汪公館 |
この、今は小学校となっている素敵な建物は、かつて、『汪公館』と呼ばれていた。『汪』とは、『汪兆銘』という人物のことだ。
汪兆銘は、1884年、広東省に生まれた。1904年には、日本の法政大学に留学している。留学中の1905年、孫文の革命思想に共鳴し、革命党に入党した。1911年、辛亥革命により清が滅亡し、翌1912年には、孫文を初代臨時大総統とする中華民国が成立した。この成立文書を作成したのは、汪兆銘である。又、1925年の孫文死去に際して、遺言を起草したのも汪兆銘であった。
孫文死後、蒋介石が台頭してくると、蒋介石の傀儡になることを嫌い、1926年、フランスに亡命、しかし、翌1927年に、蒋介石の呼びかけに応じ帰国。蒋介石は、南京に国民政府を組織したが、汪兆銘はそれに応じず武漢(中華民国は、広東にて成立し、その後、北京に移り、辛亥第二次第三次革命により再び広東に遷都していた。その後、北伐を開始し、武漢を制圧、武漢に遷都していた。) に留まるものの、その後、南京国民政府と武漢政府は合体することになった。しかし、汪兆銘は、共産党による広東蜂起の責任を取り、再び、フランスに行くことになる。
しかし、蒋介石の独裁に反発する反蒋介石派から出馬を要請され、1929年、北京にて国民政府を樹立した。が、1日で崩壊、しばらく香港に居たが、1931年、反蒋介石派が結集した広東国民政府に参加した。
しかし、満州事変を機に、蒋介石との統一機運が高まり、1932年、南京に国民政府を樹立した。1933年、汪兆銘は、関東軍との塘沽協定締結に携わった。以降、汪兆銘は、政府内の反発を受けつつ、日本とは和平を前提とした政策を進めることになる。
1937年、日中戦争が始まると、汪兆銘は、蒋介石の徹底抗戦による民衆の被害を思い、和平グループの中心的存在となった。そして、1938年からは、日本と中華民国の和平グループとの間で水面下の交渉が始まる。この交渉は頓挫したものの、1939年、南京に国民政府設立を宣言し、新政府として日本と和平条約を結んだ。日本との和平が可能であることを蒋介石に分かってもらう為だった。この汪政府は、1941年に日本が英米に宣戦布告した際、同時に宣戦布告している。しかし、結局、蒋介石は日本への徹底抗戦を止めず、連合国側として日本との戦争を続ける。(日本は、同じ中国内の南京政府とは手を組み、蒋介石率いる重慶政府とは戦争をしていた。)
そして1944年、名古屋で死去した。汪政府は終戦と同時に解散となった。
日本で学び、日本と共に戦争を戦い、日本で死去した汪兆銘。ここにも、日本が上海に残した足跡があった。
0 件のコメント:
コメントを投稿