2020年12月21日月曜日

高麗郡 2, 渡来の道(渡来の道最終回)

 前回の続き

さて、いよいよ(いよいよと意気込んでもそんなにたくさんの読者はいませんが・・・)本シリーズ最終回です。

高麗川駅まで輪行。まずは野々宮神社に向かいます。

高麗野々宮神社

ここはなかなか面白いですね。
  • 日高市掲示
    野々宮神社の創建は定かではないが、大宝3年(703)に社殿を建築した伝承がある古社です。祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っています。高麗川の川辺に鎮座し「祓の社」といわれています。当社は伊勢神宮に仕える斎王に選ばれた皇女、女王が身を清めるため1年間こもった嵯峨の野宮神社の分社であると考えられています。また社蔵文書には「当社高麗王の尊霊を祀る」との記述がみられることから高麗郡の設置や高麗王若光との関係がうかがわれます。
  • 埼玉の神社
    • 武蔵野台地を流れる高麗川の沿岸に開ける野々宮は、そのたたずまいに古代の人々の生活の営みを感じさせる所である。社家である野宮家の先祖は日向国タカサダの地より来住したとされ、代々長男は高の字を名乗りに用いるという。また、同じ社号を持つ狭山市北入曾の野々宮神社社家の宮崎家の口碑には、先祖は神武天皇東征に従い日向国より大和に入り、やがて朝命により兄弟三人東国に派遣され、一人は入間(北入曾)に、一人は高麗(当社社家先祖)に、一人は鴻巣に居を構えて、それぞれ野々宮神社を祀り、土地の経営に当たったという。
    • 社記に「四十二代文武天皇の大宝三年社殿修築」の記事がある。大宝三年(七〇三)とは、同元年に施行された大宝律令によって引田朝臣祖父が武蔵国の国司として赴任した年で、当社修築はこれにかかわるものであろう。なお、当時の国府は府中であったとされている。
    • 霊亀二年(七一六)に駿河以東七カ国の高麗人一七九九人を当地方に移して高麗郡を設置する。社伝によると高麗王若光遠乗りの折、当社近くにて落馬し、これは身の穢によるとして当社前に祓を修した。また、野宮とは神宮に仕える斎宮が、奉仕に先立って一年間潔斎生活を送る斎殿を指している。当社は高麗川に、入間の野々宮神社は不老川に、鴻巣の野々宮神社は荒川にと、それぞれ川辺に鎮座し、祀職は祓の伝承地日向出身と伝えている、以上のことは野々宮神社が“祓の社”としての役割を持っていることを物語るものであろう。
    • 『明細帳』に、社殿の再建を天徳三年(九五九)とし、神田隼人・新井縫之助の建立、その後数度の再営を経て、現在の社殿は寛永三年と記している。また、内神宮と称する内陣の造営は享保一〇年である。
    • 『風土記稿』に「野々宮社 天照大神・瓊々杵尊・猿田彦命・倭姫命を祭と云、慶安二年四石五斗の御朱印を賜ふ、例祭九月九日、当村及び楡木村・猿田村・新堀村・栗坪村等の鎮守なり、神職野々宮市正吉田家の配下なり」とある。猿田村は、高麗市百苗の一つ神田姓が多く、古くは高麗神社の神饌田があったと伝えている。当社の北に、高麗川を挟んで高麗神社があるが、当社の社蔵文書に「当社高麗王の尊霊を祀る」との記事があり、高麗神社との深い関係をうかがわせる。しかし、高麗神社が高麗山大宮寺と称することに対して、当社が高麗山野々宮大宮司であったため、音読による誤解を招くと抗議する間柄に変化した時代もある。祀職を務める野々宮家は、所蔵文書「天文十六年十一月十九日・覚之事(六所宮祭事ニ付参集覚写)」に野々宮勘子の名が残る旧家で、代々大宮司を称している。

北入曽の野々宮神社、2019/8訪問

ということで、高麗の野々宮神社は、北入曽の野々宮神社もそうですが、716年に、高麗王 "玄武" 若光が高句麗渡来人を引き連れてここ高麗郡に入植してきた時より前からこの地に鎮座していたと目される古社で、且つ、高麗神社との関係も深い神社ということになります。

