これまで、このシリーズでは、以下の投稿をリリースしてきました。
ルート地図です。
深大寺縁起によれば、他所から来た福満という者がこの地に住み着き、やがて、郷長温井右近長者の娘と恋仲になりましたが、右近夫妻は許さず、娘を湖の島にかくまってしまいます。
福満は玄奘三蔵の故事を思い出し、深沙大王に祈願して、霊亀に乗って島に渡ることが出来ました。
温井右近長者も、娘の母虎も、この奇跡を知って二人を許し、やがて生まれたのが満功上人です。
満功上人は、出家し、遣唐使で南都に法相を学び、帰郷後、733年、この地に一宇を建て、父福満の願いでもあった、深沙大王を祀りました。深沙大王寺、深大寺の始まりです。
このエリアには、温井右近長者・虎夫妻の館跡と伝わる祇園寺や、虎を祀ったとの伝承がある虎柏神社もあります。
このエリアは狛(高麗)江郷で、虎柏神社も、元は虎狛(高麗)神社という伝承もあり、温井右近長者は、嘗ての高句麗エリアである江原道金剛山温井里の出身とも言われていて、濃厚な高麗(高句麗)渡来伝承地です。
満功が深大寺を開いた年齢はハッキリしていませんが、温井右近長者ら高句麗渡来人が、高句麗からこの地に入って来たのは、概ね、650~700年の間でしょう。668年に、高句麗は、唐・新羅連合軍に破れ、滅亡しています。
同様に、百済も、唐・新羅連合軍に、660年、滅亡させられていて、その後、再起を図る百済を助ける為、663年、日本(倭国)から軍隊が派遣されるも、やはり、唐・新羅連合軍に破れるなど、半島、中国、日本では大きな動きがありました。
新羅も、676年に半島統一しましたが、日本(倭国)との関係は、日本(倭国)に朝貢する関係で、日本にも多数の新羅人が渡来していました。745年くらいには大飢饉となり、更に多くの新羅人が渡来しています。
それを受けた日本では、以下の様な、渡来人を巡る動きがありました。
- 666年、百済人男女2,000人余りを東国に移住させる
- 684年、百済人僧尼以下23人を武蔵国へ移す
- 687年、高麗人56人を常陸国、新羅人14人を下野国、高麗の僧侶を含む22人を武蔵國へ移住させる
- 689年、下野国へ新羅人を移住させる
- 690年、新羅人12人を武蔵国に、更に新羅人の若干を下野に移住させる
- 716年、高麗郡の設置、駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の高麗人1779人を武蔵國に移す
- 733年、埼玉郡の新羅人徳師ら53人に金姓を与える
- 758年、新羅郡(後の新座郡)の設置、日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵国に移住させる
- 760年、新羅人131人を武蔵の地へ移住させる
深大寺エリアにも、この、大きな流れの中で、高麗人が入ってきたんだと思いますし、716年には、高麗郡に移住していったんだと思います。
その移住のルートが、幾つか考えられまして、
半島 → 福岡 → 関門海峡 → 瀬戸内海 → 畿内 → 和歌山 → 太平洋岸
までは共通で、以降、
- 太平洋岸 → 大磯 → 相模川遡上・陸路北上 → 高麗郡
- 太平洋岸 → 大磯 → 相模川遡上・陸路北上 → 多摩川遡上 → 青梅 → 高麗郡
- 太平洋岸 → 大磯 → 相模川遡上・陸路北上 → 磯部 → 府中 → 多摩川遡上 → 青梅 → 高麗郡
- 太平洋岸 → 大磯 → 三浦半島 → 東京湾 → 多摩川遡上 → 深大寺
- 太平洋岸 → (大磯経由せず直接)多摩川遡上 → 深大寺
- (上記4, 5で深大寺に来た後)深大寺 → 多摩川遡上 → (上記2, 3のルートで高麗郡へ)
- (上記4, 5で深大寺に来た後)深大寺 → 陸路北上 → 小榑村 → 所沢 → 勝楽寺村 → 高麗郡
と、私の推測も含め、考えられています。
このシリーズの前回は、7の深大寺から小榑村までexploreしました。
今回は、小榑村から勝楽寺村までをexploreします。
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滝坂道で深大寺へ。深大寺エリアから小榑村への移住ルートを北上、小榑村に入ります。
