遡ろうと思えば縄文時代まで遡れる、従って最も古い品川道、"古品川道" とでも言いましょうか、"いききの道" や "筏道等" とも呼ばれますが、府中崖線のエッジを行く道、この道と甲州道中に挟まれたエリア、ここが一面桑畑だったんです。
布田付近をzoom upしました。YとLを組み合わせたような記号が桑畑です。 |
このど真ん中を行く道、それが品川道です。
今回は、行きは古品川道、帰りは品川道を使い、養蚕痕跡をexploreしたいと思います。
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今昔マップ(1896~1909)を見るとこの沖積低地には殆ど桑畑はありません(上図参照)。古品川道と甲州道中の間は、つまり崖上は、こんなにも桑畑だらけなのに。
この時にも言いましたが、府中崖線(古品川道)より多摩川寄りの沖積低地エリアは、多摩川の氾濫原で(多摩川洪水時は遊水地の機能も果たしていました。), よって、人は住めず、しかし、水には恵まれ、肥沃な大地でしたから、一面の田畑で、千町耕地と呼ばれていました。
田畑に合った土地ということで桑畑が無かったんだと思いますが、ごく一部、多摩川沿いにポツポツとあり、それは、養蚕が国策として奨励され、爆発的に広がる前、迅速測図の時代(1880~1886)からあった桑畑です。
ここは、田畑にもならないようなところだったんだと思います。
迅速測図で多摩川沿いに桑畑が確認できる。多くが堤防の内側で、田畑にならない荒れ地中の荒れ地だったと思われる。 |
下記GoogleMapsを見てください。赤ポイント、赤ポリゴンが桑畑です。品川道沿いの桑畑意外に多摩川縁にもポツポツと桑畑があるのが分かると思います。
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まず最初は柳久保稲荷神社です。
柳久保稲荷神社 |
色々と調べましたが養蚕に関する風習は確認できず、初午祭を執り行っているかどうかの情報も見つかりませんでした。
が、今昔マップ(1896~1909)では桑畑に囲まれてますから、恐らく養蚕の無事を祈る対象だったと推測します。
画面真ん中の鳥居マークが柳久保稲荷神社、周りは桑畑 |
また、境内の案内によれば、元はここの南の柳窪と呼ばれるところに鎮座していたが、度重なる洪水により台地上に環座したとのこと。
迅速測図を見るとその時点(1880~1886)で既に現在地にあります。また、すぐ隣には八幡神社があったようですが、今は写真の通りです。
今昔マップ(1896~1909)を見るとその時点で既に八幡様は桑畑にとって代わってますね。お稲荷さんは養蚕守護ですが八幡さんは養蚕には役に立たない、そういうことでしょうか???
画面真ん中に配置。青ポイントが柳久保稲荷神社で、迅速測図にも稲荷の文字がある。その直ぐ東に八幡祠の文字があるが今は無い。 |
先を行きましょう。何度も来た道ですが、改めて、馬頭観音なんか無いかなと思いながら走ります。
馬頭観音には出会えないまま、上石原若宮八幡神社に到着です。
境内社の稲荷神社 |
ここで注目は御大の八幡様ではなく境内社の稲荷神社です。ここも養蚕の習慣や初午祭の記事は見つかりませんでしたが、下記今昔マップを見てお分かりの通り、桑畑の中にあったといっても過言ではなく、お稲荷さんということで、初午祭で養蚕守護を祈っていたに違いありません。
画面真ん中に鳥居マークが2つ。東のものが八幡様、西は第六天、牛頭天王、秋葉権現、天満宮の4つとお稲荷さんでした。1909年、西側の敷地は無くなり5柱全て東側の八幡様の敷地に環座されました。この今昔マップではまだ西に在りますね。この今昔マップは1896~1909年ですから、作成時はギリギリまだ残っていたということです。面白い。 |
