2021年7月27日火曜日

古甲州道、五日市

このシリーズの前回は滝山でした。

滝山と言えば滝山城しかない、となると北条、行っても大石氏で、律令の時代にまでは遡れんなという事前期待を大きく上回り、地形的に奥多摩山塊と武蔵野台地の境目で、言い換えれば奥多摩山塊の入口だからか、奥多摩山塊の修験道聖地、当山派修験道高尾山と金峰山修験本宗御岳山の一の鳥居的な位置付けだったようで、中世大いに栄え、そこに、律令時代の行基伝承が折り重なるという、ここ滝山が古甲州道の地である証左に十分な歴史深いエリアでした。

さて今回はその先、五日市です。

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JR五日市線武蔵増戸駅まで輪行。南口を出て山田通りを南下、網代トンネルには入らずその西脇の道を行きます。こちらが古甲州道であり鎌倉街道山の道でもある古道になります。

鎌倉街道山の道と古甲州道が重なる部分。夏なのですっかり藪と同化してしまって識別困難ですが、チャリの右の藪の中に畠山重忠の駒繋ぎ石があります。

登り切った所で交差する尾根道を左(東)に行くのが古甲州道、そのまま南下を続けるのが鎌倉街道山の道です。

古甲州道と鎌倉街道山の道の丁字路を古甲州道側に少し行き尾根に乗った所

古甲州道、ここから先は自転車通行不可とのこと。来た道を戻ります。

網代トンネル北交差点から山田大橋キャンプ場、弁天橋方面に行く道が古甲州道です。

弁天橋を渡った後に出会った路傍の地蔵

暫く秋川沿いを行き、ファーマーズセンターで折り返すように南下、大光寺に到着です。

緊急事態宣言を受けて墓参り以外は受け付けていないとのこと。早々に退散しました。

1502年に、高尾村領主平山氏の祈願所として開山とのこと。

出ました、平山氏。

日野の回でご紹介した日奉宗頼を祖とする西党の一派です。

936年に日野の地に土着した日奉宗頼、その曾孫宗綱の子直季が、平山に居館を構え平山氏を名乗り、平山氏の祖となりました。場所は京王線の平山城址公園駅の辺りです。

その後、源氏が東国に進出するに連れ、それに従うようになり、直季の子平山季重は、源義朝(保元の乱: 1156年〜), 頼朝(打倒平氏挙兵: 1180年〜)に属し、武勇伝を多く残しました。

その平山季重には3人の男子がおり、三男の季武が、晩年は平山に帰って過ごしたと言います。

ということでここら辺り一帯は日奉宗頼を祖とする西党平山氏の領地だったようです。

先を行きましょう、小和田橋を渡った秋川左岸になりますが、阿伎留神社です。

阿伎留神社

社伝によれば紀元前91年、天穂日命の十七世孫に当たる武蔵国造、土師連男塩が初代の神主となり創建し、以後、現在に至るまで七十余代にわたってその子孫が奉仕しているという古社中の古社です。

それはアレとしても、901年編纂の三代実録に記載があったり、927年編纂の延喜式神名帳に記載されています。

この阿伎留神社、古社ということだけでなく興味深いことがたくさんあるんですが、今回のテーマからは外れるので割愛し、テーマに関連することとしては、武州南一揆関係文書が6通あり、足利持氏からの武州南一揆に対する恩賞状は資料的価値が高いとのことです。

一揆というと百姓一揆を思い出しますが、そもそも一揆とは、信条等を一つとし、考えや行動を共にする共同体という意味で、百姓、農民に限ったことではありません。

武州南一揆は、西党を中心とした集団で、平山氏、小宮氏、梶原氏、師岡氏、川口氏、由比氏、貴志氏、高尾氏、網野氏、私市氏、青木氏などがいました。

足利持氏が鎌倉公方に在任したのは1409~1439年です。

先程の平山氏祈願所大光寺は1502年の開山でした。1502年というと山内上杉家と扇谷上杉家による長享の乱の真っ最中で、鎌倉公方ではなく古河公方に変わり公方様は足利政氏となっていました。

日奉宗頼を祖とする西党は、936年の日奉宗頼日野土着から、源義朝・頼朝が東国を支配した時代、足利持氏鎌倉公方時代、足利政氏古河公方時代まで、脈々と生き残っていたんですね。

