2022年4月2日土曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る、その3, 荒波多氏、久米氏

前々回は貫主村山氏、宮寺氏、山口氏と巡り、前回は金子氏を巡りました。

今回は、荒波多氏と久米氏です。

【荒波多氏】
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー山口二郎季継ー山口太郎季信ー荒波多三郎(某)

【久米氏】
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー山口六郎家俊ー山口小七郎家高ー久米左近将監家時

共に、山口氏からの派生ですね。

支配地は下記GoogleMapsの通りで、黄色が荒波多氏、緑が久米氏の痕跡です。


同族中の同族となる山口氏との行き来はどのようなルートを通ったのでしょうか。

恐らく西武池袋線下山口駅からほぼ真東へセブンイレブン所沢久米店へと抜ける道、これがメインストリートだったのではないでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムから。一番左の青鳥居マークが山口氷川神社、その隣が山口城址、その後、二股に分かれる所がちょうど下山口駅で、二股の南の方の道はほぼ真東ですね。これがメインストリートなのではないか、と思ってます。

このルートをベースに、exploreしたいと思います。

◇■□◆

いつものように、多摩湖自転車歩行者道で多摩湖へ。

いつもの馬の背は桜が満開

堤道を通り公園を抜け、ファミマの丁字路を過ぎて直ぐ北東に降る道がありますがこれも迅速測図では一本点線徒歩道の古道。これを行きます。

画面左下、ファミリーマートの、"マート" が見えてます。ここから右上(北東)に向かう道は歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図で一本点線の徒歩道古道で、池(十字マーク)を経由して進んでいきます。

ゴルフ場脇を荒幡富士に向かいます。この道も一本点線徒歩道の古道です。ここに浅間神社があります。

浅間神社と荒幡富士

荒幡富士山頂からホンモノの富士山の眺望(写真を選択しピンチアウトでズームしてご確認下さい。)

ここにある浅間神社は、元は村内の違う場所に在ったものを、明治14年にここに還座したものです。

また、富士の筑山ですが、これもやはり浅間神社の旧地に在ったものを、浅間神社を還座した3年後の明治17年に移築作業を始め、明治37年にようやく完了したものです。

尚、因みにこの場所には元々松尾神社がありました。

浅間神社は一旦はここで

ここからまた折り返すように北上すると、、、

茶畑と山躑躅、にしても山躑躅の紫はホントにキレイです。

先程の浅間神社の旧地、そして、本覚院があります。

歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図によれば浅間神社は本覚院の直ぐ南にありました。直ぐ西の南北に走る一本実線荷車道から参道が分岐しているのが見えます。現代地図を見てもちょうど同じ位置に道がありますから、ここ(十字マーク)が浅間神社の旧地と思われます。ここに荒幡富士もあったんですね。

浅間神社の旧地は跡形も無し

本覚院

この浅間神社と本覚院がある北に向いた尾根突端は、埼玉の神社によれば、村山党荒波多氏居館跡とのことです。

だから、荒幡富士と浅間神社を訪れた、と、こういうわけでした。

荒波多氏は冒頭の通り、山口七郎家継の三代後ですが、久米氏系図にある、山口七郎家継の子、山口六郎家俊は保元の乱に参戦しています。保元の乱は1056年ですから、その二代後の荒波多氏初代三郎某は概ね1100〜1150年頃の人と思われます。

本覚院は1380年の開創ですので、まだ荒波多氏がこの地に存続していれば守護寺として、滅亡していたら城跡に開かれたということになりますね。

荒波多氏の痕跡はこのくらいです。

先を行きましょう。。。

鳩峯八幡神社に向かう道は迅速測図で村道クラスの大道。幅一間の道は当時のままか。

真中に配置した鳥居が鳩峰八幡です。西からそこに至る道、黒線が重なってるのは片実線・片点線の村道です。

掘割も残る

鳩峯八幡神社です。

鳩峯八幡神社

振り返ると参道はこの美しさ

埼玉の神社によれば、

"往古、三体の神像があったものを当地の郷士久米六右衛門が児玉郡八幡山村へ転居の際、本社棟札と神体一体とを彼の地へ移したという。この六右衛門は久米の地名ともなった久米但馬守の末孫で、この時は文永年度(1264〜1275)以前と考えられている。"

ということで、村山党久米氏の痕跡と言えるのではないでしょうか。

この神社、神社としても歴史深く、921年、石清水八幡宮を勧請と古社中の古社で、1333年の元弘の乱では、新田義貞が先勝祈願し、兜を掛けた松、鐙を置いた所に祀った稲荷があります。

新田義貞兜掛け松

別当が直ぐ南の仏眼寺で明治の神仏分離までは一体を成していました。

仏眼寺

先程の推論からすると、この寺社は、初代荒波多氏よりも古くからあるということになります。

先を行きます。柳瀬川も渡河し、、、

東山道武蔵路、その後は鎌倉街道上道となった南北の道と東西のこの道とが交差する地点には、舗装はされているものの幅一間の古道が奇跡的に残っています。東西の道は鎌倉街道羽根倉道で、鎌倉街道上道と中道とを連絡する道です。

そこには実にひっそりと馬頭観音が。ここに見える道は東山道武蔵路・鎌倉街道上道。

西武新宿線も渡って日月神社と北秋津城址です。

日月神社

桜がキレイでした

日月神社には、"とんぼのやどり木" という昔話があり、内容は、ここにある城の殿様がたいそう我儘で、無理難題を命令するので家臣が困り果てていたが、日月大明神によって最終的に無理難題を言わなくなったというもので、この城が北秋津城です。

北秋津城遠景、奥のこんもりとした森が城址

この城は、村山党久米氏の城という説と、武蔵守護代大石氏の城という説の両方があるようですが、

"ふるさと久米 今と昔", 平塚義角著によれば、"武蔵国入東郡久米郷旧跡誌" の項に、

"当所を久米と称するは古しへ久米但馬守住・・・・(居せしが)故に久米郷と唱ふ其邸き地・・(鳩ヶ) 峰より寅の方に当りて・・(但馬) 守の旧跡あり今 -(中略)- 領地あたり後久米郷吾妻庄唱ふ 久米記"

の記載があって、鳩ヶ峰神社の寅の方向(東北東)と言えば正にここ北秋津城となるわけです。

◇■□◆

如何でしたでしょうか。

武蔵七党はご存知の方も少なくないでしょう。村山党も百歩譲ってご存知の方もいらっしゃいますね。

が、荒波多氏、久米氏となると、殆どの方はご存知ないんじゃないでしょうか。私もそうでした。

世間の関心の低さを反映してか、ネット上にもあまり情報がありませんでした。が、何とか、形に出来ました。

所で先日狭山丘陵の古社を巡った時、旧岸村ですから村山党村山氏の支配地で、この碑を偶然発見しました。

荒畑繁蔵君の碑

これも、荒波多氏が村山党の一族である証左なのではないでしょうか。

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