2019年7月13日土曜日

延喜式後の武蔵国の古代東海道、浅草

以前、延喜式前の武蔵国の古代東海道について、まずは全体感を、次に定説ルート異説ルートその1, その2, そして、武蔵国が東海道に所属変えとなる前の東山道武蔵路をexploreしました。

延喜式前の武蔵国における古代官道は、これで大体ご紹介出来た、そういうことになります。

※相模国夷参駅〜武蔵国府、武蔵国豊島駅〜下総国井上駅はまだ行ってませんがそれは追々

ここでそもそも、"延喜式"なんですが、前回の全体感の時にご説明したように、古代官道は時の情勢によって変遷しているんですね。

それが書物から読み取れるんですが、延喜式もその1つで、927年に出された内容を見ると、

"店屋・小高・大井・豊島の四駅に各々駅馬十疋を置くとし、都筑・橘樹・荏原・豊島の四郡に各々伝馬五疋を置く"

と、書いてあって、駅は、店屋、小高、大井、豊島だと分かります。

771年以降、延喜式前までは、店屋、武蔵国府、乗潴、豊島でした。

店屋と豊島は同じとして、小高と大井が新しく、大井は今の大井です。ですから、771年〜927年の間のいつかの時点に、下図、黒線から赤線へ変化したことになります。

延喜式前後比較、店屋駅から武蔵国府への道は正確に言うと東海道本路ではなく、店屋駅から武蔵国府への連絡路です。この時の本路は、相模国夷参駅から武蔵国府へ達していました。

また、小高ですが、従って、この赤線上にあることになるわけですが、川崎市新作小学校で発掘された新作小高台遺跡が、確定的ではないものの、該当すると言われています。

と、いうことで整理すると下図のようになります。大きくしてご確認ください。

まず町田市付近に行ってください。その辺りにある紫のマーカが店屋駅です。店屋駅から東へ青線が続いてますが、これが延喜式古代東海道です。店屋駅の次の紫マーカが都築郡衙、次が小高駅、次が橘樹郡衙、多摩川を渡ったら、赤線と青線が延喜式古代東海道です。赤線の方が古いと思われます。赤線を辿っていくと茶色マーカがあり、その次に赤マーカの旗岡八幡がありますが、ここは荏原郡衙です。で、その先の紫マーカが大井駅です。その先、日本橋で青線が分かれますが、西側が、豊島駅が延喜式前と同じだった場合、東側が、変更になった場合です。変更になったとすると、浅草を通ります。浅草寺の開山が628年ですから、延喜式の927年時にはとっくに開かれていただろうし、平安期以前の寺社がこれだけ集中してますから、東側が本命だと思います。



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さて、ではこの延喜式後の古代東海道を、どうexploreするか。

正直言えばもう何度も走った。また、道はただの都会の道だし、魅力的ではない(そう言えば、東山道武蔵路で行った狭山の辺りは美しい田園風景で癒やされた、素晴らしかった。)。

さて、どうするか、と、改めて地図を眺めると、ルート沿いに平安期以前の寺社が集中しているのが分かる。延喜式前のルートは杉並区の辺り、つまり、乗潴駅周辺に集中している。延喜式後のルートでは、浅草が物凄いことになっている。

浅草の特徴としては、
  • まず緑、慈覚大師円仁縁の寺社だ。
  • 次はグレー、日本武尊縁の神社だ。
  • 次は黒、源頼義・義家親子による前九年の役、後三年の役ゆかりの寺社だ。延喜式前のルートの杉並区周辺より数は少ないが、一定程度ある。
  • 最後は茶色、平将門縁の寺社だ。
しかし、この辺りは927年当時、低地であり、海、あるいは湿地で、官道を通すに適さなかったのでは?とも思う。地形図で確認してみよう。

地形図

図真ん中やや左下からルート(青線)が来ている。皇居の辺りで東へ直角に曲がる。その後は隅田川沿いに北上するのだが、まるで綱渡りするように、ものの見事に微高地を行っていることが分かる。

