2022年6月13日月曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、新田義貞 "元弘の乱" 道、(往路)大丸の渡し―百村―坂浜―御座松―峠の辻―亀井坂―金井―高ヶ坂―本町田ルート、(復路)台光寺ルート

このシリーズ、

何れも鎌倉時代初期でしたが、今回は少し時代が下って1333年の元弘の乱の際の、新田義貞 "元弘の乱" 道です。

頼朝の下、義経が平家を滅ぼしたのが1186年、頼朝と政子の次男、三代将軍実朝が暗殺され、源氏政権が滅んだのが1219年ですから、源氏政権は僅か3代33年で終わったことになります。

頼朝が落馬によって不慮の死となった後、二代将軍頼家、三代将軍実朝も、諸説ありますが、北条によって滅ぼされたと言えなくもありません。少なくとも、その後、鎌倉幕府の実権を握ったのは北条でした。

そして114年後の1333年、源氏一族である足利尊氏、新田義貞によって、北条は滅ぼされるのです。

頼朝の系図は、

源八幡太郎義家―義親―為義―義朝―頼朝

ですが、義親の兄弟に義国がいて、その系統が後の新田義貞、足利尊氏です。

この、新田氏、足利氏は、114年間、北条の御家人でした。正に、主従逆転されていたわけです。

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新田義貞鎌倉攻めの本道は鎌倉街道上道ですが、多摩川を渡河する頃には数万、数十万という規模まで膨れ上がったと言いますから、道幅せいぜい10mの鎌倉街道一つでは賄えないわけです。

ですから幾つもの道に分かれて進軍していきました。

その幾つかも、鎌倉街道ということになるわけですが、だから、鎌倉街道はあちこちにあるのですが、鎌倉街道上道と中道の間に位置するこのエリアにも通っています。

今回は、大丸の渡し―百村―坂浜―御座松―峠の辻―亀井坂―金井―高ヶ坂―本町田のルートを行きます。

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多摩サイで是政橋まで。是政橋で多摩川を渡河し、医王寺に向かいます。

寺の西側の丘は、1333年の新田義貞の鎌倉攻めでの分倍河原の戦死者を弔う十三塚の跡とされています。

医王寺と十三塚跡

先を行きます、大麻止乃豆乃天神社とその裏山の大丸城跡です。

大麻止乃豆乃天神社

謎の多い城なんですが、元弘の乱の際、新田軍の砦だったのでは、という伝承があります。大麻止乃豆乃天神社の裏山には曲輪があった可能性があります。

今昔マップより、古地図の方で、見にくいですが画面中央の十字の左に鳥居マークがあり(現代地図には無い。), その左に小広いピークがありますが、ここが大丸城の本曲輪ではないかと。

大丸城址説明板、正に本曲輪の位置に設置されています。

大麻止乃豆乃天神社の裏山に登ってみました。この公園を始め、幾つかある平地は曲輪跡でしょうか。

ここも

大丸村から村道で長沼村、百村を経て、坂浜村に向かいます。

百村から坂浜に向かう山裾の古道の風景

ここには、元弘の乱の義貞軍の墓と伝わる鐙塚があります。

鐙塚、削られていて分かりづらいですが、若干盛り上がっているのが塚跡です。

ここは渡来してきた高麗人が、この辺で鐙を作っていて、その屋敷跡、という伝承もありますが。

学園通りまで上ったら(キツイですよ), その先は麻生川支流まで下ります。

遠回りとなりますが、このアップダウンを回避する道もあります。が、この上り下りの道沿いに杉山神社があり、その御神体が1492年の懸仏であることから、私はこちらアップダウンの方を採用したいと思います。

杉山神社です。少し前まで、拝殿・本殿の後ろは鎮守の森だったんですが、、、開けていて住宅地のようです。同じ稲城の南山を思い起こします。誰が買うんでしょうかね???, 南山はガランとしてますが。

