2017年5月15日月曜日

武田信玄小田原攻め、ニノ手ルート

甲陽軍鑑によると、武田軍は、

”先衆が当麻、ニノ手は磯部、信玄旗本は新道(新戸), 跡備は座間で相模川を渡河した。”

と、ある。

信玄旗本、跡備は鎌倉街道山ノ道、現代の町田街道を東へ大回りするルートを取った。これは前回ご紹介した。

先衆とニノ手は御殿峠をそのまま南下するルートを取った。

今回は、その内、”ニノ手ルート”を行く。


二ノ手ルートは青線、途中から緑線。バリエーションルートとして緑線と並行に走る赤線。

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京王線橋本まで輪行。橋本から少し御殿峠方面に戻って訪れたのは香福寺。信玄が通った頃には既にここにあったお寺だ。信玄も見たか。

香福寺、1411年に没した蔵海性珍が開山

小田原方向に折り返し寄ったのは橋本神明大神宮。1569年創建だからちょうど、信玄がここを通った時だ。

地図では大鷲神社と表記されることもあるがそれは昭和46年に勧請したもので、元はお伊勢の森と言われていた神明社。

橋本駅を過ぎ、棒杭も過ぎて、R129に合流する。今見るととてもそう思えないが、この道が信玄軍が通った古道だ。

作ノ口で左折、上溝に向かうのが信玄進軍の道。やがて、因縁浅からぬ宝光寺に着く。

1532~54年間に、八王子滝山城主・大石定久が出家し真月斎道俊と称し、現在地から東北東の本郷横山下という場所に娘の向西尼とともに庵を結んだのが起こり。

大石定久と言えば氏照が養子に入った武蔵の大豪族。八王子から正にこのルート沿いにここまで領地だったわけだ。更に、前回の座間の辺りも油井領で大石氏の領地だったから、相当に広い地域を治めていたということだ。

が、北条が勢力を付けると、氏照に家督を譲り、出家してこの寺を起こしたというわけだ。その寺の前を信玄が進軍した。

宝光寺

道はちとせ橋で鳩川を渡って、と、行くのだが、そうするとこの辺りの史跡に行くのに不便。そこで古地図を調べると宝光寺、亀ヶ池八幡、和田坂、馬坂、安楽寺を繋ぐ古道があった。明治13年時点では緑線の方が明らかに大きな道だが、これら史跡を繋ぐこちらの道も、確実にその時代まで遡れる古道である。

亀ヶ池八幡宮、和田義盛が八幡宮の北に位置する横山城に向かう折り、武運長久必勝を祈願したという言い伝えがある。
和田義盛が通った和田坂、チャリの脇にある大榎の古株は和田義盛が植えたもの。
和田義盛が架けた藤橋
馬坂、GoogleMapsでは消えていたが航空写真ではありそうだった。電子国土でもあったので行ってみたらこの通り。幅一間の中世のままの道が残ってました。1524年、武田信虎の小田原攻めの際、この辺りの農兵が軍に加えさせて欲しいと馬でさえ登ることが困難なこの急坂を駆け上がっていったという。
安楽寺、この辺りは大石氏の寺が多く曹洞宗が多いのだがここは真言宗。南北朝中期の正平22年(1367年)開基。大石氏がこの辺りで頭角を現してきたのは1356年に入間・多摩両郡内に十三郷を与えられ武蔵国目代職に補任されたという記録辺りからだから、この寺は、”大石氏前”ということだからか。
天応院、大石定久により1495年に開山
もう一方のバリエーションルートと合流後すぐに残る長屋門、勿論信玄の時代ではないが
下溝八幡、溝郷が天文(1532~55)年間に上溝と下溝の両村に分かれた際に、旧下溝村の鎮守として上溝村の亀ヶ池八幡宮から分霊を受けて建立されたとされている。

道はやがて本道(緑線)と合流し、磯部八幡に至る。ここも1356年には創建されていたといわれ、信玄も見たはずだ。

磯部八幡

この磯部八幡から磯部の渡河地点に至る。二ノ手部隊が渡河したといわれる地点だ。

二ノ手渡河地点
これで信玄軍二ノ手ルートは終わりだが、最後に、前回ご紹介できなかった信玄旗本渡河地点の新戸を。



2017年5月13日土曜日

上海の歴史、嘉定県城

嘉定は、秦の時代は会稽郡婁県に属し、隋・唐の時代は蘇州昆山県に属した(昆山も古いんですね。)。1218年(嘉定10年)平江府昆山県東部が分割されることとなり、元号を取って嘉定県となった。嘉定の始まりです。

