)泰で繋がっていたのだ。
でも何故、小野隆(孝)泰は、”小野路に”小野神社を創建したのか。
そもそもこの小野隆(孝)泰とはどんな人物か。
小野妹子や小野小町、上記の小野篁を輩出した小野氏一族で、篁の七代後。子は義隆(孝)で、横山党の始祖となった。
この義隆(孝)は、情報が錯綜しているのだが、一説によると、天慶2年(939年)に勅旨牧の一つである小野牧の別当になっている。父隆(孝)泰がバリバリ働いてる時だし、小野神社創建よりずっと前だし、と、年代的におかしいからどっちかの情報がおかしいんだろうが、いずれにせよ、小野一族が小野牧の別当になったということだ。
少し時代は下って平安末期、小野路のすぐ西隣の小山田にも牧があった。
小野牧は相当規模が大きかったようで、小山田の牧もその一部だったとしたら、横山も小野路も小野(横山)一族の管理地だったということになり、小野神社を、小野路に建立したのも合点がいくというものだ。
今回はその小野路道をExplorerしてきた。下図のように複数ルートが考えられるが、今回は本線の黒~紫~黒のルートを行った。
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Explorerのスタートはやっぱりここです。
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八幡八雲神社 |
八幡八雲神社には、横山氏の祖、横山義隆(孝)を祀る横山神社があります。
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横山神社 |
山田川に架かる橋の名は小野路橋でした。
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小野路橋 |
先を行くと古道の証、地蔵が佇みます。
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古道の風景、サンタ |
この直ぐ先はJR横浜線と京王線の踏切ですが、名前が良いです。この古道沿いで、先の橋とこの踏切が、唯一の小野路道の目に見える痕跡です。
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野猿街道ではなく、小野路街道の名が残る踏切 |
北野駅の手前には、横山党の一族が創建したという北野天満宮があります。これも痕跡ですね。
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銀杏の落葉が美しかった。 |
さて、ここからえっちらこっちら上りに入ります。住宅街の中、と、今一つ、趣にかけますが、それは気の持ちよう。1,000年前、小野路道が成立していた頃を想像しながら坂を詰めます。
住宅街の旧道を上ると、絹ヶ丘二丁目手前に出ます。
さて、ここからなんですが、
これは現代地図
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現代地図 |
これは明治42年
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明治42年 |
野猿峠は今とほぼ同じ道筋ですね。
でも、これは明治13年なんですが、
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明治13年 |
今の道筋は全く見つけられませんね。
今の道筋(薄紫)の一本東の道筋(紫)だけです。つまり、明治13年から42年までの間に道が現在の道筋に付け替えられたというわけですが、今回は1,000年前の小野氏・横山氏ゆかりの小野路道ですから、紫を行きます。でもその前に、これを。
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水飲み場 |
これも正面に見えるモチーフが猿ですから、野猿峠と言われるようになってから作られたものだということになり、1,000年前は野猿峠とは呼ばれてないから、こちらの道筋は小野路道ではないということが分かります。
さて、小野路道に戻って、住宅街の中をえっちらこっちら坂を上り詰めると、長沼公園の絶景に辿り着きますが、今日は地元のボーイスカウトが入団式をやってて、絶好のランチ場が使えません。仕方が無い、写真だけ取って先へ。
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小野路道、長沼公園入り口 |
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癒される~ |
折角上ったのにあっという間に下り、気が付けば、横山氏にも所縁の永林寺です。
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永林寺、赤門 |
永林寺を過ぎると大栗川沿いのつまらない道になります。道は、堀之内の辺りから南に折れていたと思われますが、今はゴルフ場です。その後、よこやまの道、小野路浅間神社を経て、小野路に至ります。
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小野路浅間神社裏、切り通し |
この道はこの先横浜麻生道路に接続します。つまり、絹の道でもあったわけです。
また、長沼峠を通るルート(こっちの方が大きな道だ、明治13年地図では)や勾配のきつい野猿峠越えではなく白山神社迂回ルートもあるようで、今後も楽しめそうです。