2022年4月24日日曜日

綴(綴喜、都筑)党、その1, 石川牧

武蔵七党の構成は実は諸説あって、

西党、横山党、村山党、丹党、猪俣党、私市党、児玉党

をベースとし、武蔵七党系図では私市党の代わりに野与党が、貞丈雑記には村山党の代わりに綴(綴喜、都筑)党が、記載されています。

今回は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡をexploreします。

大倉精神文化研究所では、催し物、"武士団「綴(都筑)党」を追う-中世の多摩丘陵に生きた武士たち-" 紹介文で、(ー以下引用ー)

"その「武蔵七党」のひとつに綴(都筑)党があります。綴(都筑)党の実態は不明ですが、港北を含む旧都筑郡域を地盤とした武士団であったことは間違いありません。丘陵地帯に属する都筑郡には平安時代、朝廷に馬を献上する石川牧・立野牧がありましたが、この牧の存在が武士団発生の一因ともなりました。"

と、綴(綴喜、都筑)党と石川牧、立野牧の関連性を指摘しています。

また、綴(綴喜、都筑)党は、武蔵七党系図に記載が無く、これまで取り上げてきた西党、横山党、村山党のようなアプローチが出来ません。

そこでまずは石川牧から切り込んでみたいと思います。

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往路は鎌倉街道中道登戸ルートで向かいます。

専修大学手前の激坂と馬頭観音

長沢の浄水場を過ぎたら三叉になります。左はゴルフ場沿いの古道、真ん中は新道、右が鎌倉街道ですが、ここは写真撮りませんでしたが今は階段ですね。当時は相当な傾斜だったものと思われます。

真中に件の階段古道を配置、等高線を見れば階段も頷けますが、今昔マップで時代を追っていくと振動が出来たのは戦後ですね。それまでこの急斜面を通ったなんて。

長沢の丁字路、平瀬川を過ぎ、軽い上りのピークには菅生神社がありました。

八重桜散る菅生神社

神奈川県神社誌によれば、創立は天福元年(1233)で、同郡平村白旗八幡大神からの御分霊を奉斎したといわれています。

菅生神社の前の道が鎌倉街道である証拠と言えるでしょう。

さて、こんな素敵な古道なんかも通りながら、

菅生清水公園付近にひっそりと残る古道

繰り返されるup and downを何とかクリアしながら、鶴見川と多摩川の分水嶺に到着です。

ここの分水嶺尾根道を右に折れ、保木薬師堂に向かいます。

この道は非常に重要な道で、鶴見川と多摩川の分水嶺であり、たがら、橘樹郡と都筑郡の郡境で、郡成立、つまり、律令の時代に既にあった道ということになります。チャリの向こうが都筑郡、撮影している私の背中側が橘樹郡です。

保木薬師堂

"柿生文化 第12号" によれば、ここは石川牧の経営者石川六郎の居館跡とのことです。

また、同じく、"柿生文化 第66号" では、ここの御本尊、薬師如来像は、承久3年(1221), 石川六郎の一族が建立したものとのことです。

早速、石川牧の経営者です。小野牧から横山党が出たように、由比牧、小川牧から西党が出たように、石川牧、立野牧からは綴(綴喜、都筑)党が出て、石川牧の方は石川氏が経営していた、ということです。これ当然、石川氏は綴(綴喜、都筑)党ということになりますね。

分水嶺尾根道から鎌倉街道中道に復帰して、折角登ったのに早渕川まで降ります。

早渕川の渕上橋の少し先にあるのが驚神社です。

驚神社

境内掲示によれば、

"創立年代詳かならざるも、往古より延喜式所載の武蔵國石川牧の総鎮守なりしと云ふ。其の当時、石川牧の地域は頗る広汎にして旧都筑郡内は旧山内村石川・同荏田・旧中川村大棚・同茅ヶ崎・同中里村黒須田・同大場・同鉄・同麻生・同鴨志田・同早野・同王禅寺、橘樹郡内は旧向丘村菅生・宮前村土橋・同有馬・同馬絹・同野川・同梶ヶ谷等の大字に亘れるものの如し。依って昭和14年、横浜市に合併当時まで、此の石川に秣場と称する馬料共有地五十餘町歩を遺せる。又、社前は旧鎌倉街道に当たり源頼朝の臣畠山重忠篤く崇敬せりと云へり。 (中略) 当神社の名称は、右の如く馬を大切にする意から、馬を敬う即ち「驚」がついたものと伝ふ。"