1492年というと戦国期真っ只中で、この時代にこちらを使っていたならば、同じ武士の時代の1333年も、こちらを通ったと思います。

その後、再び、多摩郡と都筑郡との郡境尾根に上りますが、ここは、元弘の乱の鎌倉方の戦死者を葬った場所で、供養の為、松を植え、御座松と言われていました。

御座松、何代目かが2つ、植えられています。尾根部分は今でも行政界なので、そのまま残ってます。

先程の十三塚は新田方、こちらの御座松は鎌倉方の戦死者を葬った場所ということです。

この辺は小山田有重の小山田庄、小山田有重の子稲毛三郎重成の稲毛庄で、小山田一族は1205年の畠山重忠の乱で滅亡しています。

滅亡後は、政子によって源師季と重成の娘の間の子に遺領が与えられていますから、実質的に北条氏が支配していたと言え、鎌倉恩顧が強いエリアだったのだと思います。

だから、新田軍が攻めてきた時は、住民総出で戦ったんではないでしょうか。その亡骸が眠っているという伝承となります。

再び片平川に向かって下り、

今は階段になってますがここが古道です。雰囲気は残ってました。そして、先に見える山が、これから上る多摩郡と都筑郡の郡境尾根です。

1200年代開創の常念寺の脇、栗木坂を再び上ります。

常念寺

当時の空気感が残る栗木坂鎌倉街道

常念寺の沿革には、広袴小史の一節が紹介されていて、

"栗平駅より亀井谷戸を下り常念寺の前を通って広袴へ向かう道は、その昔鎌倉時代の悲劇の武将源義経がこの土地の有力な家来であった亀井六郎など従えて亀井坂を下り鎌倉へ上ったと伝えられる古道である。"

と、あり、常念寺から栗木坂で多摩郡と都筑郡の郡境尾根〜この道は鎌倉街道早道ですが〜へと上り、

上り詰めた所が峠の辻、鎌倉街道早道と栗木坂との辻ということになります。チャリは鎌倉街道早道の進行方向逆の府中方面を向いています。

鎌倉街道早道を鎌倉に向かい、鶴川第2小の手前で下っていく坂が亀井坂です。

亀井坂

この後、鎌倉街道早道は真光寺川沿いを行きますが、新田義貞 "元弘の乱" 道は、真光寺川と鶴見川の間の尾根を一跨ぎするのではないかというのが私論です。

尾根に上り詰めた後、向こうに見えてるのはこれから登る金井の山です。

金井から再び尾根に乗り、細尾根をやり過ごし、

細尾根の上り、いや、キツかった

多摩郡と都筑郡の郡境に上って南下し、ランドシティ玉川学園ロイヤルテラスの辺りで西に折れるとここは恩田川の2つの支流の間の尾根となります。

そこを南下し、昭和薬科大学、

杉並木に当時の雰囲気が残る

かしの木山自然公園をやり過ごすと、

かしの木山自然公園内には当時のままの鎌倉街道が

鞍掛の松公園に至ります。

鞍掛松公園

はい、名前から想像できると思いますが、ここは、元弘の乱の際、ここの松に義貞が鞍を掛けたという伝承がある場所です。

ここから先ははっきりしませんが恐らくは鎌倉街道上道へと接続し、鎌倉に向かったものと思います。

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帰りは来た道を戻りますが、金井(先程の細尾根)ではなく岡上を行き、鶴川に出たら、新田義貞 "元弘の乱" 道の台光寺ルートで帰路につきたいと思います。

台光寺は元弘の乱の際、義貞軍に焼かれています。

この辺が台光寺跡と思われます。お墓も残ってるし、平場もあって、確かに、ここにお寺があってもおかしくないですね。

台光寺から先は現代の津久井道ではなく麻生川右岸の山裾を行きます。こちらが古道です。

山裾の道、右手が現代の津久井道、かなり上を走ってるのが分かると思います。

ここ山裾の道の行き着く先は、


陣川橋です。小沢原の戦いで北条氏康軍が陣を張ったことに由来します。

今回はもう足が残っておらず行きませんでしたが、台光寺ルートは、この先、金程、多摩郡と橘樹郡の郡境尾根に向かって坂を上り、七国峠からゴルフ場を越えて稲城南山からやはり是政の渡しへのルートと、七国峠から菅北浦の子之神社に向かうルートがありますが、菅北浦の子之神社に向かうルートは、北条氏康も正にこのルートを通りました。