先を行きましょう、高麗山聖天院勝楽寺です。

山門と将軍標

高麗王 "玄武" 若光の墓、こういう形式のものは国内では見ないですよね。

高麗の集落を鳥瞰する若光の像

若光が見ている高麗の里

本堂から鐘楼越しの富士山

ここはこのシリーズの、"小榑村から勝楽寺村へ", で、語ってます。要約して以下に。

ここ高麗郡の東、狭山湖・多摩湖畔に、やはり、勝楽寺(辰爾山仏蔵院)があります。

辰爾山仏蔵院勝楽寺

縁起によれば、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に勝楽寺村に創建したということです。

一方、高麗山聖天院勝楽寺はというと、
  • 716年の高麗人移住の郡司だった高麗王若光は、没後、神と祀られ、高麗神社の創建となったが、その侍念僧勝楽は若光の冥福を祈る為、一寺を建立しようとしたものの果たせず、751年に没してしまったので、若光の3男聖雲と孫の弘仁が、勝楽の意志を継ぎ、寺を建て、その遺骨を納めて冥福を祈ったのが、高麗山聖天院勝楽寺である。
  • また、高麗神社によると、聖雲が勝楽の冥福を祈る為、勝楽が高句麗より携えて来た歓喜天を安置し開基した。
ということなんですが、辰爾山仏像院勝楽寺の縁起には、先の、百済より帰化した王仁の五代孫である王辰爾の子が、父王辰爾の菩提の為に開山したという話がある一方、

『716年に、高麗人来居して一寺を建て、阿弥陀・歓喜天を安置、聖天院勝楽寺と呼び、2年後に2尊を抱いて高麗村に一寺を建て、それを聖天院勝楽寺という。』

とも、記されているとのことです。

まとめると、こういうことではないでしょうか。
  • 716年の高麗郡設置に伴い、小榑 → 柳瀬川遡上 → 勝楽寺と移動、移住し、辰爾山仏蔵院勝楽寺を開山
  • 718年、高麗郡に、高麗山聖天院勝楽寺を開山(移設?)
  • 751年、勝楽没し、若光の子聖雲と孫弘仁が、勝楽の菩提の為、勝楽寺に遺骨を収めた。
先を行きましょう、高麗神社です。

"高" と、"麗" の間に小さく、"句"

拝殿

重文高麗家住宅

主祭神は高麗王 "玄武" 若光ですから、716年の高麗郡成立後、若光が亡くなった時に創建ということになりますか。

これまで散々巡ってきた高麗郡内の白鬚神社の本社ということになります。

先を行きましょう、九万八千神社です。

聖天院も高麗神社も非常にキレイで手入れも行き届いていて清々しく非常に良かったんですな、実はココが一番良かった!!!

このこんもりとした森が鎮守の森

参拝後、振り返った所、鳥居の奥は、、、

、、、巾着田

逆にこの神社の背後は日和田山、まるで、日和田山の遥拝所のようです。

"九万" は、"高麗" だろうということでここも高麗郡内に設置された白鬚神社の内の一つと思われます。

市内最古と言われていたり、背後は高麗郡の霊峰日和田山で、手前は巾着田、巾着田は高麗郡成立時、高句麗渡来人が最初に開拓した場所ということで、何かありそうな神社です。だから寄りました。

で、実際来てみたら、冒頭のように、非常に良かったです。

まず、ロケーションですね。ご覧の通りです。ここが高麗郡の最初の中心地なのではないかと思わせます。

それから雰囲気、空気感ですね。何と言うか、"ずっと昔からこうだったんだろうな", というように感じるんです。

さて、高句麗渡来人達の行き着く先、高麗郡の中心地、聖天院と高麗神社を巡る旅、ここで終わろうと思います。

高麗峠を越えて飯能市街に向かいましょう。若光達もここを通ったはずです。向きは逆ですが。

高麗峠、にしてもトレッキングしてる人多かったです。先日の加治丘陵では誰とも会わなかったのに。道ですが、今回はクロモリロードだったので初めから乗車する気は無かったんですが、MTBだとしても、石が多いので、サスは必須ですね。