と、いうことで、石川牧の経営者石川六郎の居館跡に続き、石川牧の総鎮守です。これ当然、管理者は石川氏ということになりますね。

石川牧は当初令制牧でした。令制牧とは、700年頃成立した厩牧令に基づく牧のことで、全国の牧は兵部省兵馬司が管理し、実際現場では、国司のもとで牧長ら牧官が経営していました。

やがて令制牧は官牧、勅旨牧、近都牧の3つに分かれました。石川牧は、9世紀に、西党が管理した小川牧、由比牧と共に勅旨牧となっています。

ですので石川牧は早ければ700年代、遅くとも800年代には既にここにあった、ということになりますね。

その総鎮守ですから、驚神社も相当な古社だということになります。

また、石川牧の範囲ですが、東は第三京浜、西は新百合、北は生田緑地、南は横浜市歴史博物館までの広大なエリアです。茶線の都筑郡と橘樹郡の郡境も越えてますね。



さて、ここは牧跡らしく、近世の競馬場の伝承も残っています。

"都筑の民族" によれば、荏田高校の上から北へ五叉路までの凡そ300mで、秋の収穫期が終わると、農耕馬で競馬を行ったそうです。明治後半には終わったそう。

この直線です。

これは、横山党の小野牧でも全く同じ話がありましたね。

小野牧にある競馬場跡の碑

ここまでまとめますと、石川牧を経営していたのは石川氏だったということになりそうで、冒頭のように石川氏は綴(綴喜、都筑)党の一族のようですから、驚神社、競馬場跡は、綴(綴喜、都筑)党の痕跡と言えると思います。
石川六郎は、吾妻鑑の、建久元年(1190), 11/7の頼朝上洛の記事で登場しています。頼朝の先陣随兵として、隊列の十二番に、都筑三郎、小村三郎と並んで石河六郎が記載されています。

上記、"柿生文化" の記事と時代が合いますね。

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さて、吾妻鑑で石川六郎は先陣十二番でしたが、後陣四十五番に江田小太郎がいます。

一方、驚神社から鎌倉街道中道を南下すると荏田城があります。

荏田城

この荏田城、諸説ありますが、綴(綴喜、都筑)党の荏田氏の居城という説もあります。

荏田城主荏田氏は、吾妻鑑に登場する、江田小太郎と思われます。

1343年の山内首藤通綱・通範の寄進状に、"武蔵国荏田郷内堀内赤田之田畠" という記述があって、"赤田" というのは、"赤田東公園" や、"赤田西公園" に残っている通り、この辺りの地名であり、その赤田の堀内と書かれていることから、1343年時点で既に荏田城があったと考えられています。

驚神社と荏田城の間、驚神社よりにある観福寺近くの山は、風土記で敵見塚として書かれており、鎌倉街道を東西両側から押さえる東側の砦と考えられています。

敵見塚

観福寺

石川牧の中心地、驚神社、荏田城があるエリアは、都筑郡衙がある都筑郡の中心地でもあります。

都筑郡衙跡

また、県重文で平安時代末期の作となる本尊の木造千手観音立像、国重文で鎌倉時代の作となる客仏の木造釈迦如来立像がある真福寺が、鎌倉街道中道沿いにあります。

真福寺

今真福寺が立つ場所は嘗て観音堂があった所で、上記県重文の本尊はその観音堂の本尊でした。

真福寺は今の場所から北へ3.4kmの所にあったそうですが、鎌倉期には今の場所の近く、今、宿自治会館がある場所に、釈迦堂と共に移っていたようです。

宿自治会館、写真にも写っている道を挟んだ向こう側はお墓で、真福寺がここにあった時の墓地ではないでしょうか。

上記国重文はその釈迦堂にあったもので、清涼寺式釈迦とよばれる形式の仏像です。

釈迦堂公園、敵見塚の近くにあります!今日往路に使った鎌倉街道中道登戸ルートのこの辺りの呼び名は釈迦道、この公園の直ぐ西を通ります。地形的にもここはお城で言えば殿ケ谷形式に適した地形で、ここに釈迦堂があったのではないでしょうか。