上海中心部から地下鉄で行ける水郷古鎮の1つということで、行ってきました。



地図を見てお分かりの通り、嘉定県城は当時のお堀がまだ残っています。

また、若干斜めですが、東西南北に水路が走り、その交差点が水市(港)として発展しました。そこに1205~1207年に法華等が建立され、その北に県治が、南には学営が、東には城隍廟が設置され、県城が形成されていきました。

地下鉄を嘉定西駅で降り、mobikeをgetしてまずは西門へGo!!!
西門に向かう途中は西大街。実はここが主目的地でした。ここは当時の姿が最も良く残るエリアだからです。

西大街に西からアプローチして直ぐの風景、石畳や明清民国時代の家が残っている。

この橋は老朽化により渡れなくなっている。恐らく明時代。

西大街の、西門を出て直ぐの辺りは、やはり水路が十字していてコメの集積地点であり、更に、北に行くと1,500年の歴史を持つ護国寺もあって、城内を凌ぐ盛況振りだったと言われています。

護国寺、1,500年の歴史を持つ。
確かにこの辺りは商店が建ち並び、往時の面影を感じられる。

お堀は残っているが水門と城壁は西と南にしか残っていない。

恐らく上半分は再構築だが辛うじて残っている西水門
蔦に覆われ見つけにくい城壁。結構残っているが放置されている状態か。もったいない。
南水門
南城壁

天子南面す

の通り、中国の城は南面してます。だから南からのアプローチが正解。そして大抵はまず学営、つまり孔子廟があります。

天気も良くて清潔で非常に良かったです。

南大街で中心部に向かいます。

法華等と徳富橋、法華等は1205~1207年建立、徳富橋も明かな。
登龍橋から東方向の水郷古鎮の典型的風景

県治はもう残ってません。最後に城隍廟です。


実は法華等のある中心部だけなんですね、水郷古鎮らしいところは。でも城隍廟や孔子廟は非常に清潔だし人もさほど多くなく快適でした。西大街は往時の面影が残っていて、全体としてお勧めです。

以上です。

2017年5月6日土曜日

上海の歴史、新場古鎮

新場古鎮が形成されたのは宋の時代の1128年頃とされている。この辺りは製塩が盛んな地域で、塩田がたくさんあった。新しく塩田を開いた土地、、、ということで”新場”と名付けられたらしい。

すっかり観光地化されているものの、今も石畳の道は往時のままだし、何と言ってもここはまだ生活の場で、そこがそそられるところである。

江南古鎮の典型的風景、新場大街が川に架かる洪福橋

新場大街は南に行くに従い観光地から生活の場へ


茶を干す

行きかう人々を生活の場から眺める住民

野菜売り、近郊の農家だろう。これは違うが空豆がたくさん売られていた。旬だから。

ちまきその一

ちまきその二

良い所でした。

2017年5月2日火曜日

上海の歴史、法華鎮路

上海古地図、1800年代(租界前)

この古地図は上海の古地図で、年代的には租界前と思われます。

良く目を凝らしていただくと、横方向真中縦方向上に、丸の中に”上海縣城”という文字が確認できます。円状の堀と城壁に囲まれたここが正に上海県城で、堀は今は埋め立てられ、人民路と中華路になってます。城壁もほんの一部しか残ってません。この辺りのことは以前ご紹介したように思います。

で、その県城の丸の真ん中辺り、9時の所から西へ筋が伸びていると思いますがこれは川です。同じように、その川より少し北に、同様に西へ川が伸びてますがこれは蘇州河です。

蘇州河を黄浦から目で西へ追っていくと、”静安寺”の文字が確認できます。そのまま左へ続くと、”法華寺”の文字が確認できると思います。

今日ご紹介するのは、この法華寺です。

970年ですから宋の時代に開山されました。興廃を繰り返したものの、明代中頃には参拝客が集まるようになり、すると参拝客目当ての商売人が集まり、繁華街が形成されました。清の時代には、県城西の大鎮として繁栄の頂点に達したとのことです。

今でも、”法華鎮路”としてその名を残しています。

道は延安路から淮海路に続いています。
延安路の接続点には1669年創業の薬屋さんがありました。

1669年開業の薬屋さん、同仁堂

法華寺があった地点にはこのようなモニュメントもありました。

モニュメント1
モニュメント2、上の遺跡説明に、”浜”とありますが、中国語で”浜”とは川のこと。今は埋め立てられた川を再現しようとしています。

今やメインストリートを西隣の新華路に譲った感がありますが、まぁ良いじゃないですか。

新華路、それにしてもこの季節のフランス租界は美しい

以上です。