まずは、小榑村鎮守の諏訪神社です。
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長い参道に武蔵野の森が残る諏訪神社、創建詳らかならず。元は別当本照寺の三十番神社。 |
直ぐ南には、別当の本照寺です。
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1582年、日勇上人開山 |
この辺り、恐らくは律令の時代から、少なくとも1582年前後には小榑村の中心地だったということでしょう。
前回も言いましたが、"小榑(コグレ)" は、"高句麗(コグリョ)" から来ているのではないかと思っています。
世田谷や調布の人間からすると、コグリョと聞いて頭に思い浮かぶのは、国領(コクリョウ)ですね。
国領は、多摩川 - 深大寺 - 小榑村ライン上の、多摩川 - 深大寺間に位置しています。
深大寺を中心に、南北に、高句麗の遺地名がある、そういうことになります。
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北上し、黒目川を渡ると、馬場(片山)氷川神社があります。
創建詳らかならずも、境内にあった別当蓮光寺の開山が1392年なので、その前後と思われます。
この神社には、片山郷内の字駒形の駒形神社が合祀されています。字名の、"駒形" は駒形神社から来ているものと思われます。
その駒形神社ですが、元は、"高麗" 方権現、"高麗" 方神社かもしれません。
実際、同じ新座郡、現朝霞市の宮戸神社には駒形権現が合祀されていて、元は、高麗方権現だったといいます。
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馬場(片山)氷川神社と字駒形の位置関係。左の青が氷川神社、右が字駒形。明治40年に駒形神社を合祀しているので、明治13~19年作成の迅速測図には、駒形に駒形神社が残っていることが分かります。青ポイントの直ぐ左に鳥居マークがありますね。"権現祠" と書いてあります。駒形(高麗方)権現だったということと思われます。 |
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深大寺から青梅に向かう道筋も、多摩川の遡上と、崖上の陸路と、2通りあったのではないかと思っていて、実走、投稿しています(上記)。
このルートでも、柳瀬川を遡るか、崖上を行く陸路とがあるのだろうと思います。
柳瀬川を渡り、新羅郡から入間郡に入ります。県道179号を西へ行きますが、この道は柳瀬川が削った谷の上を行く、迅速測図では、片実線・片点線の村道で、所沢駅に向かっています。
ここからいよいよ今回の核心部分に入っていくわけですが、上記現代地図をご覧いただくとよくお分かりになると思いますが、いやはや、ここら辺りは非常に歴史深いエリアですね。
東山道武蔵路が南北に通ってますから、ある程度予想はしていましたが、これ程とは。知りませんでした。
奈良・平安期の古寺社が多くあります。上記Google Mapsをご確認下さい。
日本武尊伝承ですから大和系、氷川神社などの出雲系もあります。出雲系は、奥多摩から山を越え、所沢を経由して柳瀬川、黒目川沿いに荒川に出て、大宮に至るルートが明確ですね。
- 日本武尊、大和系所沢神明社、北野天神社
- 出雲系中氷川神社、北野天神社
また、行基伝承の寺が5寺あり、そして、何と言っても、大本命は勝楽寺村です。
では、行基、勝楽寺を訪ねてみましょう。
まずは東福寺です。
創建年代は詳らかならずですが、天平勝寶元年(749年), 行基が創建、後、聖寶尊師(909年没)が開祖と伝えられています。
行基、聖宝共に、東国には来てないでしょうし、山号院号本尊は、今は、成田山観音院、不動明王ですが、元は、水木山阿弥陀院で、所沢市の文化財に指定されている木造阿弥陀如来坐像が、院号との合致性から、元々の本尊ではないかとも言われています。