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如何でしたでしょうか。

武蔵七党系図に記載が無くexplore困難かと思われましたが、何とかなりました。

何度もexploreしてるところですが、新たな視点で楽しめましたし。

にしても、ここは牧になるだけあってup and downが激しい。最近になって改めて覚え直したダンシングをフル活用して何とか押しをしないでいましたが、鷺沼駅ての上りは足が残ってませんでした。

次回は立野牧をexploreします。

2022年4月12日火曜日

歌川広重 名所江戸百景、第41景 市ヶ谷八幡

3回目の職域接種は市ヶ谷でした。

市ヶ谷は私が担当するお客様もいらっしゃるので、よく来ますが、来る度に、歌川広重の名所江戸百景、第41景の、市ヶ谷八幡の構図で写真を撮ります。

これは2013/6撮影

が、いつもはこの構図の撮影のみで、忙しく、お客様の事務所に向かっていました。

今回はワクチン接種後、帰宅するのみです。天気も良いので、周りを散策してみましょう。

ショートマイクロツーリズムでしたが、それなりに楽しめました。

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まずは改めて場所ですが、ここになります。

江戸切絵図とグーグルマップによる、歌川広重、市ヶ谷八幡スケッチ地

JR市ヶ谷駅を降りると江戸城外堀に架かる橋があります。

この橋は江戸城外堀に架かる土橋をそのまま流用している橋です。江戸城の遺構ということになりますね。

かろうじて残る桜越しの江戸城外堀土橋

その橋上から、広重はスケッチしたんですね。

1858年と2022年の名所江戸百景、市ヶ谷八幡

この構図からは残念ながらビルによって見えませんが、市ヶ谷八幡は今もまだ同じ場所にあります。

市ヶ谷八幡

何故ここが名所なのか、ですが、タイトルの通りまずはこの市ヶ谷八幡ですね。

1479年に、扇谷上杉定正家臣、太田道灌が、江戸城の西の守護神として、鎌倉の鶴岡八幡宮を分祀しました。

鶴岡八幡宮に対して、亀ヶ岡八幡と称して、鶴に亀と縁起が良い、ということのようです。

元はもう少し東にあったようですが、外堀が出来て以降、外堀の外側である今の場所に移転しました。

人口爆発する江戸、木造住宅密集市街地が故の大火もあって、次第に、外へ外へと移転も始まります。

明暦の大火後、ここには、尾張藩が引っ越してきました。

広大な尾張藩上屋敷

この広さですから、人数もいっぱいいます。男ばっかり。

そりゃあもう、盛り場が出来ますね。

はい、市ヶ谷八幡を、広重が名所としたのは、盛り場として名所だったから、と、こういうことなのではないでしょうか。

加えて、弘法大師が開いたとの伝承が残る茶の木稲荷神社の存在も大きいと思います。平安期の古社ということもありますし、眼病平癒の霊験あらたかで有名でした。

尾張藩上屋敷正門跡は、今は、市ヶ谷会館の正門

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市ヶ谷八幡は、広重が選んだ名所江戸百景の一つで、何故、ここを名所としたのかについては、市ヶ谷八幡そのものの存在と、尾張藩上屋敷引っ越しに伴う盛り場化、加えて眼病平癒の霊験あらたか茶の木稲荷神社だとしました。

さて、尾張藩上屋敷のその後、ですが、尾張藩に限らず、大名屋敷は、明治維新以降、軍関係の施設になりました。

1880年頃の迅速測図(左)と1896年頃の古地図で既に士官学校になっている尾張藩上屋敷

東京の方はご存知、市ヶ谷の尾張藩は、今は、防衛省市ヶ谷駐屯地となっています。

市ヶ谷八幡裏から覗く市ヶ谷駐屯地、ここに北朝鮮のミサイルを迎撃するミサイルがある。

市ヶ谷八幡の直ぐ北に隣接する長泰寺にある、軍馬を慰霊する碑、ここが戦前から軍施設だったことの現れ

2022年4月10日日曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る、その4, 大井氏、難波田氏

村山党シリーズ、その1は、村山氏、宮寺氏、山口氏の痕跡を訪ね、その2では金子氏、その3では、山口氏系荒波多氏、久米氏の痕跡をexploreしました。

そして今回は、大井氏、金子氏系難波田氏の痕跡を訪ねます。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー大井五郎大夫家綱