萩の峰、ここでランチ

掘割が残る道筋

小一時間で峠を越え、飯能市街に入り、今日は北風が強風でサミーヘイガー、サムソン冬木だったので、体力も時間も余裕がありましたが、ここで終わりとし、東飯能から輪行で帰りました。

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如何でしたでしょうか。

今一度、この、"渡来の道" シリーズ, "716年の高句麗渡来人大移動の道筋をexploreする。" を整理してみます。

まず地図です。このシリーズの記事中に何度か載せてますが改めて。


大磯の高来神社と高麗郡の高麗神社はピッタリ南北の位置関係(緑線)となります。

この緑線を軸に宮田氏の説を参考にしながら、古道を繋いでいったのが青線となります。

黒線は中野氏の説を踏襲しております。

紫線は大磯から高麗郡の道筋ではなく深大寺エリアから高麗郡への道筋で、私が見つけたルートです。

マーカは色で表現してます。例えばグレーは白鬚神社です。が、記事で異る意味合いで使っていたりもするので、詳しくは各記事をご覧下さい。

次に各記事です。

また、テーマを探さないといけないですね。
ではまた。

2020年12月14日月曜日

高麗郡 1, 渡来の道

前回の続き

さぁ、白子神社の次は、鶴ヶ島の白鬚神社です。今回は北から南へ進みます。

鶴ヶ島白鬚神社

ここも、716年の高麗郡成立時に、郡内に26 (また新しい数字)の白鬚神社を勧請した内の一つということです。これで6つ目ですね。



また、ここは雨乞いが有名で、藁、竹、縄で作った大きな蛇を白鬚神社から雷電神社へ移動させるということで、これはまた、稲城の妙見寺の蛇より行事と似ている、妙見 = 北辰 = 玄武 = 高麗王若光と連想しましたが、目的が異なるので関係は無さそうです。

先を行きましょう、笠幡の白鬚神社です。

笠幡白鬚神社

埼玉の神社によれば、ここも高麗郡成立時の神社です。7つ目です。

ここ笠幡には、何故か、大山阿夫利神社と箱根神社があるんです。

大山阿夫利神社

ズームアップ

箱根神社、大掃除のようでこれ以上は遠慮しました。


人の移動があったことを示唆します。

箱根神社ですが、箱根神社に伝わる、"箱根権現縁起絵巻"によると、

『昔、天竺の斯羅奈国の大臣源中将には、姫の常在御前と、その義妹、霊鷲御前の異母の二娘があったが、継母は性悪で常在を無きものにしようとした。そうした義姉を妹霊鷲が事あるごとに気遣っていたが、中将が不在中に危難に遭った二人は波羅奈国の王子、太郎と二郎に救われ、おのおのその妃となる。その後、帰宅した中将は、人生をはかなみ入道して二人を捜し、波羅奈国で二娘と再会、やがて後世の願いのため五人で日本に渡海することを決心、五人が海を渡り到着したのは相模国大磯の浜であった。 上陸した五人は高麗寺にいったん止まったが、箱根山という霊験あらたかな場所のあると聞き、そこに至った。父中将入道と霊鷲・二郎夫妻が箱根に永く止まることとなり、一方、常在・太郎夫妻は伊豆山に入ることとなった。中将ら三人が神となったのが箱根三社権現、常在・太郎夫妻が神となったのが伊豆山二所権現である。』

と、言うことで、大磯の高来神社(高麗寺)と箱根神社はただならぬ関係があり、その箱根神社がここ高麗郡に祀られているということです。

先を行きましょう、こんな素敵な古道を戻って、

今はただの畑と田んぼの畦道ですが、実はここがメインストリート古道です。

高萩の駒形神社です。

駒形神社、境内をよく見ると木がたくさん切られているのが分かります。1300年もの歴史がある神社です。鬱蒼とした鎮守の森も残してほしかったですが、周りは新しい住宅街で、だから残せなかったのでしょう。神社だけでも残ったので良しとしましょうか。

白鬚じゃないの?!