菅北浦の子之神社ですが、台光寺同様、義貞軍に焼かれています。

義経道で訪れています。その時の写真。

稲城南山の鎌倉街道、2020/12の撮影

義経、義貞、氏康に踏まれた道なんですね。

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如何でしたでしょうか。

亀井坂までは何度も訪れた道でしたが、その先は初で楽しめました。

基本的に尾根道で、曇でなければ丹沢山塊、富士山の眺望も良かったでしょう。

に、しても、アップダウンは激しかったです。

東京は基本全ての川は東京湾に向かって流れてますから、この辺、多摩丘陵で鎌倉街道、つまり、南北の道を行くと、谷、尾根、谷、尾根の繰り返しになりますから。

2022年6月4日土曜日

マイナー鎌倉街道シリーズ、義経道

このシリーズの前回は、悲劇の人、稲毛三郎重成道を行きました。

作延城、長尾砦、枡形城、菅寺尾城、小沢城を結ぶ、迅速測図では一本点線徒歩道の尾根道を行きました。

尾根道なので眺望が良く、しかし、アップダウンは激しくて、リエージュ~バストーニュ~リエージュかと思わせる、最後は全く足が残ってませんで、ちょっとした上りも直ぐ諦めて押しでした。

さて今回は、源九郎判官義経道です。

ここ川崎市多摩区、麻生区には、義経伝承が多く残ります。
  1. 1180年の頼朝挙兵を聞いた義経一行が鎌倉に馳せ参じた際の伝承
    1. 二枚橋
    2. 弁慶の鍋転がし
    3. 九郎明神社
  2. 1186年の義経一行が頼朝の追討から逃れる奥州への逃避行の際の伝承
    1. 高石神社
    2. 寿福寺
    3. 指月橋
    4. 子之神社
このように、1180年の奥州から鎌倉の頼朝の下に馳せ参じる際の伝承と、(つくづく真逆ですが)1186年の頼朝の追討からの奥州逃避行の伝承とに分かれていますので、想像力豊かに、ストーリー仕立てで、1180年ルートと1186年ルートに分けてルーティングしてみました。

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津久井道でまずは二枚橋を目指します。

二枚橋

治承4年(1180年), 頼朝旗揚げの声を聞いて、奥州の義経一行がかけつける際、ここを通りかかり、橋が粗末だったので、弁慶たちが馬も通れる橋に作り直したと。

その橋は丸太を並べた上に土を盛ってあり、横から見るとのし餅を二枚重ねたように見えるので二枚橋と名付けられた、という伝承です。

二枚橋で五反田川を渡った義経一行は、そのまま真直ぐに五反田川南の尾根に向かって上っていきます。

尾根に辿り着いたら五反田川の支流の源頭を掠めながら右折(西進), 王禅寺見晴公園の辺りには、弁慶の鍋ころがしの伝承が残ります。

大山方面はこの眺望

弁慶が乗馬のまま急な坂を越える際、馬が足を滑らせ、危うく落馬しかけたが、その時、鞍に繋いであった鍋の紐が切れ、崖下に落ちたと。しかし、鍋が落下したことでバランスが保たれたのか、落馬からは逃れられたという伝承です。

弁慶が鍋を転がした急な崖

確かに王禅寺見晴公園の南側は、半端じゃない急斜面です。

鍋を転がし落馬を逃れた弁慶始め義経一行は、弘法大師が植えたとされる樹齢数百年を超える黒松の名木があった、現在の弘法松公園、この公園内の尾根道が古道ですが、そこを通り、、、

ひっそりと残る古道

弘法松公園

大山方面はこの眺望

山口を通り、、、今はここに山口白山公園があり、この南縁の道は津久井道であり鎌倉街道でもありました。

鎌倉街道・津久井道沿いに移転された山口白山神社

下り切り麻生川の畔に出ます。麻生川を遡って古沢に伸びる麻生川の支流沿いを行くと、ここは、前九年の役で義経の祖先、源頼義・義家親子に仕えた横山党古沢氏の支配地です。ここで一夜を過ごし、一宿一飯の礼として脇差と鉄扇を収めたという伝承があります。

