砂川村を含む多摩地区の養蚕農家では、毎年、小正月に米粉で餅を作り繭玉の形にして樫の木の枝に刺し床の間に飾ったそうだ。餅は翌日に取り外して食べる。
繭玉飾りと同じく小正月に行われるどんど焼き。長い竹串の先に団子を刺して、どんど焼きの炎で焼いて食べる。
繭玉飾りは無くなったが、どんど焼きに繭玉飾りの風習が残っているわけだ。
ここ北町神明社では、どんど焼きが行われる。
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現代の若葉町の辺りから砂川村が始まる。ここら辺りは十番(組)だ。
砂川村は、五日市街道沿いに出来た村で、西から一番、二番・・・十番まで、組が構成されていた。ここは東の端なので十番である。
迅速測図で砂川村を見ると、この頃(1880~1886)既に桑畑が確認出来る。砂川村一帯が桑畑である。
迅速測図における砂川村、横に走る黒線が五日市街道、その少し上に横幅ほぼいっぱいに、"砂川村" の文字が確認できる。五日市街道沿いは、比較的やや濃い茶色の桑畑、"桑" の文字が確認できる。 |
砂川村では享保年間(1716~1736)には既に養蚕が始まっていたそうだ。
養蚕農家が自分の家用やごく近所に売る為に、くず繭やくず糸を使って、"砂川太織り" が織られていた。
江戸末期から明治時代になると、2匹の蚕から生み出される繭から作った丈夫な玉繭を使った砂川太織りは評判となり商品化されたそうだ。
そうなると道具も改良され益々盛んになり、明治22年(1889)に砂川村で行なった調査によれば、実に、村内の農家の85%にあたる500戸で機織が行なわれていたということだ。
大正8年(1919)には、村山で発達していた村山絣(綿織物)と合体して村山大島紬という絹織物が出来た。
砂川村は元々村山の村野三右衛門が慶長14年(1609)に、新田開発を幕府へ願い出、出来た村だから、村山は親村のようなもの。交流は勿論あっただろう。
その村山はここにも書いたように、渡来人の住むエリアであった。渡来人により、奈良時代から織物が発達していたのだ。
ここでようやく腹に落ちた。
何故、多摩地区で養蚕が盛んになったのか。
迅速測図で、狛江辺りから桑畑が見られるようになり、府中を過ぎた辺りからそれが多くなるのかが。
渡来人だったのだ。迅速測図の時代から桑畑が見られるのは渡来人の影響が強いエリアだった。
ここにも渡来人か!!!!!!
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小川道との辻に来たら小川道に入り、追分には馬頭観音がある。
以前も言ったように、養蚕の神様は馬と縁がある。
だから馬頭観音に習合していった。
この嘉永元年ならもうとっくに養蚕が始まっていた。馬頭観音も養蚕守護として祈りの対象だったに違いない。
この追分を左に行くのも古道で迅速測図では徒歩道。暫く行くと砂川村八番組組頭だった須崎家の蔵が移築され残っている。
養蚕業の発展とともに桑苗の特産地でもあった砂川村の盛んな商業活動を象徴する建物だそうだ。
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登録有形文化財にもなっている中野家住宅である。
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本日のハイライト、阿豆佐味天神社と境内社の蚕影神社だ。
阿豆佐味天神社、砂川村鎮守。既述のように、村山の村野家が、慶長14年(1609), 幕府から新田開発の許可を得て、寛永4年(1627)頃から開発が始まったが、その際、精神的支柱として、寛永6年(1629), 村山郷一帯の鎮守である延喜式内社阿豆佐味天神社を勧請したのが始り。 |
境内には、
と、蚕影神社が鎮座。明治に入ってからではなく、1860年には既に養蚕が大きな盛り上がりを見せていたことが伺える。
1860年と言えば、横浜開港の翌々年で、初めて生糸が横浜で外国に売れた1859年の翌年。
その後、迅速測図時代(1880~1886)には桑畑ではなかったエリアでも養蚕が始まるが、最初は、ここ砂川を始めとした多摩地区、迅速測図でも桑畑が確認できるエリアが主だったと考えられる。
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如何でしたでしょうか。
これまで色んなテーマでexploreしてきました。
今回は養蚕の痕跡を探るexploreなわけですが、養蚕は江戸末期から戦前までなんですね、時代的には。
だから渡来人が登場するなんて思いもよりませんでした。
記事中にも書きましたが、に、しても、武蔵国は渡来人の国と言っても過言ではないですね。
歴史を知ると、啀み合ってるのがバカらしくなりますね。痴話喧嘩、兄弟喧嘩ですよ。