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前回その3で、東山道武蔵路・鎌倉街道上道と鎌倉街道羽根倉道との交差点を東進し、久米氏館跡と目される北秋津城を訪れましたが、そのままその道を東に進みます。

道幅といい曲がり具合といい道沿いの大きな旧家といい如何にもという古道風景の中、西武池袋線を過ぎ、下安松の集落に入るとここに長源寺があります。

満開の桜越しの長源寺

開基は大石定久で、大石氏は村山党と直接の関係はありませんが、これまで、旧多摩郡の西党、横山党とexploreしてきましたが、この地を巡ると、大石氏を避けて通ることが出来ない、そのような存在でした。

大石氏系図によれば、大石信重は、1345~50年に関東管領山内上杉憲顕に仕え、武蔵国比企郡津下郷に300貫文を賜り、1356年には、入間郡・多摩郡両郡内に13郷を賜って、武蔵国目代を任じられています。

1333年、新田義貞によって北条の鎌倉幕府は滅びました。その後、室町幕府が開かれたんですが、関東を治める為、鎌倉に鎌倉府を設け、統治しました。

そのTopは鎌倉公方で、室町幕府にも征夷大将軍はいますが、関東にもう一人の将軍がいた、と言うような存在です。その鎌倉公方を補佐する役割が関東管領です。

つまり、鎌倉幕府が滅んだ後の関東の新たな統治機構の枠組みにおいて、入間・多摩両郡に13郷を賜り、武蔵国の目代(国司: 現地に行けない守(かみ), 介(すけ), 掾(じょう), 目(さかん)ら、今で言う知事クラスの役人の現地に居住する代理人)だったわけです。

時は大きく下り、1545年、46年の河越夜戦では、大石定久は、やはりまだ、関東管領山内上杉憲政に従い戦っています。目代としては1400年代前半までだったようですが、その後も、関東管領山内上杉家の重鎮として活躍していたということです。

そして河越夜戦で後北条氏の関東支配が決定的となった後は、後北条氏に付いています。

ということで大石氏は、1350年頃から後北条の時代まで、旧多摩郡のエリアを支配、管理していたのです。

一方、それより前から、西党、横山党、村山党は、旧多摩郡エリア内のそれぞれの地域で土着し、生活していました。そして、頼朝が関東を支配したら頼朝に付き、北条の時代には北条に、というようにして生き延び、大石氏に対しても同じようにしてきたんだと思います。

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JR武蔵野線を潜って下安松通りに合流しそのまま東進を続けると、柳瀬川の丁字路にぶつかり、そのまま道なりに行くのが羽根倉道、一つ目の交差点を左に入るのが本郷道で、大井氏の支配地に行くのは本郷道と推測します。

道の名、本郷に到着するとここには柳瀬川の河岸段丘の景色が広がります。

河岸段丘を背にした東福寺、749年、行基が開創

その先の河岸段丘

やがて滝の城に至ります。

このまま河岸段丘下を行きたい所ですが、東川を渡る橋がありません。

地理院地図、右上から左下に流れる川が柳瀬川、左上から右上に合流しているのが東川。合流部に橋が無いのが分かる。

迅速測図の時代にもありません。

歴史的農業環境閲覧システムより迅速測図、右上の柳瀬川・東川合流部にやはり橋無し

大井五郎太夫家綱の時代はどうだったか。

しかし、迅速測図をよく見ると、滝の城址公園の崖下に一本点線徒歩道があるではないですか!!!

