2012年8月10日金曜日

Modern Architecture in Shanghai / 近代建築散歩 上海・外灘

旧ユニオン・アシュアランス・カンパニーズビルからの眺望(50mm)
(Japanese)


当時、イギリスは、清国から大量の、茶、陶磁器、絹を輸入していた。イギリスから清国への輸出は、時計や望遠鏡など、富裕層向けに限られ、大量に輸出可能な製品は存在せず、イギリスの大幅な貿易赤字となっていた。当時清国は、銀本位制であり、イギリスは大量の銀を清国に流出させていたことになる。この貿易不均衡は、イギリスにとっては、悩みの種ではあったろうが、One of themでしかなく、これだけなら戦争は起こらなかっただろう。

イギリスは産業革命によって大量に生産した製品を自国だけでは消費し切れず、又、自国内で生産し消費するだけでは、国としての資本は増えていかないことから、大量生産した製品の売り先を求め、植民地政策を推し進めていた。

更に、アメリカ独立戦争が始まる。イギリスは、戦費確保の為、銀の国外流出を抑制したかった。

3つの問題をどうやって同時に解決するか。イギリスが考えたのはこうだ。当時、既に植民地でアヘンの栽培が盛んだったインドから、アヘンを清国に密輸出する。植民地インドを経由して貿易不均衡を解消し、大量の銀も手に入れることが出来る。

問題は、清国が、1796年から既にアヘンの輸入を禁止していたことだ。禁止令は、19世紀に入ってからも幾度となく発せられた。それでも、イギリスの三角貿易によるアヘン密輸出は功を奏し、一旦は貿易収支が逆転したが、清国内でアヘン吸引の悪弊が広まったことから、1838年、道光帝は、林則徐にアヘン取締特命大臣を任命し、徹底的なアヘン取締を行った。

これに対しイギリスは、艦隊を清国へ派遣した。麻薬の密輸の為に戦争を起こしたのである。1839113日のことだ。

1842年、戦争に敗れた清国は、香港島の分割譲渡などが含まれる南京条約をイギリスと締結した。その中に、上海の開港が含まれている。上海開港の翌年、1843年に、船長バルフォアが、上海領事として上海へやって来た。南京条約は、新たな貿易協定を結ぶための初歩的な原則を規定するだけで、外国商の商品倉庫や家族のための住宅建設、土地の賃借などについて、何ら規定がなかった。バルフォアは、上海道台の宮慕久に圧力をかけ、外国人専用の居住地域を設定するよう迫り、ついに、18451129日、2年間の交渉の末、「上海土地章程」を締結、海外の投資家はそれを上海基本法と考えた。その規定によれば、英国商人の居住地は、北は北京東路、南は延安東路、東は黄浦江、西は河南路の830アールの地域となり、そこは“十里洋場”と呼ばれた。租界、そして外灘の誕生である。

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