今回は、青梅と奥多摩の、深大寺エリアと稲城にあった延喜式論社の対抗論社を巡ります。
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奥多摩まで輪行。羽黒三田神社に向かいます。
860年、出雲の人、土師連行基(あの、行基ではありません。)が、東国に下り、御嶽山で修行中、神のお告げがあり、この地に高皇産霊神と少彦名を祀り穴澤天神社としたという伝承があって、社地南の山麓には崖横穴があり、そこから御神水が流れていて、穴澤天神の名の起こりとなったという伝承もあり、御祭神、伝承共に、稲城の穴澤天神社との共通点が見られます。
こんなにも似た伝承が、稲城から奥多摩へ来ているということは、多摩川伝いに人の移動があったと、ロマン含め、妄想しても良さそうな気がします。
稲城にいた高句麗渡来人達が、ここ奥多摩に移動し、稲城で祀っていた神を、同じような条件 = 崖横穴 + 湧水を見つけ、祀ったのでしょうか。。。
・・・・・実はこの記事、一年前に記事自体は書いていて、残すは実走のみという状態だったんです。
つまり、この記事を書いてから1年余経過しているわけですが、この間、私も色々な所を訪れたり調べたりして、知見が増えました。
勿論、渡来人の可能性もあると思いますが、出雲族の可能性もあるのではないか、今ではそう思っています。
ここにも書きましたが、布多天神社と穴澤天神社は多摩川を挟んだ対の神社で、穴澤天神社と対なのがこの羽黒三田神社なのではないか。
共通点は出雲族です。
少彦名は出雲の神ですし、羽黒三田神社の由緒には、"出雲の人" とありますし、土師連は出雲の人、野見宿禰を祖としています。
出雲族と言えば氷川神社です。
ここも、大蔵、宇奈根、喜多見の氷川神社とのペアです。
奥多摩町史によれば、
"牟邪志(後の武蔵)最初の国造は出雲臣伊佐知直ですが考証によれば、この出雲臣は当初多摩川下流に拠点をもち、その上流奥多摩氷川の愛宕山の地形を祖国出雲で祖神を祀る日御碕神社の神岳と見、ここへ祖神の氷川神を勧請したのが武蔵に数多い氷川神社の起源で、牟邪志、知々夫両国の合一によって本拠の国街を府中に移して氷川神を中氷川へ、さらに大宮へ移したのだろうといわれるのです。"
と、ありますから。
また、同じく奥多摩町史には、
"景行天皇の御代、日本武尊東国平定の折、素戔嗚尊、大己貴命が陣中を守護され、これによって祀られたのを起源とする。
貞観二年(860), 簸川修理大輔土師行基が再興して社号を奥氷川大明神とする。
嘉応三年(1171), 相殿として建御名方命を祀る。
貞治三年(1363), 細川頼春の家人、村野武清、祭祀を起こしその裔相継ぎ奉仕して近代に及ぶ。"
と、ありますから、奥氷川神社と羽黒三田神社は、同じ人物、出雲の人、土師連行基によって、同じ年、860年に、創建、再興せらるる、ということになります。
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青梅街道を東へ。青梅に向かいます。
御嶽の駅を過ぎますが、ここからケーブルカーで御嶽山山頂に行くと、武蔵御嶽神社があり、ここが、稲城にもある大麻止乃豆乃天神社の論社となります。
しかし、どうなんでしょうか。由緒を見てみると、以下のようです。
- BC91年、四道将軍武渟川別命が大己貴命、少彦名命を祀ったのが起源。→またもや出雲!!!!!!