逆に、青い所は、現在は、単に標高の低い所だが、当時は海だっと理解して良い。海の中に川が、この図だと、西から、隅田川、荒川放水路、新中川と、南北にあるが、頭の中で川は消し去り、海だと思ってもらいたい。例えば隅田川の両岸にもポツリポツリと自然堤防微高地があるが、それは島だったということ。

因みに、図真ん中やや左下、茶色マーカがあるがこれは新橋にある烏森神社。その東に北北東から伸びている半島が江戸前島。烏森神社は江戸前島の突端に建てられたのだ。深い意味がありそう。江戸前島と皇居の間の入り江が日比谷の入り江で、江戸前寿司とはここで取れたネタで作った寿司のことを言う。

その江戸前島を北北東に行くと寺社が固まっている所があるがここが日本橋。ここに微高地が無ければ延喜式後の古代東海道は寸断されていた訳だが、では何故ここに微高地が出来たのか。

不忍池が分かると思うがその先は石神井川、石神井川の西の本郷台地、その西の谷は神田川(平川)の谷。今の神田川は本郷台地を貫いているがこれは家康によるもの。本来の川筋はこの谷筋の通り今の日本橋川。

この2本の川が出合う所が日本橋。更に東からは隅田川が、南東からは潮が、土砂を寄せ合い集まり堆積していくピンポイントが日本橋。だからここに微高地が出来た。

隅田川の西岸も同様に川の蛇行によって土砂が盛り上がり自然堤防となっていった微高地。これらの微高地は、既述のように、浅草寺が628年開山だから、その時は既に成立していたことになる。

この隅田川沿い自然堤防微高地と上野の大地の間、ここは、嘗て、隅田川の氾濫による姥が池、千足池、長江の入江があった。

それを避けるには、今の日光街道の微高地を辿っていかなければならない。これが延喜式前の古代東海道の道筋か。

ここで忘れてはならないのが豊島駅。豊島駅に寄ろうとすると、日本橋から本郷台地を駆け上がり、豊島駅に行き、石神井川の東の台地を南下、日光街道の微高地を来なければならず、遠回り。なので、延喜式後は、豊島駅を隅田川渡河点、石浜神社の辺りに移動した、というのが1つの説となっている。

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と、いうことで、延喜式後の古代東海道をトレースするのではなく、浅草を中心としたエリアに絞ってexploreしたいと思います。

滝坂道、大山街道で三宅坂まで。お堀に沿って、皇居外苑を突っ切り、将門塚に向かいます。

将門塚、土曜の朝7時過ぎでしたが、黒塗りの高級車で来られた初老の方など、引っ切り無しに人々が訪れ参拝が途絶えません。

その名の通り将門がフィーチャーされてますが、ここは神田神社の旧社地で、730年にこの地に創建されました。古いですね。この地が早くから陸地化し、開けていたことが分かります。

730年というと、延喜式前の古代東海道の時代ですが、ここは通っておらず、通らずとも、開かれていたんですね。

そう言えば、深大寺(狛江)エリアもそうでした。あそこも古代東海道からは遠く離れていましたが、深大寺開山は733年です。高句麗の民たちは、陸路ではなく、海、多摩川のルートでここに上陸したのでした。

このエリアも同様に、海路で開かれたエリアだったのだと思います。

話を神田神社に戻します。

祭神は大国主命。出雲系が海路、この地に、上陸してきたことが垣間見えてきます。

続いては三越エリアにある福徳神社です。

福徳神社

貞観年間ですから859〜876年には、既にここに鎮座されていたとのことですから、こちらも古いですね。

祭神は倉稲魂命なのでお稲荷さんです。

が、相殿が、天穂日命、大国主命、少彦名命、事代主命、三穂津姫命と、出雲系勢揃いで、どのような謂れで相殿となったか調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら、先の神田神社(将門塚)と合わせ、出雲系が海を渡ってこの地に上陸したのではないかと思われます。

