前回の続き
さて、いよいよ(いよいよと意気込んでもそんなにたくさんの読者はいませんが・・・)本シリーズ最終回です。
高麗川駅まで輪行。まずは野々宮神社に向かいます。
- 日高市掲示
野々宮神社の創建は定かではないが、大宝3年(703)に社殿を建築した伝承がある古社です。祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っています。高麗川の川辺に鎮座し「祓の社」といわれています。当社は伊勢神宮に仕える斎王に選ばれた皇女、女王が身を清めるため1年間こもった嵯峨の野宮神社の分社であると考えられています。また社蔵文書には「当社高麗王の尊霊を祀る」との記述がみられることから高麗郡の設置や高麗王若光との関係がうかがわれます。 - 埼玉の神社
- 武蔵野台地を流れる高麗川の沿岸に開ける野々宮は、そのたたずまいに古代の人々の生活の営みを感じさせる所である。社家である野宮家の先祖は日向国タカサダの地より来住したとされ、代々長男は高の字を名乗りに用いるという。また、同じ社号を持つ狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家の口碑には、先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(当社社家先祖)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たったという。
- 社記に「四十二代文武天皇の大宝三年社殿修築」の記事がある。大宝三年(七〇三)とは、同元年に施行された大宝律令によって引田朝臣祖父が武蔵国の国司として赴任した年で、当社修築はこれにかかわるものであろう。なお、当時の国府は府中であったとされている。
- 霊亀二年(七一六)に駿河以東七カ国の高麗人一七九九人を当地方に移して高麗郡を設置する。社伝によると高麗王若光遠乗りの折、当社近くにて落馬し、これは身の穢によるとして当社前に祓を修した。また、野宮とは神宮に仕える斎宮が、奉仕に先立って一年間潔斎生活を送る斎殿を指している。当社は高麗川に、入間の野々宮神社は不老川に、鴻巣の野々宮神社は荒川にと、それぞれ川辺に鎮座し、祀職は祓の伝承地日向出身と伝えている、以上のことは野々宮神社が“祓の社”としての役割を持っていることを物語るものであろう。
- 『明細帳』に、社殿の再建を天徳三年(九五九)とし、神田隼人・新井縫之助の建立、その後数度の再営を経て、現在の社殿は寛永三年と記している。また、内神宮と称する内陣の造営は享保一〇年である。
- 『風土記稿』に「野々宮社 天照大神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、当村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎮守なり、神職野々宮市正吉田家の配下なり」とある。猿田村は、高麗市百苗の一つ神田姓が多く、古くは高麗神社の神饌田があったと伝えている。当社の北に、高麗川を挟んで高麗神社があるが、当社の社蔵文書に「当社高麗王の尊霊を祀る」との記事があり、高麗神社との深い関係をうかがわせる。しかし、高麗神社が高麗山大宮寺と称することに対して、当社が高麗山野々宮大宮司であったため、音読による誤解を招くと抗議する間柄に変化した時代もある。祀職を務める野々宮家は、所蔵文書「天文十六年十一月十九日・覚之事(六所宮祭事ニ付参集覚写)」に野々宮勘子の名が残る旧家で、代々大宮司を称している。
北入曽の野々宮神社、2019/8訪問 |
ということで、高麗の野々宮神社は、北入曽の野々宮神社もそうですが、716年に、高麗王 "玄武" 若光が高句麗渡来人を引き連れてここ高麗郡に入植してきた時より前からこの地に鎮座していたと目される古社で、且つ、高麗神社との関係も深い神社ということになります。
先を行きましょう、高麗山聖天院勝楽寺です。
ここはこのシリーズの、"小榑村から勝楽寺村へ", で、語ってます。要約して以下に。
ここ高麗郡の東、狭山湖・多摩湖畔に、やはり、勝楽寺(辰爾山仏蔵院)があります。
辰爾山仏蔵院勝楽寺 |
縁起によれば、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に勝楽寺村に創建したということです。
一方、高麗山聖天院勝楽寺はというと、
- 716年の高麗人移住の郡司だった高麗王若光は、没後、神と祀られ、高麗神社の創建となったが、その侍念僧勝楽は若光の冥福を祈る為、一寺を建立しようとしたものの果たせず、751年に没してしまったので、若光の3男聖雲と孫の弘仁が、勝楽の意志を継ぎ、寺を建て、その遺骨を納めて冥福を祈ったのが、高麗山聖天院勝楽寺である。
- また、高麗神社によると、聖雲が勝楽の冥福を祈る為、勝楽が高句麗より携えて来た歓喜天を安置し開基した。
ということなんですが、辰爾山仏像院勝楽寺の縁起には、先の、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に開山したという話がある一方、
『716年に、高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・歓喜天を安置、聖天院勝楽寺と呼び、2年後に2尊を抱いて高麗村に一寺を建て、それを聖天院勝楽寺という。』
とも、記されているとのことです。
まとめると、こういうことではないでしょうか。
- 716年の高麗郡設置に伴い、小榑 → 柳瀬川遡上 → 勝楽寺と移動、移住し、辰爾山仏蔵院勝楽寺を開山
- 718年、高麗郡に、高麗山聖天院勝楽寺を開山(移設?)