ということですが、境内案内によれば、

"当社は、高麗若光によって、霊亀2年(716年)に創建されたと伝えられる。社記によれば、若光は、当地開拓にあたり、まず、猿田彦命、武内宿禰命の2柱を祀り、次いで、居住地の東方に保食命、天石戸別命、日本武尊の3柱を祀ったと記し、これを当社の創始としている。また、駒形は高麗方に通じるとも言われ、当社と高句麗人とは深い関わりがあったと思われる。現在では、当初と異なるご祭神が迎えられているが、その変遷は不詳となる。"

ということで、これで8つ目ということになります。

駒形 = 高麗形は強引なこじつけではなく、このシリーズのこの回でも事例があります。

さて、この辺りは女影という地区で、高麗郡の郡寺である女影廃寺があったとされるエリアです。

この視界いっぱいのエリアに女影廃寺があった。

南北には中世では鎌倉街道上道となった古道と高麗街道の辻に当たり、交通の要衝でした。

先を行きましょう。

素敵な古道です。

上記のような素敵な風景の中、前回訪れた白子神社まで来ました。ここを南に折れ、前回実走した飯能街道を南下し、加治丘陵を越えます。

ここは滝山古街道で鎌倉街道の脇道だったようです。


動画も入れましたが念のため写真も

加治丘陵に残る滝山古街道の掘割道、掘割の両サイドの土手は杉並木となっています。このことからここが古道であったことが分かります。

滝山古街道、716年に、"北の王", 高麗王"玄武"若光も通ったか。

森の中に掘割道が残ります。中世、あるいはもっと前から変わらぬ風景でしょうか。

そしてここにも、高麗郡成立時に創建の寺竹白鬚神社があります。

寺竹白鬚神社

埼玉の神社によれば、

"当地は霞川流域にあり、古くは金子郷寺竹村と称した。金子は『古今要覧稿』姓氏の部金子の項に、物部監古連公は葛野韓国連の祖であるとあり、霊亀二年高麗人の当地入植にかかわる地名である。当社の創建もまたこの時であり、高麗人の祀る神がこの地に祀られたものであろう。"

と、あります。


先を行きましょう、こんな素敵な古道を行きながら。

狭山茶処。今越えてきた加治丘陵と茶畑です、いやぁ、癒やされます。

箱根ヶ崎の狭山神社です。

狭山神社

そもそも箱根ヶ崎の地名の由来ですが、この狭山神社に祀られている箱根大権現のようです。

私はこんなにも各地を歴史をテーマにexploreしていますが、箱根以外で箱根神社を見たことがありません。

それがここにはもう2つも。やはり、高句麗渡来人入植の地だからでしょうか。

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如何でしたでしょうか。

白鬚神社がこれほどまでに集約しているとは、驚きでした。

白鬚神社の本社は滋賀県ですが、それがここ旧高麗郡エリアに集まっていると考えるよりも、旧高麗郡だから集まっていると考えた方が自然ですね。

また、面白いのは、そう言えば隅田川沿いの墨田区にも白鬚神社が集まってますが、岩井堂観音の縁起を聞くと、隅田川周辺も高句麗渡来人の縁の地かもしれませんね。

箱根神社、大山阿夫利神社の存在も、大磯とこの地の人の移動を物語っており、ひっそりと歴史を語っているんだなぁと大変興味深かったです。

次回はいよいよ本シリーズの最終回、高麗神社、聖天院を巡ります。

2020年12月7日月曜日

奥多摩・青梅から高麗郡へ、渡来の道

このシリーズの前回は、深大寺エリア、稲城と奥多摩・青梅の3エリアで、延喜式論社、穴澤天神社、虎柏(狛)神社、青渭神社、大麻止乃豆乃天神社、そしてこれは論社ではありませんが、妙見信仰が、共通して存在している、あたかも多摩川をルートに人々の移動があったかのように、その人々とは深大寺エリアに色濃くその伝承が残る高句麗渡来人なのではないか、という点について、exploreしました。

