2021年2月21日日曜日

日本のシルクロード、多摩エリア、その2, 砂川村(立川市)

砂川村を含む多摩地区の養蚕農家では、毎年、小正月に米粉で餅を作り繭玉の形にして樫の木の枝に刺し床の間に飾ったそうだ。餅は翌日に取り外して食べる。

この、"繭玉飾り" は、勿論、養蚕の無事を祈った行事だ。

この、繭玉飾りという行事は昭和の終わり頃まで続いたそうだが、やがて無くなり、その代わりに行われるようになったのが、"どんど焼き" である。

繭玉飾りと同じく小正月に行われるどんど焼き。長い竹串の先に団子を刺して、どんど焼きの炎で焼いて食べる。

繭玉飾りは無くなったが、どんど焼きに繭玉飾りの風習が残っているわけだ。

ここ北町神明社では、どんど焼きが行われる。

北町神明社、南野中新田が開発された享保10年(1725)に創建

先を行こう。

現代の若葉町の辺りから砂川村が始まる。ここら辺りは十番(組)だ。

砂川村は、五日市街道沿いに出来た村で、西から一番、二番・・・十番まで、組が構成されていた。ここは東の端なので十番である。

迅速測図で砂川村を見ると、この頃(1880~1886)既に桑畑が確認出来る。砂川村一帯が桑畑である。

迅速測図における砂川村、横に走る黒線が五日市街道、その少し上に横幅ほぼいっぱいに、"砂川村" の文字が確認できる。五日市街道沿いは、比較的やや濃い茶色の桑畑、"桑" の文字が確認できる。

砂川村では享保年間(1716~1736)には既に養蚕が始まっていたそうだ。

養蚕農家が自分の家用やごく近所に売る為に、くず繭やくず糸を使って、"砂川太織り" が織られていた。

江戸末期から明治時代になると、2匹の蚕から生み出される繭から作った丈夫な玉繭を使った砂川太織りは評判となり商品化されたそうだ。

そうなると道具も改良され益々盛んになり、明治22年(1889)に砂川村で行なった調査によれば、実に、村内の農家の85%にあたる500戸で機織が行なわれていたということだ。

大正8年(1919)には、村山で発達していた村山絣(綿織物)と合体して村山大島紬という絹織物が出来た。

砂川村は元々村山の村野三右衛門が慶長14年(1609)に、新田開発を幕府へ願い出、出来た村だから、村山は親村のようなもの。交流は勿論あっただろう。

その村山はここにも書いたように、渡来人の住むエリアであった。渡来人により、奈良時代から織物が発達していたのだ。

ここでようやく腹に落ちた。

何故、多摩地区で養蚕が盛んになったのか。

迅速測図で、狛江辺りから桑畑が見られるようになり、府中を過ぎた辺りからそれが多くなるのかが。

渡来人だったのだ。迅速測図の時代から桑畑が見られるのは渡来人の影響が強いエリアだった。

ここにも渡来人か!!!!!!

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小川道との辻に来たら小川道に入り、追分には馬頭観音がある。

馬頭観音、嘉永元年(1848)に建てられた。

以前も言ったように、養蚕の神様は馬と縁がある。

だから馬頭観音に習合していった。

この嘉永元年ならもうとっくに養蚕が始まっていた。馬頭観音も養蚕守護として祈りの対象だったに違いない。

馬頭観音の基台に刻まれた世話人たちを見ると、これから訪れる中野、須崎の名が見える。須崎さんは選挙ポスターも見たな。江戸時代から支配者が変わってない。我が世田谷区も同じだが、これが日本。

この追分を左に行くのも古道で迅速測図では徒歩道。暫く行くと砂川村八番組組頭だった須崎家の蔵が移築され残っている。

須崎家内蔵、内蔵とは家と繋がっていた蔵

養蚕業の発展とともに桑苗の特産地でもあった砂川村の盛んな商業活動を象徴する建物だそうだ。

先を行こう。

登録有形文化財にもなっている中野家住宅である。

中野家の屋号は代々、"絹屋", 勿論養蚕農家だった。

先を行こう。

本日のハイライト、阿豆佐味天神社と境内社の蚕影神社だ。

阿豆佐味天神社、砂川村鎮守。既述のように、村山の村野家が、慶長14年(1609), 幕府から新田開発の許可を得て、寛永4年(1627)頃から開発が始まったが、その際、精神的支柱として、寛永6年(1629), 村山郷一帯の鎮守である延喜式内社阿豆佐味天神社を勧請したのが始り。