前回滝山では西党の痕跡はありませんでしたが、一つ先のここ五日市では西党の痕跡があり、日野と五日市を結ぶ古甲州道は、西党が行き来する道であり、やはり、936年の日奉宗頼日野土着時点には既に存在していた道と言えそうですね。

先を行きましょう、佳月橋で秋川左岸に渡り、沢戸橋までが今回の古甲州道ルートです。

佳月橋から城山の眺望。城山は武州南一揆の小宮氏が築城したとされる戸倉城がある。小宮氏と言えば日奉宗頼西党の一派、ここにも。戸倉は次回訪問予定です。

ここから先は次回とし、五日市エリアを隈なく巡るということでここで檜原街道を折り返します。

旧檜原街道と路傍の石塔群

そして、玉林寺です。

玉林寺

開創は1339年、開基は平山氏重とのことですが、平山氏重は1590年の秀吉の小田原征伐で北条が滅亡した時の檜原城城主ですから時期が合わず、恐らく、中興に尽力したということでしょう。

はい、ここにも登場しました、平山氏です。先程の1502年の足利政氏古河公方時代から、1590年ですから北条の繁栄から滅亡まで、脈々とこの地に生き残っていました。

先を行きましょう、大悲願寺です。

観音堂

五日市町史によれば、

"開創に関しては聖徳太子が全国行脚の際、この地に一宇の草堂を建て、それが元であるとの伝承もあるが、それはとにかくとして、現在も寺の後方の山合いに「草堂の入」という地名が残っていることからみれば、古くから何らかの草堂のあったことはうかがえる。史実としては建久二年(一一九一)、源頼朝が檀越となり、洛陽の人と言われる澄秀を開山として、平山季重が創建したという寺伝に目安をおくべきであろう。"

ということでここにも平山氏が登場ですね。源義朝・頼朝の時代に多くの武勇伝を残した平山季重です。

先を行きましょう、日の出町大久野の山祇社です。

山祇社

1386年に、平山(日奉)盛(守)吉が創建との伝承がある神社です。

先を行きましょう、同じく日の出町の平井にある子安不動です。

子安不動堂

こちらも平山(日奉)盛吉が1381年に祈願所として開創し、1445年にはその子孫平山綱景が鳥居を建立しました。

先を行きましょう、日の出町平井の八幡神社です。

平井八幡神社、崖下にあります。南は崖で、南には向けない地形です。だからか、東向きでした。

東京都神社名鑑によれば、元々は本宿山獄の上に鎮座、創建年は詳らかならずも935年の平将門の乱平定の勅命を受けた藤原忠文が参指した伝承があるとのこと。また、風土記によれば、1390年に、平山景時が創建とあります。

と、いうことで、この辺に、1380〜90年の間に、平山氏が進出、あるいは勢力拡大してきたことが分かります。

先を行きましょう、日の出町平井の春日神社です。


東京都神社名鑑によれば、日本武尊、坂上田村麻呂、源頼朝など、スーパースター達が立寄ったと伝えられている古社。また、村首日奉森明が、成務天皇の勅命により大己責命を祀り、千石大明神と称した、とか、延暦十年(七九一)、日奉森栄が官命を受けて、武甕槌命、斎主命、天児屋根命を合祀、という伝承があります。

ここも日奉氏関連ということですが、日奉宗頼が日野に土着したのが936年ですから、それよりもかなり前ですね。。。

さて、日の出町の平山(日奉)氏縁の寺社巡りを終え、秋川沿いに戻ります。

引田大宮神社です。

引田大宮神社

ここも729〜48年創建との伝承がある古社ですが、それはそれとして、1527年に、日奉宗連が再興との伝承があります。

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さて、如何でしたでしょうか。

古甲州道、五日市エリアは、日奉宗頼を祖とする西党の一派、平山氏の濃度が非常に濃かったですね。

既述しましたが、日奉宗頼が936年に武蔵守の任を終え、日野に土着してから、この一族は武蔵七党の一つ、西党となり、日奉宗頼の曾孫宗綱の子直季が、平山に居館を構え平山氏を名乗り、西党一派平山氏の祖となりました。