しかも、地理院地図の公園内園路(両点線)とほぼ重なってます。

迅速測図で一本点線徒歩道の現在の姿

柳瀬川河岸段丘上の滝の城が望めます

迅速測図の方は、運悪く、地図の切替部もあって詳細は不明ですが、大井五郎太夫家綱の時代はもしかしたら、東川を渡河する方法があったのかもしれません。

東川は渡れませんから、関越道の側道で河岸段丘に上がり、坂之下の集落に入ったら、風土記によれば鎌倉坂と呼ばれる坂を下って再び河岸段丘下の道を進みます。

道はやがて英インターにぶつかり、そこから河岸段丘に上がって竹間沢こぶしの里を行きます。ここには鎌倉街道伝承が残ります。

入口です

この辺りは古井戸山と呼ばれ地蔵がありました。この砂利道が古道である証です

アスファルトの道に合流する手前を右に行くのが鎌倉街道

この山道からアスファルトの道に合流して直ぐの所に、木下稲荷があります。

良い雰囲気だったので思わず自転車を止めました

ここ竹間沢は、京都の伏見稲荷を勧請した六つの稲荷神社があって、それぞれ、10~20軒程の家で講を組織し、管理しているそうです。撮影はしませんでしたが、この道すがらにも幾つもありました。

初午の時には大きな幟旗を立て、夜には宴会を開くとのことですから、養蚕が関係しているのだと思います。河岸段丘の上ですから、水田は出来ませんし、この辺りは渡来人の入植地で、渡来人が齎した先進技術であった養蚕が盛んでしたから。

さて、この鎌倉街道は川越街道に平行する鎌倉通りに続きます。

鎌倉通りは、村山党大井氏の支配地、大井郷に行き着きます。

大井戸に向かう古坂と呼ばれる坂

まずは、大井戸跡を訪ねます。

大井戸

1696年の大井郷田畑水帳によれば、川越街道、鎌倉街道と砂川堀に囲まれたこのエリアは、"大井戸" と呼ばれており、この井戸が地名由来と言われています。

井戸は武蔵野台地特有の所謂まいまいず井戸です。富士山や箱根の山、浅間山の火山灰が数十メートル積もった関東ローム層の為、水源が深く、一般的な垂直に掘る方法では水源に辿り着かず、まいまいず = かたつむりのように掘り進めなければなりません。

井戸の底からは須恵器が見つかり、平安期に掘られたことが分かりました。

大井五郎太夫家綱の時代です。

大井五郎太夫家綱の館がここにあったのでは、と、目されています。

大井氏館は、このまいまいず井戸を含め、目の前の埼玉トヨペットふじみ野支店と、川越街道を挟んだ徳性寺がそのエリアだと言われています。

徳性寺

それにしても何故、大井五郎太夫家綱は、狭山丘陵を離れて、この地に住んだのでしょうか???

謎ですね。

さて、大井五郎太夫家綱の支配地、大井郷から次は村山党金子氏系難波田氏の痕跡を探りに南畑に向かいます。

鎌倉通りを南に戻り、砂川堀を越えて1つ目の交差点を左折します。この道も両実線の県道クラスの古道です。

新河岸川に到着しました。振り返れば休耕田に突如として現れたららぽーとです。

新河岸川を渡って南畑に入ればそこは金子氏系難波田氏の支配地です。

桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー金子六郎家範ー高範ー難波田小太郎某(難波田氏初代)

まずは八幡神社を訪れます。

八幡神社

難波田氏が篤く崇敬したと伝わります。1400年に鎌倉公方足利満兼が勧請ですから、その後の難波田氏ということになります。

難波田城公園に向かいますが、その手前に天神社です。

天神社、民家の庭の中にあるように見えて入りづらい

難波田城の鬼門除けとして創建されたと伝わります。

難波田城です。

全景

本城門

金子高範は鎌倉幕府北条氏に従い、承久の乱に参戦し、その恩賞として難波田の地を与えられ、その子、難波田小太郎某がここに住み、支配しました。

1351年の羽根倉合戦で難波田氏と高麗氏がこの近くの羽根倉橋付近で戦ってますから、承久の乱の1221年から1351年、八幡神社創建の1400年、そして、河越夜戦後、この地は後北条方の上田氏に与えられましたから1546年まで、難波田氏はこの難波田城に拠ってたということになります。