境内には、

安政7年(1860)勧請の蚕影神社、右下に、"狛猫"

zoom upで(日影だけど)

も一つ

と、蚕影神社が鎮座。明治に入ってからではなく、1860年には既に養蚕が大きな盛り上がりを見せていたことが伺える。

1860年と言えば、横浜開港の翌々年で、初めて生糸が横浜で外国に売れた1859年の翌年。

その後、迅速測図時代(1880~1886)には桑畑ではなかったエリアでも養蚕が始まるが、最初は、ここ砂川を始めとした多摩地区、迅速測図でも桑畑が確認できるエリアが主だったと考えられる。

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如何でしたでしょうか。

これまで色んなテーマでexploreしてきました。

今回は養蚕の痕跡を探るexploreなわけですが、養蚕は江戸末期から戦前までなんですね、時代的には。

だから渡来人が登場するなんて思いもよりませんでした。

記事中にも書きましたが、に、しても、武蔵国は渡来人の国と言っても過言ではないですね。

歴史を知ると、啀み合ってるのがバカらしくなりますね。痴話喧嘩、兄弟喧嘩ですよ。

2021年2月11日木曜日

日本のシルクロード、多摩エリア、その1, 甲州道中沿いの府中から立川

前回は三鷹の大沢と府中の人見で養蚕痕跡をexploreしました。

初午の三日後ということもあって、大沢の風習である五色の幟で初午を祝っている姿を見ることができました。養蚕痕跡です。

さて、今回は、人見の西側、甲州道中沿いの府中から立川までをexploreしたいと思います。

府中崖線が始まる狛江から府中までの府中崖線と甲州道中の間(品川道沿い)は以前exploreしましたから、今回はその西の、甲州道中を中心としたエリアを行きます!!

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まず訪れるのは前回exploreした人見の南に位置する、"染屋" です。

今昔マップ(1896~1909)の染屋

地名からして気になりますよね。養蚕に縁があるような。

調べてみると、やはりそうでした。

府中市によれば、

『現在の白糸台地域は、江戸時代には上染屋(かみぞめや)村、下染屋(しもぞめや)村、車返村と称されており、車返村の古名(こめい)を白糸村といいます。染屋(そめや)・白糸という地名は、その名のとおり製糸や布染めに由来するようです。この地域は昔から蚕を飼い絹糸を作っており、それを世田谷の砧に送り、糸をさらし、それを上染屋(かみぞめや)、下染屋(しもぞめや)にまわし、糸を染め上げて、八王子の織屋に送り、これを国府に納めたものである、という言い伝えがあります。近隣の「調布」「布田」といった地名と由来がよく似ています。』

と、言うことでした。

この説明の、"この地域" というのは染屋限定ではなく、もう少し広い地域を指しているように思います。

この辺り、多摩川と甲州道中に挟まれたエリアは、砧、染地、調布、布田、染屋、白糸と、糸や布に関する地名が多く残っています。"この地域" というのは、この辺り一帯を指しているのではないかと思います。

その中で、役割が決まっていたのでしょう。養蚕し、生糸を生産したら、世田谷の砧に送り、多摩川でさらしたんですね。万葉集にも、

"多摩川にさらす手作りさらさらに何そこの児のここだかなしき"

という句が残っています。

その後、染地、あるいは染屋で染色をしたんでしょうね。

上染屋八幡神社、北多摩神社誌によれば、鎮座の起源は正慶二年(一三三三)上野国碓氷郡八幡より、武蔵国府に遷座したと伝えられ、当神社本地仏銘文に上州八幡の庄弘長元年(一二六一)十二月日云々の文字がある。正平十一年(一三五六)武蔵守新田義宗社殿再建、承応二年(一六五三)八月多摩川洪水にて社地が流失したため、現在地へ遷座鎮祭した。昭和三年本地仏は国宝に指定された。