以降、この五日市の地で、
  • 1191年、平山季重、大悲願寺開基(再興)
  • 1381年、平山盛(守)吉、祈願所として平井子安不動堂開基
  • 1386年、平山盛(守)吉、日の出町大久野山祇社創建
  • 1390年、平山景時、平井八幡神社創建
  • 1409~1439年、平山氏が属した武州南一揆宛に足利持氏恩賞状、阿伎留神社
  • 1502年、平山氏、祈願所として大光寺開山
  • 1527年、日奉宗連、引田大宮神社再興
  • 1559年頃、平山氏重、玉林寺再興
と、源義朝・頼朝、足利氏満(鎌倉公方: 1367〜1398年), 足利持氏、山内上杉家(足利持氏後、北条に組する前: 1546年の河越夜戦まで), 北条、と、主君を変えながら、脈々と生き長らえてきたことが分かりましたね。

ということは、古甲州道は、936年以降、徳川の世になるまで、日奉宗頼を祖とする西党の行き交う道だった、そういうことになります。

さて、平山氏最後の当主、平山氏重ですが、1590年の秀吉小田原征伐で主君北条氏照の八王子城が落ち、檜原城主平山氏重も自害し平山氏は滅亡します。

(一説には、嫡男平山氏久は僧となって奥多摩に落ち延び、その後、徳川の世になった後だと思いますが、子孫が北檜原の茗荷平に戻り、開拓したとの伝承もあります。)

2021年6月21日月曜日

古甲州道、滝山

前回、古甲州道の日野をご紹介しました。

日野といえば皆、土方歳三、新選組を思い浮かべると思いますが、いやいや、日野と言えば、太陽信仰に基づく太陽祭祀を職業とした日祀部の一族、日奉氏の日奉宗頼だと。

日奉宗頼は936年に武蔵守の任期を終えると、冬至の日に富士山頂に沈む夕日が拝める日野の地に土着し、だから、古甲州道は任地府中と土着地日野とを結ぶ道であり少なくとも936年には既に成立していたと。そして、日野には日奉氏の痕跡がそこかしこに残っていて、また、日野の地名由来は日奉氏だと、そういう話をさせて頂きました。

今回はその先、滝山です。

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東光寺神明社の先で現在の谷地川流路を渡り、古甲州道はやがて都道153号の旧道に出合い、そこを左折します。

この都道153号の旧道は北に行くと多摩川を渡り、旧福島村、旧砂川村を経由して所沢に至る古道で、単に所沢道、あるいは大山街道所沢道と呼ばれている古道です。南に行けば鑓水峠、杉山峠(現御殿峠), あるいは七国峠を通って大山に、あるいは鎌倉に至る鎌倉街道でもあります。

さて、この辺りは八王子市小宮町ですが、"小宮" というと前回ご紹介した日奉宗頼を祖とする西党の一族、小宮氏の根拠地かと思いましたが、ここは江戸時代の大和田村、北大谷村、西中野村、粟ノ須村、北平村、石川村、宇津木村の7つの村が、明治22年(1889)に合併し、成立した小宮村がルーツということで、見当違いでした。

小宮駅入口のY字路から都道59号を行き、JR小宮駅を越すと再び旧道に入り、田島橋の五差路からは基本的に都道169号を行きますが、古道が残っている部分は古道側を行きます。

程無く、龍光寺に到着です。

龍光寺

八王子市史によれば、開創時期は詳らかならずも開山は1396年寂の清雅ということですから、永和年間(1375〜1379年)に京都醍醐寺から俊源大徳が高尾山に入り、飯縄権現を守護神として奉った辺りでしょうか。

こんな所と言っては何ですが、こんな所にこんな古刹が―――と、思いますが、法流は高尾山薬王院と同じ東密三宝院流の支流、松橋流ということですので、高尾山との関係が深いようです。真言宗系当山派修験道の中心的宗派です。

高尾山の信仰を広げる為に開創されたということでしょうが、ここがそれに適した場所だったということになります。"こんな所に" と言ってしまいましたが、ここは、古くから栄えていた所だということになります。