先を行きましょう、車返福徳弁財天です。
車返福徳弁財天 |
弁財天は過去もご紹介しましたが、経典に、"水辺に住む" とあり、水神と集合し、水神は蛇や龍と捉えられ、蛇は蚕や繭を食べる鼠を食べてくれますから、養蚕農家の守護神となっていきました。
車返福徳弁財天は、やはり、WEBで検索してもさしたる情報は出てこないんですが、下記今昔マップのように、桑畑の中にありますから、養蚕の守護神として信仰を集めたと推測します。
今昔マップで確認出来る鳥居マークは2つで、東の方が今回の車返福徳弁才天と思いきや、実はそれは車返稲荷神社であり、西の方はと言うと、車返諏訪神社であって、車返福徳弁才天は今昔マップ(1896~1909)では確認出来ません。しかし、境内の還宮碑によると隣接地にあったとありますから、この辺りにあったことは間違い無く、桑畑の中にあったと言えます。
境内にある還宮碑に、嘗ての鎮座地は、豊かな自然林に囲まれ周囲の濠は川魚の宝庫だったとあるので、今の鎮座地の直ぐ西に針葉樹の地図記号があり、その直ぐ隣に4本の川が合流していますから、ここが嘗ての鎮座地ではないかと想像しています。 |
実は帰り道に寄ったんですが、この2つの神社もここでご紹介しましょう。
車返八幡神社の境内社稲荷神社 |
ここもさしたる情報は得られませんでしたが、上図今昔マップで分かる通り、桑畑の真ん中にありましたから、養蚕守護神だったと思われます。
車返諏訪神社 |
諏訪神社は蛇ですから、弁天様と同じく、養蚕守護神と捉えられていた可能性はあると思います。この車返諏訪神社にはさしたる情報はありませんでしたが、実際、諏訪神社が養蚕守護だとされた神社もあります。
車返稲荷神社 |
ここは初午祭を執り行っていたそうですから、確かな養蚕痕跡と言えそうです。
真ん中が馬頭観音 |
以前も言いましたが、馬頭観音は馬ですから馬繋がりで養蚕守護神となっていきました。
馬頭観音の立地 |
立地からして、ここもその可能性があると思います。
折り返して、飛田給駅を過ぎた辺り、道生神社です。
道生神社 |
ここは稲荷神社ですから、他同様、養蚕守護神だったと推測します。
先を行きましょう。赤稲荷です。
この一角、良い雰囲気ですね。 |
調布市史 民俗編によれば、現在もビシャ講(稲荷講)が続いているそうです。ビシャ講とは初午に行われる初午祭とセットですから、このお稲荷さんは養蚕守護神だったのでしょう。
先を行きましょう、杉崎稲荷と三峯神社です。
杉崎稲荷 |
ここは初午祭を執り行ってます。養蚕痕跡ですね。杉崎家によって祀られてます。
三峯神社 |
こちらは三峯神社です。同じく杉崎家です。
以前書いたように三峯神社は養蚕守護のお札を出していましたから、秩父は養蚕が盛んでしたし、だから、養蚕守護神として祀られてました。
中を見るとお札が・・・
みつみねじんじゃに祀られている御札 |
今日はここがハイライトでした。
最初発見した時、おおーっと思いましたが、よく見ると、養蚕守護御札はありませんでした。流石に、もう、養蚕はやってませんしね。
左から、盗賊除け、眷属拝借盗賊除け火防、火防とあります。お札の新しさから今も講が続いていると想定されます。
明治の養蚕が凄かった頃は、間違い無く、養蚕守護のお札ももらってきていたんだと思います。
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如何でしたでしょうか。
もう何度も行った所。正直モチベーションは終始上がらなかったですが、最後の三峯神社のお札で救われました。養蚕守護御札はありませんでしたが、講が続いていることが分かったからです。間違い無く、嘗ては養蚕守護御札ももらってた、つまり養蚕痕跡だと思います。
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