染屋不動尊、府中市によれば、国指定重要文化財の「銅像阿弥陀如来立像」が安置されている。像高48.8cm、台座12cmの小さな仏像で、円満・優美な相貌を持っています。背中の銘から、弘長(こうちょう)元(1261)年に上州八幡庄(群馬県)の友澄(ともずみ)入道によって鋳造されたことがわかる。

下染屋神明社、風土記によれば、社地年貢地、二間に三間の覆屋あり、街道の北側にて稲荷第六天を合祀る、観音院持、後世この地に移せるなり、舊地は神明社地蹟とて、今田間に三所あり、土人併せて是を染屋塚とも又染殿塚ともよべり、傳説に大古日本武尊の御衣を染し瓶を埋て明神を勧請せりと、此事尤妄説信じがたし、別に自ら由来あるべし、未だ考へず、旦三所共に神明社地と稱することいぶかし、其内一箇所神明社にして、餘の二所は或は合殿に祀る所の稲荷第六天の社地ならんか、此等のこと今皆しるべからず。

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今昔マップで1896~1909年の府中周辺を見てみると、国分寺崖線と甲州道中の間の立川段丘と、甲州道中の北側も桑畑(YとLを組み合わせたような地図記号)一色ですね。

今昔マップ(1896~1909)の府中周辺

これを迅速測図(1880~1886)で見てみると、ちょうど、地図のつぎはぎの関係で色が変わっている所から左右で、右は畑のみ(前回訪れた人見付近には桑畑は見られませんね。畑のみです。), 左は桑畑(赤下向き矢印)のみ、と言った感じになっているのが分かります(無地は草地、あるいは樹林帯)。

つまり府中は、空前の生糸ブームの前から養蚕がなされていたということが分かりますね。

迅速測図時代の府中

そんな中、訪れたのは、分梅の天王宮八雲神社です。

と、言っても、今回のテーマでは境内社のお稲荷さんを訪ねます。こちらのお稲荷さんでは、今なお初午祭を執り行っています。訪問したのは初午祭の翌週でしたが、祭りの跡はありませんでした。

そして次は、本宿の稲荷神社です。

1573年創建の伝承あり。ここも初午祭を執り行ってますが、残念ながら痕跡はありませんでした。が・・・

貼り紙が。確かに、今尚初午祭を開催してます。

先を行きましょう、谷保天満宮です。

谷保天満宮

天満宮で養蚕?!, と、思われた皆さん、はい、その通りなんですが、ここでは毎年成人式の頃に、どんど焼きを開催していて、その際、繭玉を模したお餅を焼いて食べるそうです。

どんど焼きが最初というよりは、恐らくですが、お稲荷さんの初午祭の際の養蚕風習が、初午祭は開催しなくなったものの、どんど焼きに引き継がれたということなんだと思います。

谷保天満宮、境内社のお稲荷さん

先を行きましょう、青柳稲荷神社です。

青柳稲荷神社、ここもどんど焼きと初午祭りを執り行っているということでしたが、先週開催されたはずの初午祭りの跡も残ってませんでした。

最後に、矢川弁財天です。

矢川弁財天、

ここは養蚕関係の記事を見つけられませんでしたが、ここまで蛇推しということは、養蚕の守り神だったに違いありません。

弁天池を渡る橋の欄干に蛇

そして狛蛇

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如何でしたでしょうか。

大沢のように初午祭りの痕跡が残っているかと思いましたが、きれいに片付けられていました。残念。

養蚕痕跡というよりは、ただただ神社を巡ったexploreとなりました。

しかし、府中から立川にかけては、迅速測図(1880~1886)でも桑畑が確認できました。これは、人見、大沢品川道沿い世田谷区杉並区とは異なる傾向です。

2021年2月6日土曜日

日本のシルクロード、世田谷周辺、その5, 三鷹の大沢と府中の人見

前回、府中崖線(古品川道、いききの道、あるいは筏道)と甲州道中に挟まれたエリアの養蚕痕跡をexploreしました。

府中崖線の上、ハケ上ですから、水に不便で、水田は出来ず、畑が多かった土地ですが、生糸の輸出急増に伴って、桑畑に変えられていき、今昔マップ(1896~1909)を見ると一面桑畑でしたね。