確かに、ここは鎌倉街道が古甲州道と交差する所、交通の要衝だったから、高尾山の信仰を広げる好適地だったんですね。

1880〜1886年に作図された迅速測図に、龍光寺(右)と、鎌倉街道と古甲州道の交差点(左)にマーキング。交差点の方は、南北に走る一際太い道が鎌倉街道、東西の道が古甲州道。龍光寺の東にある南北に走る片実線・片点線もひよどり山に続く鎌倉街道です。

引き続いて、埼玉神社です。

埼玉神社、夏というのもあるんだと思いますが、荒れ気味でしたね

1205年創建の伝承がある古社で、祭神は大己貴命、伊弉諾尊、猿田彦命、応神天皇です。

風土記によれば、埼玉神社ではなく埼玉権現社と書かれ、本地仏毘沙門天を祀るとのことです。

境内掲示によれば、宇津木には鎮守埼玉神社の外に、小字に五社の小祠: 字青木八幡神社祭神 応神天皇、字中村裏天照神社祭神天照大日孁尊、字権水日枝神社祭神伊弉諾尊伊弉冉尊、字久保山西青木神社祭神猿田彦命、があり後に合祀したとのことですから、引き算すると大己貴命が本地仏毘沙門天ということになりますね(天照大御神はどこに行った??)。

毘沙門天は、仏教世界を守護する四天王の一つ、仏神です。

仏なのに神社??, 権現とは??

ということなんですが、日本は元々は神様の国ですね。そこに仏教が入ってきて、仏教が隆盛となった時期、奈良・平安期に起こった考え方です。

日本の神様は本来は仏で、神様の形式で以てこの世に現れたとする考え方です。本来は仏で、姿は神様、これを権現と言いました。姿は神様だけど本来の仏様を本地仏と言います。

埼玉神社は元埼玉権現社で、本地仏は毘沙門天、しかし姿としては大己貴命だ、ということですね。

イヤイヤ、その前に何故八王子に埼玉??, でしょ!!

ですよね。はい、分かりませんでした。

恐らく、埼玉は、"さいたま" ではなく、"さきたま" と読むんだと思います。で、所謂、埼玉県のことを指しているんじゃないと思いますが、ハッキリとしたことは分かりませんでした。完全なる私の予想ですが、さきたまの、"さき" は、"前" ですから、多摩の前に位置していたから、というくらいですね。

引き続いて左入神明神社です。

左入神明神社

こちらも1190年、あるいは1204年創建の伝承がある古社です。

この神明神社も謎が多い。

風土記にはどうやらこの左入神明神社の記載が無いようですね。

東京都神社名鑑によると明治四一年二月、山の神社を合祀したとあり、いつもお世話になってます猫の足跡によると風土記の記載としてその山神社のみ記載されていますから、と言うことは、風土記が作成された頃は山神社であって神明神社ではなかったかもしれません。

山神社と言えば山岳信仰で、山岳信仰と言えば修験道です。ここも、龍光寺同様、ここ滝山の地の奥にある奥多摩山塊の山岳信仰に何か関係した信仰だったのかもしれません。

あるいは西党関係ですね。太陽信仰 = 天照大御神ですから。

ここは古寺古社が固まってますね。古甲州道が江戸時代の甲州街道より前に成立していたことの証左ということになります。

奇跡的に残る当時の面影を残す道筋

先を行きましょう、丹木御嶽神社です。

丹木御嶽神社

境内説明によれば、

―――往古蔵王権現社と称し高月村にあり、今の滝山城跡山頂に蔵王堂が鎮座。社の立は推古天皇代(五九五年)滝山城築城以前の開山とある。歳移り藤原時代康平二年(一〇五九年)源義家公社を再興し社殿悉く新築した。その後北条陸奥守氏照城郭造営の際現地に移したとある。この時天文十三年六月六日である。―――

という古社です。

古甲州道を進むと御岳山ですから、この神社は一の鳥居的な位置付けで、古甲州道は御岳山への参道の役割も持っていたのかもしれません。

丹木御嶽神社の山を降りて谷地川を渡った所に勝手神社があります。

勝手神社

勝手神社、聞かない名前ですね。祭神は押武日之命、これも聞かない名前ですが、安閑天皇のことです。東京都神社名鑑によれば、丹木御嶽神社の末社として創立されたとのことで、1349年に大石信重が懸仏一面を奉納したといいます。

