2013年2月26日火曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Sentakuji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、泉澤寺

泉澤寺私的推定跡地、ウテナ本社・世田谷文学館周辺

吉良氏が、長尾景春の乱において、豊島氏が練馬城、石神井城、平塚城の各居城から、鎌倉道太子堂八幡ルートと大山道を経由し世田谷城に進軍してくることを想定し、軍事的意味合いで開山せしめた元真言宗豊山派現浄土宗大吉寺。

その、大吉寺を末とするのが浄土宗宝林山泉澤寺だ。現在は、川崎市中原区にある。

泉澤寺は、元は烏山に、1491年、吉良頼高開基、好善和尚により、吉良氏菩提寺として開山した。

1491年といえば、長尾景春の乱の真っ最中。直ぐ南を走る鎌倉道西ルートは、十貫坂上で各鎌倉道と合流し、北上すれば豊島氏の練馬城、石神井城、平塚城に至る。

この泉澤寺も、豊島氏進軍ルートに開山された世田谷城守備の為の軍事拠点であったと考えるのが妥当だろう。


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その後、1549年には火災により焼失。吉良頼康(頼高の曽孫)が現在の地に移転した。

移転後の泉澤寺が、周囲に水濠を巡らすなど城塞化していた為、烏山の泉澤寺も世田谷城の砦として機能していたものとされている。

実際、1537年、扇谷上杉氏陣営の深大寺城に対抗し、北条氏康は、牟礼に高橋綱種による牟礼砦を、烏山に高橋氏高による烏山砦を築き牽制した。烏山砦は、泉澤寺跡地に築かれたとされている。

1491年から1537年までは、豊島氏を敵とし吉良氏により寺の形を維持したままの軍事的施設として機能し、1537年からは、上杉氏を敵とし後北条氏により本格的な砦として機能したのだ。

さて、泉澤寺跡地=烏山砦だが、2説ある。

  1. ウテナ本社、世田谷文学館周辺(冒頭写真)
  2. 烏山神社

私は、2説共、正しいのではないかと思っている。

冒頭の写真、ウテナ本社・世田谷文学館だが、丁度、横断歩道のところが烏山川に当たる。烏山川の向こうは僅かだが微高地となっている。又、地図を見て欲しい。世田谷城と同じように、烏山川が天然の水壕となっている。城には適した地形と言えよう。

一方、烏山神社だが、以下の写真を見て欲しい。

烏山神社拝殿の額。白山宮、御嶽宮と彫られている。
春日神社高橋番神堂撤去記念碑。ここに、高橋氏が勧請した三十番神を祭る堂があったことを示している。

高橋氏高は、北条氏綱の命により、雲見からこの地に移住した。雲見では、雲見上の山城を居城とし、雲見上の山城の正面にある烏帽子山の雲見浅間神社、又の名を御嶽浅間宮を氏神としていた。今でも雲見浅間神社の神主は、高橋氏の末裔が務めている。

烏山神社は元は御嶽神社だ。烏山神社は、高橋氏高が烏山に移住し、烏山砦築城の時、雲見の氏神を勧請したと考えられる。

更に、烏山神社の直ぐ北にある医王寺境外堂念仏堂は、泉澤寺の念仏道場として利用されたという。すると、ここまでは泉澤寺の寺領だったことになる。

医王寺境外堂念仏堂薬師様、室町期の作という。

1491年から1537年までは、現在のウテナ本社・世田谷文学館から念仏堂までの烏山川北側が泉澤寺寺領で、1537年高橋氏高が烏山砦築城の為、この地に移住した時に御嶽神社を勧請し、ここまでを烏山砦の城域としたと考える。

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と、投稿したのだが、後日の調べで、間違いがあるのでここに訂正する。

まず、烏山神社が元は御嶽神社という点だが、御嶽神社が古来より烏山の鎮守だったことは間違いないのだが、烏山神社の由緒をよく読むと、御嶽神社を白山神社に遷宮したとある。御嶽神社の元の場所の記述は無いが、文面から、ここではない何処かにあった御嶽神社を、この場所に遷宮したと考えるのが妥当だろう。

更に、新編武蔵国風土記稿には、医王寺持ちとある。

だから、高橋氏高が、雲見から移住の際、勧請したというのは間違いだ。

医王寺境外堂念仏堂と、烏山神社は、医王寺が平安末期開山だから、その後、1491年の泉澤寺開山までの間に、成立したものと思われる。

高橋氏高は、既にあった烏山神社に、三十番神を祀った。1537年の頃だ。

2013年2月16日土曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Kitazawa-hachiman / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、北沢八幡

北沢八幡
七沢八社隋一正八幡宮

世田谷七沢八八幡随一

鎌倉道太子堂八幡ルートの少し東に位置するこの北沢八幡は、今からおよそ500年前の文明年間(1469~84年)に、世田谷北辺の守護神として、吉良氏により創建された。