九郎明神社

手厚い歓待を受けたはずです。源頼義・義家の子、義経ですから。

いやぁ、前途洋々ですね。この後、どうなるか知ってるだけに、寂しくなりますが、、、。

一夜明け、義経一行は、道庄坂を越え、片平川を渡河し、鎌倉街道早道に乗って、鎌倉、そして黄瀬川に向かいました―――――

道庄坂

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1180年に頼朝挙兵を聞いて奥州から馳せ参じてから、木曽義仲討伐に向かう1183年までの3年間は、義経は、この辺をウロウロしていていたのではないか、と、言われています。

義経と言えば弁慶ですが、弁慶は熊野水軍の頭領、湛増の子です。

壇ノ浦の戦いで義経が勝った要因の一つが、この熊野水軍が味方したことでした。

また、衣川の戦いまで義経に付き従った忠臣中の忠臣として、鈴木三郎重家、亀井六郎重清の兄弟がいますが、この兄弟は、熊野三党の藤白鈴木氏です。そして、この兄弟はここ麻生郷の出身です。

これらからも分かる通り、義経と熊野の関係は深く、熊野勢が色濃いこの辺をウロウロしていたものと思われます。

―――――鎌倉から、鎌倉街道早道で、義経一行は、麻生郷にウロウロしに来ます。

岡上の小字天神谷戸には山伏が住んでいて、通称山伏谷戸と呼ばれていました。鎌倉時代に熊野から来た武士が修験活動をしていたと言われています。

山伏谷戸の風景

鎌倉街道早道が目の前を通る東光院には、川崎市のまちの樹50選に指定されているイトヒバがありますが、このイトヒバは、義経追討令が出た後、義経勢がこの地に隠れ住んだ時の、義経勢の隠し目印だったという伝承があります。

本堂

山門

イトヒバの巨木

本村橋で鶴見川を渡河し、鶴川街道に出ると、そこには熊野神蔵家の香山園があります。

ご覧のように工事中

鎌倉街道上道の野津田と鎌倉街道中道の川和とを結ぶ鎌倉街道連絡路で上麻生まで行き、常安寺から舌状台地の尾根に向かって上っていきます。

上り切った後、東に行くと、亀井六郎重清の館跡と目される月読神社があります。

月読神社

尾根道に戻って、

この尾根道は義経、亀井六郎重清が通っていた頃のままか

柿生郷土史料館、柿生中学校の辺りは、今は切通されていますが、ここに、鈴木稲荷があります。はい、鈴木三郎重家の鈴木家のお稲荷さんです。屋敷神でしょうか。

残念ながら移設したとのこと、よって参道階段のみ

熊野ですから熊野神社も営んでいました。旧地は、柿生駅前の東和サープラスですが、今は月読神社に合祀されています。

鈴木家の熊野神社

鈴木三郎重家、亀井六郎重清を始めとした熊野勢との交流の為、鎌倉街道早道を使い鎌倉からこの地を訪ね、ウロウロして、平家討伐の策を練っていたんだと想像します。

ー・-・ー・-・ー・-

1184年に木曽義仲を討ち、1185年にはとうとう平家を滅ぼしますが、同年、義経は、兄頼朝の要請で後白河法皇から追討令を出されてしまい、朝敵となって逃亡生活となります。

京都を出て、九州に向かいますが暴風で難破し摂津に押し戻され、吉野に潜伏しますがここでも静御前が捕まったりして落ち着かず、その後、京都周辺に潜伏しますが、最終的には伊勢、美濃を経て奥州に落ちていきます。