- 751年、勝楽没し、若光の子聖雲と孫弘仁が、勝楽の菩提の為、勝楽寺に遺骨を収めた。
先を行きましょう、高麗神社です。
主祭神は高麗王 "玄武" 若光ですから、716年の高麗郡成立後、若光が亡くなった時に創建ということになりますか。
これまで散々巡ってきた高麗郡内の白鬚神社の本社ということになります。
先を行きましょう、九万八千神社です。
聖天院も高麗神社も非常にキレイで手入れも行き届いていて清々しく非常に良かったんですな、実はココが一番良かった!!!
"九万" は、"高麗" だろうということでここも高麗郡内に設置された白鬚神社の内の一つと思われます。
市内最古と言われていたり、背後は高麗郡の霊峰日和田山で、手前は巾着田、巾着田は高麗郡成立時、高句麗渡来人が最初に開拓した場所ということで、何かありそうな神社です。だから寄りました。
で、実際来てみたら、冒頭のように、非常に良かったです。
まず、ロケーションですね。ご覧の通りです。ここが高麗郡の最初の中心地なのではないかと思わせます。
それから雰囲気、空気感ですね。何と言うか、"ずっと昔からこうだったんだろうな", というように感じるんです。
さて、高句麗渡来人達の行き着く先、高麗郡の中心地、聖天院と高麗神社を巡る旅、ここで終わろうと思います。
高麗峠を越えて飯能市街に向かいましょう。若光達もここを通ったはずです。向きは逆ですが。
高麗峠、にしてもトレッキングしてる人多かったです。先日の加治丘陵では誰とも会わなかったのに。道ですが、今回はクロモリロードだったので初めから乗車する気は無かったんですが、MTBだとしても、石が多いので、サスは必須ですね。 |
小一時間で峠を越え、飯能市街に入り、今日は北風が強風でサミーヘイガー、サムソン冬木だったので、体力も時間も余裕がありましたが、ここで終わりとし、東飯能から輪行で帰りました。
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如何でしたでしょうか。
今一度、この、"渡来の道" シリーズ, "716年の高句麗渡来人大移動の道筋をexploreする。" を整理してみます。
まず地図です。このシリーズの記事中に何度か載せてますが改めて。
大磯の高来神社と高麗郡の高麗神社はピッタリ南北の位置関係(緑線)となります。
この緑線を軸に宮田氏の説を参考にしながら、古道を繋いでいったのが青線となります。
黒線は中野氏の説を踏襲しております。
紫線は大磯から高麗郡の道筋ではなく深大寺エリアから高麗郡への道筋で、私が見つけたルートです。
マーカは色で表現してます。例えばグレーは白鬚神社です。が、記事で異る意味合いで使っていたりもするので、詳しくは各記事をご覧下さい。
次に各記事です。
まだまだあるかもしれません。しかし、一旦区切りです。始めた時、計画していた所は全部行きました。
また、テーマを探さないといけないですね。
ではまた。