1469~84年というと、長尾景春の乱の真っ最中だ。長尾景春の乱のクライマックスは、江古田・沼袋原の戦いで、長尾景春側についた豊島氏の練馬城、石神井城、平塚城が、吉良成高属する山ノ内・扇谷両上杉氏側の、当面の敵だった。

地図を見て欲しい。


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練馬城、石神井城、平塚城の位置(3城とも赤ポイント)、江古田・沼袋原の戦場(緑ポイント)は、鎌倉道(緑ライン)が通っている。つまり、豊島氏が、世田谷城に進軍する場合、正に、このルートを通るのだ。

北沢八幡は、豊島氏から世田谷城を守る最前線の砦として、創建された。

この眺望を見てほしい。

北沢八幡、南の眺望。多摩川まで見えただろう。

こうなってくると、北沢八幡から世田谷城へのルート上にある他の寺社にも、軍事的意味合いを求めたくなる。

まずは、より北に位置する滝坂道(赤ライン)だ。

・杓子稲荷神社

長尾景春の乱の頃、既に創建されていた杓子稲荷神社は、創建当時こそ、純粋に鬼門鎮護の為、創建されたと思うが、長尾景春の乱の頃には、軍事的意味合いを持つ様になったものと推定する。

杓子稲荷神社は、北沢八幡から世田谷城へのルートである滝坂道付近にあるが、その立地は、鎌倉道世田谷宿ルート上でもある。鎌倉道世田谷宿ルートは、笹塚で、鎌倉道太子堂八幡ルートと接続している。

杓子稲荷神社から北に進み東を見るとこの道が尾根道だということが分かる。見晴らしが良かっただろう。鎌倉道太子堂八幡ルートを南進する豊島氏の軍勢が良くみえたはずだ。

鎌倉道世田谷元宿ルート、杓子稲荷神社から北に進んだ地点の東の眺望。
見晴らしが良く、尾根道だということが良く分かる。

非常に重要な軍事的意味合いを持っていただろう。

次は大山道だ。

・太子堂八幡

創建は、源頼義・義家親子が奥州征伐に向かった1061年。長尾景春の乱の頃は既にここにあった。ここはこの南の烏山川が削った谷に向かう下り坂となっている。勢いよく下ってきた軍勢にカウンターで迎撃したのか。

・駒留八幡

創建は1308年、北条左近太郎こと、北条維貞の勧請。長尾景春の乱の時、既にここにあった。世田谷城の砦として活用されたろう。

・大吉寺

今は浄土宗だが、元は、勝国寺と同じく真言宗豊山派。吉良氏祈願所。開山年は不明。1491年開山の烏山泉澤寺の末。泉澤寺開山からすぐ開山したのだとしたら、ここ大吉寺も、軍事的意味合いがあったろう。

2013年2月13日水曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Shyakushi-inari / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、杓子稲荷神社

杓子稲荷神社

とても、とても小さな神社。が、歴史は古い。

創建年不明も、吉良治家、世田谷城鬼門鎮護の為、この地に伏見稲荷を勧請したという。

治家というと、1300年代後半から1450年頃に孫の頼氏が世田谷城を築城し、その後、ここ世田谷に移り住んだのだが、年齢から察するに、治家が世田谷に来たのは1400年頃と思われる。すると、1416年の上杉禅秀の乱より前なので、関東は、一先ずの安定期。この道が、上野国碓氷郡飽間郷と世田谷とを結ぶ鎌倉道だったことを合わせ持って考えると、砦ではなく、純粋に、世田谷城の鬼門鎮護で創建したものと思われる。尚、この頃の世田谷城は、本格的に城として改築する前の館だったものと思われる。城としての改築は、頼氏以降だからだ。


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2013年2月10日日曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Jyoutokuin / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、常徳院

曹洞宗観谷山常徳院

開基、開山不明も、吉良氏印判状によると、中地山城守が吉良氏朝の命を奉じ十一面観音菩薩に立願し、仏供免田二百疋を進呈したその宛名が浄徳庵となっている事から、その印判状の日付、少なくとも元亀四年(1573年)には、この寺があったものとされる。

元は、現在船橋観音堂があった場所にあった浄徳庵で、吉良氏朝が世田谷城近くに移転させた。

船橋観音堂

現在の場所は、世田谷城の西、滝坂道沿いだ。1573年なら、敵は越後上杉謙信や甲斐武田信玄。滝坂道といえば、甲州街道に続く道。武田信玄からの防御の為、氏朝は移転させた。


より大きな地図で 常徳院

2013年2月9日土曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Jyouzaiji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、常在寺

日蓮宗宝樹山常在寺

常にそこに在る寺、ありがたい。

身延山久遠寺の末。開山は忠善院日純聖人で永正3年(1506)8月、開基は大平出羽守の娘、吉良頼康の妻、常盤御前、法号宝樹院殿妙常日義大姉「大永3年(1523)4月13日卒。