と、言うことで、次のexplore先を見つけるべく、府中崖線のハケ上、国分寺崖線のハケ上を、今昔マップ(1896~1909)でチェックしてみたのです。

府中崖線、国分寺崖線

すると気付きました。

ハケ上ならどこでも良いというわけではないんですね。

ハケ上の、且つ、人が住んでいる所、そういう所に桑畑があるんです。

ハケ上であっても、人家が無ければ桑畑も無い。

まずこの図は前回同様、府中崖線と国分寺崖線の間、つまり、立川段丘のあるエリアです。前回よりも北、甲州道中より北のエリアとなります。赤丸で囲った所が人家がある集落で、そこにYとLの桑畑地図記号が確認できます。が、人家が無いエリアは針葉樹(三角にチョン)と広葉樹(丸にちょん)の地図記号、つまり樹林帯ですね。ハケ上ならばどこもかしこも桑畑というわけではなく、人家の近くにしか桑畑は分布してませんでした。蚕が唯一口にするのは桑の葉です。それも良質でなければならなかったそうですから、直ぐに駆け付けられる所じゃないといけなかったということが、これからも分かりますね。

前回のエリアは府中崖線と甲州道中の間ですが、人家のある甲州道中から府中崖線までそう遠くなく、だから全面桑畑だったんですね。

前回の品川道周辺の桑畑の密集具合

この気付きに基づいて今昔マップ(1896〜1909)を、前々回の深大寺の西隣から見てみると、まずは大沢の集落に、その西は少し間を空けて人見の集落に桑畑があることが分かります。その間は人家が無く桑畑もありません。人っ子一人住まない樹林帯です。

大沢、人見。大沢の右(東)にも集落ごとに桑畑があるが今は国立天文台になっている。

人見まで来ると直ぐ南が甲州道中ですから、甲州道中を東へなぞってみると、人家がある甲州道中沿いの北側(南側は前回済)はほぼ桑畑ですが、それより北は広葉樹、針葉樹の樹林帯、あるいは草地(白地)です。

と、言うことで今回は、深大寺エリアの西側、三鷹の大沢と府中の人見に養蚕痕跡を探るexploreです。

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まずは大沢の集落です、大沢の里古民家に向かいます。

大沢の里古民家、嘗ての箕輪家の住宅、1902年築造

"三鷹の民俗" によれば、この辺りでは明治の終わりから戦前まで、養蚕が盛んで、農家ならどこでもやっていたそうです。

この古民家でも養蚕をやっていました。上記写真で、屋根の上にまた1つ屋根がありますがこれは換気用で養蚕農家の特徴です。

この屋根裏部屋がお蚕様の部屋でした。

次に向かうのは対岸の大沢の里水車経営農家です。

大沢の里水車経営の農家

ここでも養蚕をやっていました。

お蚕様の屋根裏部屋

養蚕道具

ここ大沢では、養蚕農家は養蚕の無事を祈り、榛名、御岳、蚕影山の講を組織し、代参していたそうです。

榛名神社は雹・雷除けです。蚕の餌となる桑の順調な育成を祈ったのです。

御嶽神社は盗難除け、丹精込めて苦労して育てた蚕や繭、糸などが盗まれないようにということです。

蚕影山神社はそのものズバリですね。

代参の日待ちは、立ち日待ちと帰り日待ちの2回あったそうで、立ち日待ちは当番の家で宴会し、立つ日を待ったそうです。蚕影山神社への立ち日待ちの場合は、更に、小豆粥と餅で繭玉を作ったそうです。

帰り日待ちでは、榛名神社の御札を畑に立て、御嶽神社は蔵や玄関に立て、蚕影山神社は床の間に掛け軸を掛け拝んだそうです。

ハケ上の畑、もしかしたらお札があるかもしれないと思い探索しましたが、ありませんでした。迅速測図でも畑ですから、江戸時代から続く畑だと思います。

しかし、お稲荷さんは、嘗ての養蚕が盛んだった頃の痕跡が残ってました。

ハケ途中のお稲荷さん、犬か狐か判断に迷いましたが、尻尾が大きかったので狐と判断しました。お稲荷さんです。ここ大沢では、初午の際、五色の幟で飾り付け、油揚げとメザシを備えて祝ったそうです。養蚕痕跡ですね。