更に、源義家の信仰も篤かったということで、義家縁でもあったんですね。

福徳神社の南には兜神社があります。

兜神社
兜岩

兜神社自体は明治の創建ですが、その元となった兜岩には、
  • 前九年の役で奥州に向かう義家が、戦勝を祈願して岩に兜をかけた。
  • 後三年の役の凱旋時ここに立ち寄り、東夷制定を祈願して、兜を埋め兜塚としたものがいつの間にか兜岩となった。
  • 藤原秀郷が将門の首を京の都へ運ぶ時、将門の兜をこの地に埋め供養した。
という伝承があり、ここ兜神社も義家と将門縁です。

濃いですね、義家と将門色が。このエリアは。

兜神社の直ぐ近くには、鎧橋があり、ここは元鎧の渡しですが、ここにも兜神社と似た伝承があります。兜神社とセットというか、元は同じ伝承のような気がします。

鎧の渡し、2019年
鎧の渡し、1858年

  • 義家が奥州征伐に向かう際、この地で暴風雨に遭い、大きな淵を渡れず難儀していた。鎧を沈め龍神に祈った所、暴風雨が止んだ。いつしかここを鎧淵と呼び、鎧の渡し、鎧橋となっていった。
  • 将門が兜と鎧をこの地に収めた。
先に進みます。

福徳神社の北には、これまた興味深い、福田稲荷神社があります。

福田稲荷

なんと、709年に本家本元伏見稲荷が創建された僅か2年後に勧請されたといいます。

本家本元伏見稲荷の創建は、社記では和銅4年、711年とされていますが、山城国風土記では和銅年中、つまり、708〜715年とされているので、辻褄が合うということになりますが、に、しても、早過ぎませんか?!というのが本音ですが、何れにせよ、先の福徳神社といい、ここ福田稲荷といい、お稲荷さん = 秦氏勢力も、海を渡ってこの地に上陸したのでしょうか。

先に進みますと、椙森神社があります。

椙森神社

ここも古い。931年の創建と伝わります。940年頃には、藤原秀郷が、将門征伐成功のお礼として、白銀の狐を奉納したといいます。祭神は沢山あるんですが、このことから、元はお稲荷さんと思われます。

ここも将門ですね。

このルートが、その当時から、武蔵国から常陸国(将門本拠地)に行く主要なルート、つまり、東海道だったことを証明しているようにも思えます。

先に進み、家康が掘った神田川を渡り総武線を越えて直ぐにあるのが銀杏岡八幡神社です。

銀杏岡八幡神社

ここも義家。また、"岡"ですから、ここも自然堤防微高地で周囲より少し高かったんでしょう。

頼義・義家親子が、ですから前九年の役に向かう時、戦勝を祈願しここに銀杏を植え、帰途、ですから1062年、見事勝利となったので、八幡神社を勧請したとの伝承があります。

その直ぐ先には須賀神社があります。

須賀神社

須賀神社ですから須佐之男命ですね。大国主命の父です。出雲系ですね。

推古天皇9年ですから601年に、この地に疫病が流行った時、白衣の異人が海から現れ、"我こそは牛頭天王なり。我を祭れば疫病は避けられる。"と言い、消え、牛頭天王を彫り祭った所、疫病が去ったという伝承があります。

この伝承などは、そのものズバリで、"出雲系である須佐之男命(牛頭天王)が海から現れ", ですから、出雲系の民が海からこの地に上陸したという、これまでの仮説を補強する伝承ですね。

須賀神社の直ぐ近くには鳥越神社があります。

鳥越神社

ここは隅田川が作った自然堤防の微高地の中でも一際高い丘だったようで、日本武尊東征の折、この地を訪れ、皇祖ニ柱を祭り、後世の651年、村人が日本武尊を白鳥明神として奉祀したのが始まりです。