わざわざ頼朝のいる鎌倉の近くを通っていくとも思えませんが、冒頭のように、義経奥州逃避行の伝承も、この地には多く残ります。

―――――義経一行は、イトヒバを目印に、忠臣中の忠臣の熊野勢の力を借りて、ここ麻生郷に潜伏します。

いよいよ奥州への逃避行という時、高石神社に寄ります。にしても津久井道から高石神社までの上りはキツイ。

もちろん乗車は無理で押しですがそれでもほうほうの体でようやく高石神社

ここで厄払いの神事を行いました。


しかしここ高石神社の縁起は無茶苦茶です。。。

"昔、義経が兄の頼朝の命により奥州征伐へ行く折、様々な困難に遭遇することを憂い、高石地内鳥沢に源氏の氏神を祀る八幡神社があると聞いてやってきて厄払の神事を行った。厄を焼き払ったことで、奥州衣川に於いて阿部貞任・宗任を討ち果たし無事鎌倉に帰着 したというもので、以降厄払いの神事が霊験あらたかであることが武蔵・相模のほか 関八州に広く伝わったという。"

義経は兄頼朝の命で奥州に行ったのではありませんね。頼朝の追討から逃れる為、奥州に行ったのです。

また、阿部氏を成敗したのは義経の先祖である頼義・義家親子です。

ということで色々な伝承が混ざり合ってますが、義経の奥州逃避行の伝承と解釈出来ないこともないので一応、訪問しておきました。

さて、厄払いした義経一行は、鎌倉時代創建と言われる細山神明社を通り過ぎ、寿福寺に向かいます。

途中にはこんな古道も残ってました。

寿福寺、北条の三つ鱗がそこかしこに。何故?

ここは義経縁としてもスゴイですが、寺としてもスゴイ歴史を持ってます。

まず、江戸名所図会によれば、推古天皇6年ですから598年にあの聖徳太子による開基といわれています。

所謂仏教伝来が532年、あるいは552年などと言われていますから、その数十年後です。法隆寺の607年よりも早い。日本最古の寺と言われる飛鳥寺でようやく6世紀末だから同時期ということになります。

ここまで来ると逆に疑わしいですが、でも、古寺である可能性は低くないと思います。

というのは、前回ご紹介した菅寺尾廃寺の存在です。この寺が8世紀中葉で、寿福寺の二尾根東という近さなんです。

この地に、大変古くから、仏教が入り込んでいたのは間違い無いでしょう。

話を義経に戻しますと、まず、そもそも、天喜4年(1056年), 源頼義・義家親子が奥州征伐の往路、ここ寿福寺で勝利を祈願し、康平7年(1063年), 凱旋のおり、戦勝の御礼に大般若経を納めたという伝承があります。その際に、元あった天神社に八幡神を祀ったといい、その八幡神社は宅地開発で、寿福寺の裏山に移転しています。

時は流れて文治2年(1186年), 奥州に逃れる義経一行が、先祖頼義・義家親子が収めた大般若経を4巻、写しました。その他、鐙、袈裟が残され、弁慶の隠れ穴、弁慶渡らずの橋、弁慶の足跡石も残っているとのことでしたが見つけられませんでした。

寿福寺を後にした義経一行は、三沢川に架かる指月橋を通りかかります。

指月橋

橋が朽ちていたので、義経は下馬し、この時、ふと、夜空を見上げると満月が輝いていて、思わず指を指しました。

義経、何を思ったでしょうね。長年思い慕っていた兄頼朝の為、平家を滅ぼしたのに、その兄に殺されようとしているわけですから。

義経一行は指月橋を渡った後、崖沿いに南へと行き、菅北浦の子之神社に寄りました。

菅北浦の子之神社

ここは保元の乱で、上皇方源為朝(義朝の兄弟)が、天皇方源義朝に向けて放った鏃が、義朝から子義経に受け継がれ、義経がここに奉納した、という伝承があります。

父義朝から受け継がれた鏃をここに置いていくなんて、源氏に別れを告げた、という感じがしないでもないですね。

この後、義経一行は、矢野口の渡しで多摩川を渡河し、奥州へと向かっていったのでした―――――

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如何でしたでしょうか

この辺りの義経伝承が、奥州から鎌倉の兄頼朝の下へ馳せ参じる時の意気揚々とした伝承と、その真逆に、兄頼朝の義経追討からの逃避行の伝承とに、偶然にも、きれいに分かれていたので、そこに着目して、ストーリー仕立てでルーティング、そして記事作りをしてみました。

それにしても悲しいですな。そりゃ、判官贔屓という言葉も生まれますわ。