先を行きましょう、下南畑氷川神社です。

下南畑氷川神社

難波田城の元の場所だと言われていますが、、、

歴史的農業環境閲覧システムより、難波田城、下南畑氷川神社、蔵福寺の位置関係

むしろ、その間の蔵福寺も含めた広いエリアが難波田城だったのではないでしょうか。

蔵福寺越しの難波田城

先を行きましょう、宗岡天神社です。

宗岡天神社

この神社には、この地で代々名主を務めていた木下氏の先祖、村山党山口氏の山口大膳が、山口からこの地に進出した時に、山口の氏神を分祀したという伝承があります。

入間郡誌によれば、山口大膳は、山口大膳高信で、父山口主膳正高稿の時代に既に後北条氏の配下でした。

それまでは関東管領山内上杉家に属していて、山口三河守高実(1383年没)の時代には所沢から足立郡までを領地としていたといいますから、1546年の河越夜戦で、後北条氏に下ったことで、領地を安堵されたのではないでしょうか。それが、上記の伝承になったものと思います。

□◆◇■

如何でしたでしょうか。

柳瀬川の河岸段丘を左に見ながらのツーリングは楽しかったですし、ちょうど桜の季節でもあったので。

竹間沢は鎌倉街道だけじゃなく、古い集落の雰囲気も残ってて良かったです。

武蔵野台地の東端である大井郷から降りて、新河岸川と荒川の間の氾濫地であった難波田は、広大な田園で、景色が違いました。

さて、これで村山党は一段落としたいと思います。

次はどうするか。また悩まないと。

2022年4月2日土曜日

武蔵七党、村山党の痕跡を辿る、その3, 荒波多氏、久米氏

前々回は貫主村山氏、宮寺氏、山口氏と巡り、前回は金子氏を巡りました。

今回は、荒波多氏と久米氏です。

【荒波多氏】
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー山口二郎季継ー山口太郎季信ー荒波多三郎(某)

【久米氏】
桓武天皇ー葛原親王ー高見王ー高望王(平高望)ー平良文ー忠頼ー忠常(恒) (押領使)ー胤宗ー村山頼任(村山貫主村山党祖)ー頼家(村山貫主)ー山口七郎家継ー山口六郎家俊ー山口小七郎家高ー久米左近将監家時

共に、山口氏からの派生ですね。

支配地は下記GoogleMapsの通りで、黄色が荒波多氏、緑が久米氏の痕跡です。


同族中の同族となる山口氏との行き来はどのようなルートを通ったのでしょうか。

恐らく西武池袋線下山口駅からほぼ真東へセブンイレブン所沢久米店へと抜ける道、これがメインストリートだったのではないでしょうか。

歴史的農業環境閲覧システムから。一番左の青鳥居マークが山口氷川神社、その隣が山口城址、その後、二股に分かれる所がちょうど下山口駅で、二股の南の方の道はほぼ真東ですね。これがメインストリートなのではないか、と思ってます。

このルートをベースに、exploreしたいと思います。

◇■□◆

いつものように、多摩湖自転車歩行者道で多摩湖へ。

いつもの馬の背は桜が満開

堤道を通り公園を抜け、ファミマの丁字路を過ぎて直ぐ北東に降る道がありますがこれも迅速測図では一本点線徒歩道の古道。これを行きます。

画面左下、ファミリーマートの、"マート" が見えてます。ここから右上(北東)に向かう道は歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図で一本点線の徒歩道古道で、池(十字マーク)を経由して進んでいきます。

ゴルフ場脇を荒幡富士に向かいます。この道も一本点線徒歩道の古道です。ここに浅間神社があります。

浅間神社と荒幡富士

荒幡富士山頂からホンモノの富士山の眺望(写真を選択しピンチアウトでズームしてご確認下さい。)

ここにある浅間神社は、元は村内の違う場所に在ったものを、明治14年にここに還座したものです。

また、富士の筑山ですが、これもやはり浅間神社の旧地に在ったものを、浅間神社を還座した3年後の明治17年に移築作業を始め、明治37年にようやく完了したものです。

尚、因みにこの場所には元々松尾神社がありました。

浅間神社は一旦はここで

ここからまた折り返すように北上すると、、、

茶畑と山躑躅、にしても山躑躅の紫はホントにキレイです。

先程の浅間神社の旧地、そして、本覚院があります。

歴史的農業環境閲覧システムの迅速測図によれば浅間神社は本覚院の直ぐ南にありました。直ぐ西の南北に走る一本実線荷車道から参道が分岐しているのが見えます。現代地図を見てもちょうど同じ位置に道がありますから、ここ(十字マーク)が浅間神社の旧地と思われます。ここに荒幡富士もあったんですね。

