何れも鎌倉時代初期でしたが、今回は少し時代が下って1333年の元弘の乱の際の、新田義貞 "元弘の乱" 道です。
頼朝の下、義経が平家を滅ぼしたのが1186年、頼朝と政子の次男、三代将軍実朝が暗殺され、源氏政権が滅んだのが1219年ですから、源氏政権は僅か3代33年で終わったことになります。
頼朝が落馬によって不慮の死となった後、二代将軍頼家、三代将軍実朝も、諸説ありますが、北条によって滅ぼされたと言えなくもありません。少なくとも、その後、鎌倉幕府の実権を握ったのは北条でした。
そして114年後の1333年、源氏一族である足利尊氏、新田義貞によって、北条は滅ぼされるのです。
頼朝の系図は、
源八幡太郎義家―義親―為義―義朝―頼朝
ですが、義親の兄弟に義国がいて、その系統が後の新田義貞、足利尊氏です。
この、新田氏、足利氏は、114年間、北条の御家人でした。正に、主従逆転されていたわけです。
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新田義貞鎌倉攻めの本道は鎌倉街道上道ですが、多摩川を渡河する頃には数万、数十万という規模まで膨れ上がったと言いますから、道幅せいぜい10mの鎌倉街道一つでは賄えないわけです。
ですから幾つもの道に分かれて進軍していきました。
その幾つかも、鎌倉街道ということになるわけですが、だから、鎌倉街道はあちこちにあるのですが、鎌倉街道上道と中道の間に位置するこのエリアにも通っています。
今回は、大丸の渡し―百村―坂浜―御座松―峠の辻―亀井坂―金井―高ヶ坂―本町田のルートを行きます。
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多摩サイで是政橋まで。是政橋で多摩川を渡河し、医王寺に向かいます。
寺の西側の丘は、1333年の新田義貞の鎌倉攻めでの分倍河原の戦死者を弔う十三塚の跡とされています。
先を行きます、大麻止乃豆乃天神社とその裏山の大丸城跡です。
謎の多い城なんですが、元弘の乱の際、新田軍の砦だったのでは、という伝承があります。大麻止乃豆乃天神社の裏山には曲輪があった可能性があります。
大丸村から村道で長沼村、百村を経て、坂浜村に向かいます。
ここには、元弘の乱の義貞軍の墓と伝わる鐙塚があります。
ここは渡来してきた高麗人が、この辺で鐙を作っていて、その屋敷跡、という伝承もありますが。
学園通りまで上ったら(キツイですよ), その先は麻生川支流まで下ります。
遠回りとなりますが、このアップダウンを回避する道もあります。が、この上り下りの道沿いに杉山神社があり、その御神体が1492年の懸仏であることから、私はこちらアップダウンの方を採用したいと思います。
1492年というと戦国期真っ只中で、この時代にこちらを使っていたならば、同じ武士の時代の1333年も、こちらを通ったと思います。
その後、再び、多摩郡と都筑郡との郡境尾根に上りますが、ここは、元弘の乱の鎌倉方の戦死者を葬った場所で、供養の為、松を植え、御座松と言われていました。
先程の十三塚は新田方、こちらの御座松は鎌倉方の戦死者を葬った場所ということです。
この辺は小山田有重の小山田庄、小山田有重の子稲毛三郎重成の稲毛庄で、小山田一族は1205年の畠山重忠の乱で滅亡しています。
滅亡後は、政子によって源師季と重成の娘の間の子に遺領が与えられていますから、実質的に北条氏が支配していたと言え、鎌倉恩顧が強いエリアだったのだと思います。
だから、新田軍が攻めてきた時は、住民総出で戦ったんではないでしょうか。その亡骸が眠っているという伝承となります。
再び片平川に向かって下り、
1200年代開創の常念寺の脇、栗木坂を再び上ります。
常念寺の沿革には、広袴小史の一節が紹介されていて、
"栗平駅より亀井谷戸を下り常念寺の前を通って広袴へ向かう道は、その昔鎌倉時代の悲劇の武将源義経がこの土地の有力な家来であった亀井六郎など従えて亀井坂を下り鎌倉へ上ったと伝えられる古道である。"
と、あり、常念寺から栗木坂で多摩郡と都筑郡の郡境尾根〜この道は鎌倉街道早道ですが〜へと上り、
鎌倉街道早道を鎌倉に向かい、鶴川第2小の手前で下っていく坂が亀井坂です。
この後、鎌倉街道早道は真光寺川沿いを行きますが、新田義貞 "元弘の乱" 道は、真光寺川と鶴見川の間の尾根を一跨ぎするのではないかというのが私論です。
金井から再び尾根に乗り、細尾根をやり過ごし、
多摩郡と都筑郡の郡境に上って南下し、ランドシティ玉川学園ロイヤルテラスの辺りで西に折れるとここは恩田川の2つの支流の間の尾根となります。
そこを南下し、昭和薬科大学、
鞍掛の松公園に至ります。
はい、名前から想像できると思いますが、ここは、元弘の乱の際、ここの松に義貞が鞍を掛けたという伝承がある場所です。
ここから先ははっきりしませんが恐らくは鎌倉街道上道へと接続し、鎌倉に向かったものと思います。
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帰りは来た道を戻りますが、金井(先程の細尾根)ではなく岡上を行き、鶴川に出たら、新田義貞 "元弘の乱" 道の台光寺ルートで帰路につきたいと思います。
台光寺は元弘の乱の際、義貞軍に焼かれています。
台光寺から先は現代の津久井道ではなく麻生川右岸の山裾を行きます。こちらが古道です。
ここ山裾の道の行き着く先は、
陣川橋です。小沢原の戦いで北条氏康軍が陣を張ったことに由来します。
今回はもう足が残っておらず行きませんでしたが、台光寺ルートは、この先、金程、多摩郡と橘樹郡の郡境尾根に向かって坂を上り、七国峠からゴルフ場を越えて稲城南山からやはり是政の渡しへのルートと、七国峠から菅北浦の子之神社に向かうルートがありますが、菅北浦の子之神社に向かうルートは、北条氏康も正にこのルートを通りました。
菅北浦の子之神社ですが、台光寺同様、義貞軍に焼かれています。
義経、義貞、氏康に踏まれた道なんですね。
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如何でしたでしょうか。
亀井坂までは何度も訪れた道でしたが、その先は初で楽しめました。
基本的に尾根道で、曇でなければ丹沢山塊、富士山の眺望も良かったでしょう。
に、しても、アップダウンは激しかったです。
東京は基本全ての川は東京湾に向かって流れてますから、この辺、多摩丘陵で鎌倉街道、つまり、南北の道を行くと、谷、尾根、谷、尾根の繰り返しになりますから。