ついに登場しました、日本武尊です。

ここはお馴染み義家伝承もあって、頼義・義家親子が奥州征伐の折、白鳥明神前の海をどうやって渡渉しようか思案していた所、白鳥が歩いて渡るのを見て、これは白鳥明神のご加護と、以降、鳥越の名を奉じたという内容です。

鎧の渡しの伝承と似てますね。

さて、頼義・義家親子はどこを渡渉したのか。

地形図、鳥越神社、牛島

恐らく黄色ラインを渡渉したのだと思います。

左下、グレーが鳥越神社です。赤は船江神社旧社地で、この辺りから北に自然堤防微高地が続いていて、牛嶋神社がある"牛島"があったと思われます。

頼義・義家親子は、鳥越神社から牛島に渡渉したのではないでしょうか。

先に進みます。

黒船稲荷神社

940年に、将門征伐を成功した藤原秀郷が勧請したと言います。藤原秀郷が夢で黒船に乗った白狐を見たということで、椙森神社と殆ど同じ伝承ですね。

さて、次はいよいよ浅草寺です。

駒形堂、2019年
駒形堂、1858年
浅草寺

"推古天皇36年(628)3月18日早朝、檜前浜成(ひのくまのはまなり)・竹成(たけなり)兄弟が江戸浦で漁労中、投網の中に一体の仏像を見付け、これを土師中知(はじのなかとも)が拝し聖観世音菩薩の尊像であることを知り、自ら出家し屋敷を寺に改めて深く帰依した。"

これが、お馴染みの浅草寺縁起ですが、ここで、注目は、まず、漁をしていたのが隅田川ではなく、"江戸浦", 海なんですね。

もう1つの注目点が、"土師"中知と、"檜前"浜成・竹成です。土師氏は出雲系で、檜前はヤマトにルーツを持つ氏族ですから、やはり、出雲系、大和王権勢力が、海路、この地に来て、上陸し、土着していったものと思われます。時期的には628年より前ということになりますね。

最後にもう1つ、1070年には義家が戦勝祈願に訪れています。ここも義家でした。

次は、待乳山聖天本龍院です。

待乳山聖天

ここも古い。浅草寺よりも古い、595年です。

鳥越神社同様、自然堤防微高地なんですが、周りより更に少し高かったようで、だから、山号の意味以外でも、"山"でした。

この山を切り崩して、姥が池、千足池、長江の入江を埋め立てました。また、待乳山聖天の直ぐ北を山谷堀が流れてますが、その土手は日本堤で、この堤防もこの山の土で作られ、千足池の水を堰止める為のもので、山谷堀は水逃しの為に作られたものでした。

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それにしても浅草寺はスゴイですね。

浅草寺縁起に、628年に観音様が現れた時、金の鱗を持つ龍が天から現れたという行があります。

浅草寺の子院である待乳山聖天の縁起も、595年に山が現れ、そこに天から金龍が舞い降り山を護り、その後、601年に、十一面観音が聖天に姿を変え現れ、人々を救済したということがあり、ほぼ同じ内容なので、元は同じかもしれません。

で、何が凄いのかということなんですが、
  • 仏教公伝、538 or 552年
  • 日本最古の寺、飛鳥寺、蘇我馬子建立の発願588年、創建596年
  • 法隆寺、607年創建
と、いうことで、ナント!日本最古の寺、飛鳥寺やあの法隆寺と肩を並べる位の古さなんです。

まあ、余りにも古過ぎるんで、多少あれだとしても、日本に仏教が公式に伝来した時とほぼ同じ時に、遠く離れた東国で、仏教寺院が建立されたというのはホントに凄いことです。

何故、このようなことが実現出来たか。

キーワードは、"檜前", "土師"です。

先にも触れましたが、檜前氏は、289 (あるいは409)年に渡来した阿智使主の末裔で、大和国高市郡檜前郷(今の奈良県高市郡、明日香村のある郡)に住んでいた氏族です。渡来時に仏教を持ち込んでもおかしくないでしょう。