この阿弥陀様は鎌倉期の作ということですから、開山はその辺りか、あるいは、明治時代には應和、康保、安和、永祚年間(961~990年)の古碑が残っていたということですから、聖宝の時代からは数十年後ということになり、伝承の信憑性が少し上がりますから、せいぜいその辺りか、という感じがしています。
しかし、行基伝承があるということが大事なんだろうと思うのです。
行基自身はこの地を訪れていなくとも、行基の弟子達 = 行基集団が、この地を訪れた可能性は大いにあるのではないでしょうか。
行基は役行者と縁があったとされています。聖宝も、役行者を師事し、修験の道に入り、当山派修験道の再興の祖と呼ばれていますから、修験の者達が、この地を訪れ、庵を開き、後に寺となっていった可能性はあるわけです。
先を行きましょう、所沢駅近くの新光寺です。
創建年代詳らかならずですが、本尊の観音像は行基の作であることから行基による開基と考えられています。
webを探してみましたが、本尊に関するより詳細な記事やそれらしい画像は見つかりませんでしたから、やはり、伝承の域を出ないのかもしれませんが、廻国雑記にこの寺が出ていて、福泉という山伏がいたという記述があるそうで、先程の東福寺の修験と繋がるようにも思えます。
先に進みます。本日のハイライト、辰爾山仏蔵院勝楽寺です。
縁起によれば、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に勝楽寺村に創建したということです。狭山湖造成に伴い、湖底に沈んだ勝楽寺村から山口へ移転しました。
ここで、面白いことに気づいてしまいました。
行基です。
行基の父は高志才智ですが、この高志氏は王仁を祖とし、河内国と和泉国に分布する百済系渡来氏族です。
もしかして、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子とは、行基のことでしょうか?!
だとするとこの仏蔵院勝楽寺も行基縁の寺ということになりますね。
もう1つ、こちらが本命の話なんですが、
- まず、716年に高麗人を移住させる為に作った高麗郡の高麗山聖天院勝楽寺の縁起からですが、716年の高麗人移住の郡司だった高麗王若光は、没後、神と祀られ、高麗神社の創建となったが、その侍念僧勝楽は若光の冥福を祈る為、一寺を建立しようとしたものの果たせず、751年に没してしまったので、若光の3男聖雲と孫の弘仁が、勝楽の意志を継ぎ、寺を建て、その遺骨を納めて冥福を祈ったのが、高麗山聖天院勝楽寺である、と書かれています。
- また、高麗神社によると、聖雲が勝楽の冥福を祈る為、勝楽が高句麗より携えて来た歓喜天を安置し開基した、ということでした。
- 一方、辰爾山仏像院勝楽寺の縁起には、先の、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に開山したという話がある一方、716年に、高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・歓喜天を安置、聖天院勝楽寺と呼び、2年後に2尊を抱いて高麗村に一寺を建て、それを聖天院勝楽寺という、と記されているとのことです。
- 応神天皇の時代(270~312年), 王仁らが渡来
- 660年、百済滅亡、663年、白村江の戦いで百済、倭国敗れる、多くの百済人が日本に渡来
- 668年、王仁を祖とする行基、河内国に生まれる。河内国は、王仁の子孫や渡来した百済人が多く住む、高麗人にとっての高麗郡や新羅人にとっての新羅郡のような国であった。
- 行基、河内国に住む渡来してきた百済人を中心とした行基集団を形成、行基集団は全国行脚し、溜池、橋などの公共土木工事、寺の開山などを実施
- 辰爾山仏蔵院勝楽寺の前身となる寺を開いたか
- 一方、668年、高句麗滅亡、多くの高麗人が日本に渡来
- 半島 → 福岡 → 関門海峡 → 瀬戸内海 → 畿内 → 和歌山 → 太平洋岸 → 大磯 → 三浦半島 → 東京湾 → 多摩川遡上 → 深大寺 → 小榑と、移動、移住し、
- 716年の高麗郡設置に伴い、小榑 → 柳瀬川遡上 → 勝楽寺と移動、移住し、辰爾山仏蔵院勝楽寺を開山
- 718年、高麗郡に、高麗山聖天院勝楽寺を開山(移設?)