常盤御前といえば、世田谷には悲しい伝説が残る。ここ(http://www.okusawa.jp/sinkoukai/rekisi/okusawajyou/tokiwa1.htm)に詳しい。

1506年というと、吉良氏が扇谷上杉氏から後北条氏に乗り返しつつある頃。未だ江戸城も河越城も落としていない。警戒すべきは北、東だと思うが、ここ常在寺は世田谷城の南、室町期鎌倉道沿い。曹洞宗、真言宗てはなく日蓮宗であるし、頼康は、『法華嫌い』だったそうだから、世田谷城の砦として開山したというより、純粋に常盤御前が信心から開基したものとみる。

常在寺遠景、鎌倉道から続く参道から

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2013年2月8日金曜日

Temples and Shrines related to The Kira Family, Shyoukokuji / 世田谷区の吉良氏所縁の寺社、勝国寺

真言宗豊山派青龍山勝国寺

山号の、「青龍」は、近くを烏山川が流れているからか。

開基は、吉良成高の子、政忠。1554年、世田谷城裏鬼門除けの為、政忠12石を寄進し開山なる。

円光院、円乗院、多聞寺、泉竜寺、善性寺、密蔵院を末とした、小本寺の格を持つ。

1554年といえば、扇谷上杉氏は既に滅亡、甲斐武田氏と越後長尾氏=後の上杉謙信は、まだ、関東には手を付けずの状態だった為、関東は後北条氏の天下、当面の脅威は無かった。

さすれば、烏山川の手前で、東からの敵から守るという防御の意味合いはあったろうが、具体的に、誰のどの城という様な想定は無かったと見る。

後に、上杉謙信が関東に進出してくる1560年以降は、重要な意味を持つ様になる。


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2013年2月6日水曜日

Acient Road in Setagaya ward, Shinagawa-michi / 世田谷区の古道、品川道

鳥越川は、城山小学校付近に架かる品川橋
世田谷に、何故、『品川』か。

『品川』、『歴史』というと、家康が整備した東海道は江戸より最初の宿、品川宿を思い浮かべる人が多いだろう。が、品川の歴史はそれよりもっと古い。

品川湊は、律令下の武蔵国の外港だった。品川と武蔵国国府は、品川道で結ばれていた。

この道は、大国魂神社のくらやみ祭りでも使われている。くらやみ祭りとは、1062年、源頼義・義家親子が奥州征伐に向かう途中、品川の海から海水を汲んできて、戦勝祈願したのが始まりで、今でも、毎年4/30に開かれ、続いている。

江戸時代には、毎年4月25日に神官、神馬の一行が、早朝、府中を発ち、荏原神社を訪れ、天王洲の海で禊ぎをして汐を汲み、その日の内に府中に戻ったいう。

その道筋は、大国魂神社神主の日記、六所宮神主日記によると、府中を発ち、金子、馬引沢、目黒で休息しながら品川宿に着いたとある。「金子」は現在の調布市西つつじが丘付近、「馬引沢」は世田谷区の上馬、下馬付近、目黒は目黒不動だから、府中から甲州街道を通って調布へ、そこから豪徳寺付近を抜け、品川用水路沿いに目黒区に入り、目黒不動門前の茶屋で休み、氷川神社、安楽寺の前を通って目黒川に沿って下り、居木橋の付近から南馬場に抜けて、荏原神社へというルートが、くらやみ祭りの道筋ではないかと考えられている。
※世田谷区役所ホームページより

世田谷区役所の記事を元に、早速、明治13年の古地図で推理してみる。

結果はこれだ。


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明治13年の地図と重ねてみる。

品川道明治13年古地図

滝坂道の松原宿クランクを北に行かず江戸期の南側の方の道へ。途中で南に折れ、城山小学校の西端と南端に沿い鳥越川を渡る。この橋こそ品川橋だ。だから、「品川橋」だったのだ。鎌倉道世田谷元宿ルートで旧大山道へ。そのまま鎌倉道世田谷元宿ルートであり六郷田無道を進み、環七手前で六郷田無道へ分け環七に入り、野沢の追分で品川用水跡に入る。目黒通りに出たらそのまま目黒通りを東へ。山手通りを南に折れ、目黒不動尊付近の旧道に入り、中原街道に出たら再び山手通りに復帰し、居木橋を渡り目黒川沿いに荏原神社に至る。

滝坂道、鎌倉道、六郷田無道と、国府である府中と国津である品川湊を結ぶ古道を繋いでいたのだ。

1590年、秀吉の小田原征伐で、世田谷城も前田利家により落城、城主吉良氏朝は、抵抗せず、秘密裏に、この道を使い品川に出て、舟で上総に逃げている。歴史の道だ。