机上事前勉強、実走を経た結論は、大麻止乃豆乃天神社と妙見信仰を除き、高句麗渡来人の移動に伴い、これら論社も移動した可能性がある、しかし、穴澤天神社と青渭神社については、出雲族の可能性も否定できない、というものでした。
※武蔵御岳神社は大麻止乃豆乃天神社ではなく蔵王信仰、青梅の妙見信仰は平将門の影響との私的結論

今回は、奥多摩・青梅エリアの高句麗渡来人の痕跡を巡り、その後、いよいよ山越えし、高麗郡に入っていきます。

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奥多摩まで輪行、奥多摩むかし道で白髭の大岩に向かいます。

むかし道の道中の景色、そこかしこに紅葉が

こういった地蔵、庚申塔、馬頭観音の類が多く残り風情があります。

快適なむかし道から、白髭の大岩に到着です。

それにしても見事な断層です。石灰岩が白く光ってますね。

この白髭神社は、創建年詳らかならず、ご祭神は塩土翁神、ご神体はこの大岩、奥多摩町によれば、高麗郡の高麗神社の分祀とのことです。

ドもろですね。

嘗て高麗郡に居た高句麗渡来人の一族が、山を越え奥多摩に来た際、持ち込んだものと思われます。

今回は寄りませんでしたが、ここ奥多摩にはもう一つ、長畑にも白髭神社があります。

さて、青梅街道を出来る限り旧道を選びながら青梅に向かいましょう。

白丸の辺りで、現在の青梅街道にあるトンネルは白丸トンネル、その東側、多摩川に近い方にある旧道にあるトンネルは旧青梅街道の数馬隊道です。

数馬隊道、大正期。石灰岩を手彫りですね。すごい。

ここには更に昔の青梅街道が残っています。

数馬の切り通し、元禄期に切り通された。

そして青梅に到着。青梅坂下の丁字路で山に向かいます。

早速、青梅坂トンネルで峠を越えます。ここの尾根は多摩川と荒川の分水嶺です。荒川はここまで迫ってるんですね。

小曽木(おそき)の白鬚神社に寄りましょう。

小曽木白鬚神社、にしても今朝は寒かった。霜がスゴかったし、電線からは太陽で溶けた氷水がポタポタと。

創建年詳らかならずも、往古からの口碑に依れば、小曽木村の住民、若林家の12世紀前の祖、若林五郎左工門が、猿田彦神を勧請したと伝わります。

この若林氏が、高麗郡と関係有りそうなら完璧だと、色々調べましたが、どうやら小曽木に若林家はあるようですが、高麗郡に縁があるかどうかまでは分かりませんでした。

しかし、高麗郡に高麗神社(白鬚神社本社)が有り、奥多摩にもその分祀が有って、その途中にあるこの白鬚神社も、その流れと考えるのが自然というもの。

と、言うことで寄り道したのでした。

さて、小曽木には渡来人とは無関係ですが、もう1つ面白い歴史遺産があります。

日本武尊東征凱旋の折、この地の岩場に甲冑を納めたとの伝承があり、"岩蔵" の地名の由来になったということと、その甲冑が、今、武蔵御嶽神社にある甲冑であるということ、岩蔵の御嶽神社は、この時(日本武尊東征凱旋)の創建であるということです。

岩蔵御嶽神社、何やら集落の方々が集まってました。

岩蔵の御嶽神社の祭神は、大国主大神、少彦名神、広国押武金日尊で、この3柱は全て蔵王権現と同一視されていますから、つまりは蔵王権現が祭神ということになります。

武蔵御嶽神社の祭神もこの3柱ですから、この2つの御嶽神社は、2つで1つ、対の関係ということになるのではないでしょうか。

武蔵御嶽神社の祭神はもう1柱あり、それが、櫛真智命ですが、こうして見ても、やはり、後付感がありますよね。

祭神はそういうことなんですが、御神体はというと、これは、白鬚の大岩同様、岩蔵の大岩なのではないでしょうか。

岩蔵の大岩

この点では奥多摩の白鬚の大岩との共通性も見られますね。

尚、川を挟んだ向こうの尾根にあるのが先程の白鬚神社です。

先に進みます。岩井堂観音です。

継体天皇の御代、旅の高僧がここに尊像を安置し、その後、安閑天皇の御代に、台風となり、尊像は御堂ごと流され、成木川、入間川、隅田川と流れ、推古天皇の御代、浅草の檜前浜成・竹成兄弟の漁の網へとかかり、後に浅草寺の本尊となったという伝承があります。