- 751年、勝楽没し、若光の子聖雲と孫弘仁が、勝楽の菩提の為、勝楽寺に遺骨を収めた。
小榑村は、名前は確かに高句麗遺地名なんですが、そんなこと言ってる記事はwebを探しても無く、だって、ここは新座郡、新羅郡、新羅人でしょうという考えも出てきたんですが、小榑と高麗郡の間の勝楽寺村にこれほど濃度の高い高麗人伝承があったので、小榑も高麗人遺地名だろうと推定できました。
先を行きましょう、金乗院です。
風土記によれば、
山口観音と號す、此邊昔は近村をすべて山口と號せし故にかく呼べるなり、天正十九年観音堂領十石の御朱印を給ひしより、今も御朱印の地なり、本尊は千手観音行基菩薩の作にして、弘法大師の開基と云、さればことに古跡にして、諸方よりも詣る人多し、縁起あれど略してのせず、堂の軒に撞鐘一口をかく、其形状異様にして古色なり、今按に隣村大鐘村は昔撞鐘を穿ち出せし地なるよし、土人の語り傳ふるに據ば、もしくは其鐘を當所へ納めたるにや、さもあらんには、一旦土中に埋れしを、後に掘出したる鐘なり、其圖上の如し、口径二尺、高三尺許、半面は許由巣父の品を彫る、畫様金色等は尋常の物とは見えざるなり。寶物新田義貞願書一通。
(以下、省略)
と、いうことで、本尊の千手観音は行基作で、弘法大師空海の開基、新田義貞も縁があるという、スーパースター揃い踏みの古寺名寺です。
また、少しルートを外れるので今回は実走しませんでしたが、以下の2寺も行基縁です。
- 光輪山妙善院三ヶ島寺、本尊白衣観音坐像にして長六寸許り、行基の作なりと云
- 西久保観音堂、神亀5年(728年)春、行基が全国行脚の途中、堂を開いたのが始まり
この先、狭山湖と多摩湖の間の尾根を行き、青梅街道に出たら西に行くと、太平洋岸 → 大磯 → 陸路北上 → 高麗郡ルートとぶつかり、今回のexploreは終了です。
お疲れ様でした。
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如何でしたでしょうか。
コロナで輪行がしづらくなって、もう行き尽くしたと思っていた近所をexploreし始めました。
いつも冬は山ですから~山と言っても里山ですが~その後、渡来の道シリーズで、青梅から山を越えて高麗へ、と、予定していた所にコロナでした。
そこで、
- 多摩川下流両岸の暴れ多摩川流路痕跡を辿る(1, 2, 3)
- 杉並と世田谷のシルクロード(1, 2)
- 多摩川下流域の後北条氏痕跡を辿る(1, 2)
- 武蔵野原野
- 武蔵野国郡境(1, 2, 3, 4)
と、exploreしてきました。
これらのご近所explorerを通じて分かったのは、武蔵野台地が如何に厳しい土地だったか、ということです。
元は多摩川の扇状地。柳瀬川、黒目川、白子川は旧流路です。
立川断層が隆起し、断層の東側が最大6m高くなったので、多摩川は今の野川、多摩川に流路変更せざるを得ませんでした。
そこに、箱根の山や富士山の火山灰が降り注ぎます。
なので、地表に露出している柳瀬川、黒目川、白子川等の川や、地表に露出していない地下水脈、火山灰が降り注ぐ前の川ですね、と、人が住む台地との間には標高差が発生するので、川で桶に水を取ったら崖を上がっていかなければならず、それは無理で、井戸はえらい深い井戸を掘らなければならないんですが、そんな技術は無かったんです。
人間、水が無ければ生きていけません。
そんな厳しい土地に、渡来人を送り込んだんだということです。
百済人、高麗人、新羅人や、行基集団など、流石の当時、先進技術を持った渡来人たちでも、無理だったんですね。
彼らは主に柳瀬川、黒目川、白子川流域にしか住めませんでしたし、それ以外のエリアは、ナント!!, 約1,000年後の江戸時代に、玉川上水が開削されてからやっと、住めるようになったんですから。