一方、土師氏は、天照大神、天穂日命、出雲国造の系列で、野見宿禰を祖とする氏族。垂仁朝に起こりました。ですから、紀元前29〜70年の間ですね。

その後、現在の大阪府藤井寺市道明寺付近を根拠地としました。道明寺は土師氏の氏寺で、6世紀末創建と言われていますから、飛鳥寺などとほぼ同じ時に創建されたことになります。

その土師氏は、埼玉県岩槻市の久伊豆神社や群馬県藤岡市のその名も土師神社など、東国にも足跡があり、600年位の時に、仏教を携えて、海路、浅草に来たんでしょう。檜前氏も同様と思われます。

浅草はホントに凄い!
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次は今戸神社です。

今戸神社

1063年、頼義・義家親子が奥州征伐の帰途、創建しました。

義家ですね。

それよりも気になるのが、"今戸"という地名です。"戸"ですから、港だったんですね。で、"今"ですから、"古"戸や"古"津もあるはずです。どこなんでしょうか。

先に進みます。

770年ですからここも古い、保元寺です。

保元寺

先に進みます。

ここも古い、760年開山、橋場不動院です。

橋場不動院、ここ、雰囲気が良かったです。

こことセットなのが、玉姫稲荷です。橋場不動院が別当を務めていましたから。

玉姫稲荷

757〜764年に、この辺りの砂尾長者の園内に創建されたと言います。

この砂尾長者に繋がる話として、この辺りから千住大橋の方に向かって砂尾堤という堤防がありました。

砂尾堤

この堤は、調べましたが分からなかったんですが、もしかしたら元は自然堤防微高地で、この堤が、豊島郡衙へと続く道だったのではないでしょうか。徳川将軍も、鷹狩の際、江戸城を出て隅田川に入り石浜から船を上がり砂尾堤で千住方面に行っていました。

さて、隅田川西岸としては最後、石浜神社に向かいます。

石浜神社

724年の創建、しかも、聖武天皇の勅で建てられたということです。何故なんでしょうね。府中とかなら分かりますが。

尚、今回のexploreとしては初の神明です。

橋場の渡しを渡りましょう。

隅田川東岸に出て白鬚公園内を行き隅田川神社に到着です。

隅田川神社

隅田川の自然堤防微高地で、浮島と言われていたこの地。ここも、須田神社同様、水神上陸の伝承があります。神代ですから紀元前660年より前の伝承です。それは余りにも、としても、創建は相当昔まで遡れる可能性があります。

祭神は速秋津日子神、速秋津比売神で、この2柱は夫婦神で、別名、水戸神です。水の戸 = 門、港ということですから、この地が、今戸に対する古戸だったのではないでしょうか。時代と共に徐々に水が引いていき、今戸の辺りが今の戸になっていったと。

公園内を北へ。木母寺を訪れます。

木母寺

977年開山です。人買いの信夫藤太が梅若丸を奥州で売払おうと大津を出発しこの地を通りますが、12歳の梅若丸はここで力尽き果てました。

このルートは武蔵国から常陸国を経由し奥州へと行く延喜式古代東海道だったのです。

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と、いうことで、如何でしたでそょうか。

浅草は浅草寺だけじゃない!

とても、deepなエリアでした。

まず思ったのは、海だったということです。

隅田川はあるにはありましたが、河口は今よりずっと北で、石浜神社の辺りが、"古津(戸)"でした。そこから南は海だったんです。

だから、大和王権、出雲系、秦氏などが、海路、この地にやってきて上陸します。それが、神社の祭神や伝承に残されています。

その後、日本橋や隅田川の自然堤防微高地が安定してくると、武蔵国から常陸国、奥州へ向かう古代東海道となり、頼義・義家親子や将門、将門を征伐する側の藤原秀郷、あるいは円仁が、この道を行き来するようになったんです。