浅間神社の旧地は跡形も無し

本覚院

この浅間神社と本覚院がある北に向いた尾根突端は、埼玉の神社によれば、村山党荒波多氏居館跡とのことです。

だから、荒幡富士と浅間神社を訪れた、と、こういうわけでした。

荒波多氏は冒頭の通り、山口七郎家継の三代後ですが、久米氏系図にある、山口七郎家継の子、山口六郎家俊は保元の乱に参戦しています。保元の乱は1056年ですから、その二代後の荒波多氏初代三郎某は概ね1100〜1150年頃の人と思われます。

本覚院は1380年の開創ですので、まだ荒波多氏がこの地に存続していれば守護寺として、滅亡していたら城跡に開かれたということになりますね。

荒波多氏の痕跡はこのくらいです。

先を行きましょう。。。

鳩峯八幡神社に向かう道は迅速測図で村道クラスの大道。幅一間の道は当時のままか。

真中に配置した鳥居が鳩峰八幡です。西からそこに至る道、黒線が重なってるのは片実線・片点線の村道です。

掘割も残る

鳩峯八幡神社です。

鳩峯八幡神社

振り返ると参道はこの美しさ

埼玉の神社によれば、

"往古、三体の神像があったものを当地の郷士久米六右衛門が児玉郡八幡山村へ転居の際、本社棟札と神体一体とを彼の地へ移したという。この六右衛門は久米の地名ともなった久米但馬守の末孫で、この時は文永年度(1264〜1275)以前と考えられている。"

ということで、村山党久米氏の痕跡と言えるのではないでしょうか。

この神社、神社としても歴史深く、921年、石清水八幡宮を勧請と古社中の古社で、1333年の元弘の乱では、新田義貞が先勝祈願し、兜を掛けた松、鐙を置いた所に祀った稲荷があります。

新田義貞兜掛け松

別当が直ぐ南の仏眼寺で明治の神仏分離までは一体を成していました。

仏眼寺

先程の推論からすると、この寺社は、初代荒波多氏よりも古くからあるということになります。

先を行きます。柳瀬川も渡河し、、、

東山道武蔵路、その後は鎌倉街道上道となった南北の道と東西のこの道とが交差する地点には、舗装はされているものの幅一間の古道が奇跡的に残っています。東西の道は鎌倉街道羽根倉道で、鎌倉街道上道と中道とを連絡する道です。

そこには実にひっそりと馬頭観音が。ここに見える道は東山道武蔵路・鎌倉街道上道。

西武新宿線も渡って日月神社と北秋津城址です。

日月神社

桜がキレイでした

日月神社には、"とんぼのやどり木" という昔話があり、内容は、ここにある城の殿様がたいそう我儘で、無理難題を命令するので家臣が困り果てていたが、日月大明神によって最終的に無理難題を言わなくなったというもので、この城が北秋津城です。

北秋津城遠景、奥のこんもりとした森が城址

この城は、村山党久米氏の城という説と、武蔵守護代大石氏の城という説の両方があるようですが、

"ふるさと久米 今と昔", 平塚義角著によれば、"武蔵国入東郡久米郷旧跡誌" の項に、

"当所を久米と称するは古しへ久米但馬守住・・・・(居せしが)故に久米郷と唱ふ其邸き地・・(鳩ヶ) 峰より寅の方に当りて・・(但馬) 守の旧跡あり今 -(中略)- 領地あたり後久米郷吾妻庄唱ふ 久米記"

の記載があって、鳩ヶ峰神社の寅の方向(東北東)と言えば正にここ北秋津城となるわけです。

◇■□◆

如何でしたでしょうか。

武蔵七党はご存知の方も少なくないでしょう。村山党も百歩譲ってご存知の方もいらっしゃいますね。

が、荒波多氏、久米氏となると、殆どの方はご存知ないんじゃないでしょうか。私もそうでした。

世間の関心の低さを反映してか、ネット上にもあまり情報がありませんでした。が、何とか、形に出来ました。

所で先日狭山丘陵の古社を巡った時、旧岸村ですから村山党村山氏の支配地で、この碑を偶然発見しました。

荒畑繁蔵君の碑

これも、荒波多氏が村山党の一族である証左なのではないでしょうか。