勝手神社の本社は大峰山の鎮守社となる吉野八社明神の内の一つ。また、吉野川の水源に当たる青根ヶ峰は水神として崇敬を受け、山頂に金峯神社、山腹に吉野水分神社、山麓に勝手神社が建てられています。金峯山寺の蔵王権現、吉野水分神社の子守権現、勝手神社の勝手権現は三所権現として伯耆の三仏寺に勧請されていたり、能の嵐山では、吉野から移植された嵐山の桜の花守である老夫婦が、勝手、子守両神の化身で、蔵王権現、勝手明神、子守明神は三位一体であると語られるなど、勝手神社は金峰山修験本宗の総本山、金峰山寺と非常に縁のある神社です。

安閑天皇は蔵王権現と習合していますから、そういうことだということですね。

地蔵が佇む勝手神社から火防観音宝印寺へ向かう古甲州道旧道

続いて、宝印寺火防観音です。

火防観音宝印寺

宝印寺の御本尊は、薬師如来で行基の作、観音堂の御本尊は千手観音菩薩でやはり行基の作で、行基が諸国巡行の途中、この地に立ち寄り霊夢を感じこの像を彫刻し安置したとのこと。行基が暫らく留まった所と言うことで、地名が留所村(とどころむら)となったそう。

まぁ行基伝説はいつもの通りという感じがしないでもありませんが、冒頭言いましたように都道153号は所沢に向かう所沢道であり、所沢も行基伝承が多いところです。

また、龍光寺の高尾山、丹木御嶽神社の武蔵御嶽神社にも行基伝承がありますね。

ここは行基伝承の中継地点のようです。行基自身がこの地を訪れた可能性は極めて低いと思われますが、少なくとも、行基の伝承を伝える人がここを通った可能性は高いということです。加えて、ここ滝山と交流があったということですね。

行基、あるいは行基集団は、大山街道所沢道で所沢からこの地滝山に来て留まり、宝印寺、火防観音の観音様を彫り、その後、高尾山を開き、武蔵御嶽神社を創った―――。

そのルートが古甲州道だったのかもしれません。

ここは古多摩川の扇状地の扇の要の位置に当たり、よって、ここまでが武蔵野台地で、ここから、奥多摩の山々が始まる所です。

真ん中を示す十字の位置に滝山を配置。その上の黄緑色エリアが武蔵野台地。滝山の直ぐ上に扇の要がありますね。ここから多摩川の扇状地が始まります。逆に、ここまでが奥多摩山塊。ここは境目です。台地中に島のように見えるのが狭山丘陵。狭山丘陵は多摩川に流されず残ったんですね。滝山の下の黄緑色エリアは相模川の扇状地で、相模原台地です。両扇状地に挟まれた滝山も乗っているのが多摩丘陵で、三浦半島まで続いてます。

恐らくこの地形が原因だと思うんですが、龍光寺は高尾山の当山派修験道、丹木御嶽神社は武蔵御嶽神社の金峯山修験本宗ですが、既述しましたが、共に、一の鳥居的な位置付けだったんじゃないでしょうか。

元々町はそれなりにあったんだと思いますが、高尾山の当山派修験道、武蔵御嶽神社の金峰山修験本宗の信仰拡大の為、開創創建した寺社によって、益々盛んとなった、と、こういうことだと、ここまで来て、思うようになりました。

時代的な後先は分かりませんが、ここに、行基伝承が重なります。

古甲州道が江戸時代より前からこの地滝山で開かれていた証拠と言えそうです。

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如何でしたか?

滝山って滝山城しかないじゃん、滝山城は北条、遡っても大石氏じゃん、と、思ってました。

日野の、much better than expected振りに比べると面白みが無いかなと思ってましたが、意外や意外、地理的条件故の奥多摩山塊の山岳信仰への一の鳥居的な位置付けで早くから開かれていた町のようです。

古甲州道は、御岳山への参道としても機能していたと考えられます。

スマホのカメラなんで画角がこうなってしまって分かりづらいですが、多摩大橋から奥多摩山塊を望んだ写真です。画面ほぼ真ん中、奥に薄っすらと山並みが見えます。その手前、色濃い丘が先程行った滝山丘陵です。正にここ滝山は奥多摩山塊の入口だということが分かります。