この伝承も面白いんですが、ここは巨石信仰でしょう。

岩井堂観音が祀られている石灰岩

岩山の頂上、意味有りげな、そこに置きました感のある岩とその手前の平らなスペース

頂上からの眺望、富士山もキレイに見えました。画面左です。ズームアップしてご確認下さい。

奥多摩白鬚の大岩、数馬の切り通し(まぁ、これは信仰対象ではありませんが), 小曽木岩藏の大岩、そしてここ岩井堂観音と、石灰岩地質から来る巨石信仰を元にした信仰の共通性が見られますね。

さて、ここで下図を見てください。

奥多摩、青梅、飯能、日高

グレーポイントに注目してください。これが白鬚神社です。

地図真ん中やや上にグレーポイントが5つあるのが分かります。

よく見ると川沿いで、この川は入間川。入間川沿いに高句麗渡来人が進出していったことが分かります。

これを頭に入れてその他の白鬚神社を見てみると、川沿いに立地されているケースが多く、716年、高麗王 "玄武" 若光率いる高句麗渡来人たちは、この地に移住となり、高麗郡が設立されますが、聖天院、高麗神社がある地を中心として、そこから、入間川やその支流を頼りに広がっていったことが分かりますね。

と、言うことで、これらの白鬚神社を回りましょう。山王峠を越えてまずは唐竹の白鬚神社です。

唐竹白鬚神社

"唐竹" とは、、、と、思いましたがやはり、716年の高句麗渡来人、高麗郡移住後、郡内6地に白鬚神社を分祀したという伝承があり、ここはその内の1つで、この時、高句麗渡来人が高句麗から移した竹を植えたことに由来するとのことです。

ズバリでしたね。

先を行きましょう、原市場の白鬚神社です。

原市場白鬚神社、地元の重鎮たちの何か集まりがあったようで鳥居の外から参拝と撮影です。

飯能市史によれば、ここも唐竹同様、創建年詳らかならずも、716年の高麗郡成立時に、猿田彦大神を郡内28ヶ所に配祀し、白鬚大明神と称した内の1社ということです。唐竹は6社ということでしたが増えましたね。。。

先を行きましょう、激坂の倉掛峠を越えて中藤中郷の白鬚神社です。

倉掛峠

中藤中郷白鬚神社

ここも、先の2つの白鬚神社同様の伝承です。原市場と全く同じ内容(28社)となってます。

先を行きましょう、さぁ、山を降りて岩沢の白鬚神社です。

岩澤白鬚神社、別名白鬚白山神社。ここでも集まり画。同やら大掃除のようでした。

口碑によれば、創建は716年、風土記には、社名を、"白鬚白山唐土明神合社" とあり、ここで、唐土明神とは、高麗神社の最初の祭神と言われています。

と、いうことで、唐竹、原市場、中藤中郷の3つの白鬚神社と同じ、『高麗郡内に28 (6)の白鬚神社を分祀す』、の伝承を持つ白鬚神社と言えるでしょう。

先を行きましょう、本日最後、下加治の白子神社です。

白子神社

境内掲示によれば、高麗郡成立の716年の創建と伝えられ、高句麗渡来人たちが築いた神社とされていて、郡内に26 (また新たな数字ですね)の神社を創建した内の一つということですから、5つ目ですね。

さてさて、白子神社訪問を終えて12:40。ちょっと早いようにも思いましたが、帰りは輪行しても2時間程度は掛かりそうだし、峠を3つも越えて(押し)腿も乳酸が溜まってたので、帰ることにしました。

続きは次回

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