寺社開山、創建出雲系将門秦氏義家大和王権円仁
隅田川神社神代〇(水神)
鳥越神社110年
待乳山聖天595年
須賀神社601年
浅草寺628年
福田稲荷711年
石浜神社724年
神田神社730年
橋場不動院760年
玉姫稲荷760年
保元寺770年
福徳神社859年以前
牛嶋神社860年
椙森神社931年
黒船稲荷940年
兜神社不明
木母寺970年
銀杏岡八幡1062年

正に、浅草無くして江戸は無し、東京も無し、だったんだと思います。江戸湊だったんですね。

こう考えると品川は、武蔵国の国府が710年頃に府中に置かれましたが、その辺りから国湊として栄えていったんだと思います。

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もう1つ、言っておきたいことがあります。円仁です。

浅草周辺には、今回訪問してない所を含めて、円仁縁の寺社が、以下のように多数あります。

浅草寺(駒形堂), 待乳山聖天、長命寺、牛嶋神社、如意輪寺、東光院、清水寺

更に延喜式古代東海道を南下すれば品川に常行寺

品川道を目黒に行けば瀧泉寺、成就院、安養院、円融寺

延喜式前の古代東海道沿いでは大覚寺、宝泉寺、大円寺、安養寺

と、実に、東京都内だけで16もの寺社を創建しています。

追って調べてみれば、東北に331, 関東に209あるといいます。

何故、円仁(天台宗)は、こんなにも、東国に天台寺院を建てなければならなかったのか。

ネガティブな背景としては、空海(真言宗)によって、都を中心とした西国は駆逐されんとしていた、そういった危機感があったということがあります。

では東国にと東に目を向けると徳一(法相宗)が勢力を振るわんとしていました。

ポジティブな背景としては、律宗でありながら天台宗と密接な関係を構築できていた道忠集団が東国の下野にありました。

というような、宗派の生き残りをかけた勢力争いが背景としてあったということがありました。

もう1つ、800年に坂上田村麻呂が奥州征伐したとは言え、奥州はまだ安定的とは言えず、武力の次は宗教で教化していく必要があると考えた桓武朝、それを引き継いだ清和朝が、天台にそれを指示したということがありました。

だから、こんなにも、円仁縁の寺社が多いんです。
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帰りは延喜式前の古代東海道を行きます。

隅田川を渡り、砂尾堤を行き、千住大橋に出ます。

橋の袂には、義家伝承がある南千住熊野神社と出雲系須佐之男命伝承がある須佐之男神社があります。

熊野神社
素戔嗚神社

須佐之男神社の縁起にも、須賀神社とほぼ同じ伝承があり、出雲系が海路この地にやってきたことを伺わせます。

尚、行きませんでしたが、牛嶋神社も同じく、慈覚大師円仁が、須佐之男命の権現である老翁の託宣により建立ですから、同じですね。

この辺りは本当に出雲系の海路進出が多かったものと思われます。

ここから隅田川や利根川を遡り、大宮の辺りに進出していったのかもしれません。

さて、ここから、日光街道沿いに微高地が続き、三ノ輪から西へ折れ微高地の旧道を行きます。

このルートは上記地図の通り、古寺社がそう無いんですが、迅速測図を見ると興味深い光景が広がっています(いました。)。

三河島、迅速測図

流れてる川は隅田川です。右上で隅田川を渡っている通りが日光街道です。ここを南に行くと、途中からUの字を描くように西へ来ているのがルートで、このルートの南が本郷台地です。

さて、面白いのは真ん中です。田圃の中に、ポツンと集落が2つありますね。まるで島のよう。そうです。これが三河島なんですね。正に島なんです。本郷台地から眺めたら、象潟のような光景が広がっていたのではないか、そう思いますが今はどうでしょうか。

この後、さほど、見所も無く、豊島郡衙にトウチャコ、その後は延喜式以前の古代東海道で家にトウチャコです。

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如何でしたでしょうか。

意外に、濃い、良い、exploreでした。

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