- 110年、ヤマトタケル東征の折り、この地で白狼の先導によって難を逃れ、奥の院に武具を納めた。これが、"武蔵" の由来。
- 736年、行基(こちらは、あの、行基です。)が勅を受けて東国へ下向、御岳山はヤマトタケルの古蹟であり、東国鎮護の源であるとして、蔵王権現の像を安置。
- 1234年、前摂政・九条道家が四条天皇に奏上し、勅をもって大中臣国兼を祭祀の司職とし、地主神の大麻止乃豆乃天神社を合祀して仏式から神式に改め、御嶽山大権現と号を改めた。
- 1869年、社号を大麻止乃豆乃天神社と改め、式内社に比定するよう上申した。
- 1874年、県社(神奈川県)に列格し、御嶽神社と改称する。
しかし、3は、時期的にも修験道が盛んになった時期なので、行基は別にしても、確からしい感じです。
で、4で突然、大麻止乃豆乃天神社が出てくるんですね。しかも、位置付けが地主神だと。元々ここにいた神だったと。うーん、突然感が強いな。
で、明治に入り、廃仏毀釈もあったからか、名前を大麻止乃豆乃天神社に改め、落ち着いた頃にまた御嶽神社に戻したと。ずっと蔵王権現で来ちゃってたから、廃仏毀釈で神社系にしないといけないということで、縁のあった大麻止乃豆乃天神社が引っ張られた、そういう感じがします。
でも、太占神事は江戸時代の記録がありますから、廃仏毀釈で急に大麻止乃豆乃天神社を持ってきたわけでは無いんですね。少なくとも江戸時代は大麻止乃豆乃天神社はあったんですから。
まぁ、でも、元々、大麻止乃豆乃天神社で祭神は櫛眞智命だったようには思えないですね。山ですから。自然崇拝、アニミズム、山岳信仰、仏教の流行と共に修験道化、蔵王権現、というのが自然なのかなと思います。
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先を行きます。沢井駅付近には青渭神社があります。
BC91年に、時の崇神天皇が、疫病退散を祈願し、神地神戸を賜り、官祭に預かったという伝承があります。と、いうことは、BC91年には既にあったということですね。
奥宮近くに真名井という枯れることのない井戸があり、別名を青渭の井と言って、神社名の元となったと言います。
うーん。BC91年て、さっきも出てきましたね、武蔵御嶽神社で。口承伝承が混ざったかな?!, よくあるんですよ。
水が御神体、御祭神の大国主大神は水神だから、ということですから、深大寺エリア、稲城と共通点が多いですね。
やはり、深大寺エリア、稲城の高句麗渡来人達が持ち込んだんでしょうか?!
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先に進みます。
青梅駅に到着です。今回、初めて知ったんですが、青梅は妙見信仰が盛んですね。
これは稲城の妙見寺から来てるんじゃないかと思ってましたが、どうやら平将門の間違いだったようです。
青梅から奥多摩を領地としていた三田氏は平将門の後裔と称していましたから、妙見信仰も盛んだったんでしょう。
少し離れて金毘羅神社です。
最後に、虎柏神社です。
青梅市史によれば、創建は崇神天皇のころ神地を給わり、ということで、これも青渭神社とほぼ同じ伝承です。
武蔵御嶽神社(大麻止乃豆乃天神社), 青渭神社、虎柏神社はほぼ同じ崇神天皇時代に創建伝承があります。
これはどういうことなんでしょうか?
また、深大寺エリアの虎狛神社は、"虎狛" で、"こま" と読み、鎮座地狛江郷、高麗と通じ、同エリアには高句麗渡来人の伝承が色濃く残り、"虎狛" という名付けに納得感がありますが、こちらの方は、何故、"虎柏"なのかがサッパリ分かりません。地名的にも、"虎柏"という熟語の意味も分かりませんし。
やはり、深大寺エリアから移動してきた高句麗渡来人達に持ち込まれたんでしょうか。
"虎狛"で持ち込まれ、後に延喜式が、"虎柏" と誤記した為、それに合わせ、"虎柏" としてしまった、そういうことでしょうか。
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如何でしたでしょうか。
大麻止乃豆乃天神社は怪しいですが、それ以外の穴澤天神社、青渭神社、虎柏神社は、深大寺エリア・稲城から持ち込まれた可能性があるのではないか、そう思わせるexploreだったのではないかと思います。
しかし同時に、出雲族の移動もあったんでしょう。
こっちの方が先ですかね?!
歴史とは、当たり前ですが重層的であることを改めて感じました。
また、高句麗渡来人の移動ルートをトレースしていると、何故か出てくるアラハバキは、これが原因だったと思うに至りました。
深大寺エリア、稲城、青梅・奥多摩の、延喜式論社を巡る奇妙な関係シリーズ、これで完結です。