箕輪家でも

道端のお稲荷さんも

本日は初午の数日後。なので、よく残ってましたね。

先を行きましょう、人見の集落です。

ここには人見稲荷神社があります。

人見稲荷神社

ここはその名の通りお稲荷さんで、1597年に周辺の稲荷神社を合祀したそうですが、養蚕という本題から外れますが、非常に興味深い歴史があります。

風土記には大したこと書いてないんですが、北多摩神社誌によれば、

『武蔵国造兄武比命の祀られた社であり、六所宮客来三所之神と称される。寛喜三年武蔵左衛門尉資頼神殿奉行として三所之宮を造営され・・・』

と、あります。

冒頭の、"武蔵国造兄武比命の祀られた" というのがどうやら解釈の分かれる所のようで、"武蔵国造兄武比命祀られた(受け身)" と解釈するなら、先代旧事本紀によれば、131~190年の成務天皇の時代に初代无邪志国造となった兄武比命が、誰かによって祀られた、恐らく131~190年より後の時代ですよね、と、言うことになります。

これが、"武蔵国造兄武比命祀られた(尊敬語)" と解釈するなら、131~190年に、兄武比命自身が何かを祀ったということになります。

では何を祀ったのかと言うと、それが、その後の文言である、"
六所宮客来三所之神" です。

じゃあこの、"六所宮客来三所之神" とは何なのか。

六所宮、つまり、大國魂神社の客来 = 客として来た神 = 三所之神を祀ったということなんですが、じゃあ、"三所之神" とは何なのか。

これは、武蔵国一宮である小野神社の神、倉稲魂神、天下春命、瀬織津姫の三柱のことだというのです。

瀬織津姫を祀る祓戸神社

その後、寛喜三年(1231)に、武蔵左衛門尉資頼、この人は神殿奉行だったんですが、改めて御宮を造営したと。

そうなるとここは4つ目の小野神社ですね。

他にも色々な解釈があるようで、
  1. 兄武比命によって小野神社が創建され、それとは別に、武蔵左衛門尉資頼によって1231年にこの地に勧請された。
  2. 三所之宮は、武蔵国三宮である大宮氷川神社である。
  3. 2については、人見街道を東に行くと大宮八幡神社に至るが、更に行くと~今は道筋がハッキリしませんが~大宮氷川神社に至る。大宮氷川神社は、国府祭の際、大國魂神社に向かう時、ここ人見稲荷神社を御旅所とした。
  4. 三所之宮とは熊野の本宮、新宮、那智のこと
と、何が正解が分かりませんが、武蔵国成立、あるいは武蔵国府がこの地に設定された頃に、何となくルーツがあるような、最も新しかったとしても1231年ですから、非常に歴史深い神社、エリアということになりますね。

さて、養蚕の本題に戻り、稲荷神社ですから、調べると今は初午祭をやってないようですが、嘗ては初午に繭玉団子でも作ったんではないでしょうか。

そのまま浅間山を登り浅間神社を参りましょう。

浅間神社

この山も上記今昔マップ(1896~1909)でお分かりの通り、今は雑木林ですが、一面に桑の木が植えられていたんですね。

いやぁ、本当にスゴイ。

浅間山は立川段丘の独立峰ですから、眺望がよく西への眺望では富士山もよく見えます。

浅間山は3つピークがあって、浅間神社があるピークでは実は富士山は見えません。西のピークからはこのように良く見えます。

だから、浅間神社ということなんだも思いますが、浅間神社の祭神は木花咲耶姫で、火防の神、だけでなく、養蚕の神でもありました。

養蚕盛んなりし頃は、養蚕の無事をお祈りしたのではないでしょうか。

さて、人見村の最後は、養蚕農家の家屋をそのまま活用したカフェに寄りランチとしましょう。

人見稲荷神社参道入口の目の前、おもだか。本日はコロナの影響か臨時休業でランチ頂けず。

その後、甲州道中沿いの稲荷神社を巡りましたが、初午祭をやってる、やってた痕跡も無く、榛名講や御岳講、三峰講の痕跡も無く、今回のexploreはこれにて終了としたいと思います。

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如何でしたでしょうか。

大沢集落の初午の風習が本日のハイライトでした。初午の2/3から3日しか経ってなかったのでよく残ってました。

でも甲州道中沿いの神社には痕跡無し。今昔マップ(1896~1909)を見るとあれだけ盛んだった養蚕ですが、痕跡を探すのは難しいですね。