2019年5月19日日曜日

下高井戸ルート(異説), 延喜式前の武蔵国の古代東海道 + 古寺社集中縦のライン

前回は定説ルートを行きました。今回は、異説ルートを行きます。

まずここ、三鷹一小なんですが、定説ルートではここを左に行きましたが、異説ルートではここを直進します。

見てください、見事な直線ですよね。見れば見る程、来れば来るほど、何故、ここで左折しなければならなかったのかが分からなくなります。

三鷹一小から東を望む

ここから先、古寺社は無く、チャリを止める理由も無くただひたすらに進み、下高井戸で左折、このルート初めての渡河、神田川です。

神田川

勿論、下高井戸からここまでは下りで、神田川を渡った後は永福に向かって上りなんですが、現在の道ではなだらかでさほど苦ではありません。でも往時はどうだったんでしょうか。

永福稲荷神社を過ぎた辺りで台地に上がり切ります。ここからは神田川左岸の台地を安定的に進んでいきます。

永福の駅を過ぎて程無く、龍光寺参道があり龍光寺に向かいます。

龍光寺は、1172年開山とされています。宝仙寺末でした。宝仙寺は義家が開山に関わっていますから、ここ龍光寺も源頼義義家親子による前九年の役、後三年の役伝承に絡む寺と言っても良いかもしれません。

道は大宮八幡宮の参道入口に行き着き、善福寺川に向かって下っていきます。ここが結構な勾配。往時はすごかったんだろうと想像できます。善福寺川を渡った後、再び台地に上がっていくんですが、その縁にある堀ノ内熊野神社からの眺望がこれです。

ちょっと分かりづらいですが、高低差があることはお分かりいただけるかと思います。目の前のマンションの3階より上ですね。

堀ノ内熊野神社からの眺望

台地に上がったら、道は再び、今度は善福寺川左岸を安定的に進んでいきます。ここは、うっすらと上りが続き、途中、善福寺川の支流を渡河するんですが、実に安定的です。

鍋屋横丁まで上り切ったら、紅葉山公園に向かうんですが、このルートは、定説ルートと違い、桃園川を渡河しなければならないんですね。上り下り多い。古寺社が少ないのと、この、渡河が多いというのが、このルートを定説に引き上げられないポイントなんです。

桃園川跡、しかも結構な勾配なんです。

桃園川に向かって下り、桃園川を渡って紅葉山公園の上りをこなし、実は再び桃園川の支流が作った谷に向かって下るんです。

今はただの道路ですがここは桃園川の支流でした。

道は、早稲田通りに向かって上り、やがて、新井薬師に辿り着きます。ここからは定説ルートと同じです。実はこの間、今度は妙正寺川の支流を渡河するんですが、気付きませんでした。暗渠化されてるのと、勾配の変化があまり無かったからだと思います。

と、言うことで、お見せする写真も大してない、そういうルートだったんですが、そのことに象徴されるように、古寺社が無いんですね。人が通っていた、あるいは集落の痕跡が薄い感じです。

その代わり、川の写真が多い。やはり、このルートは、神田川とその支流群の下流に近く、そうなるとそのまた支流も多くなる為です。

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ガっと下高井戸まで真っ直ぐに行って、ガっと西ヶ原まで行くこのルートの方が見栄えは良かったんですが、神田川とその支流群の下流域ということで、渡河する川が多く、アップダウンも多く、古寺社も少なくて、実走してみたら、???というルートでした。

一方、前回の定説ルートは、やはり、4川の渡河があり、階段状ではあるものの、異説ルートよりは3回少なくて済んでますし、古寺社も多く、有力に思いました。

武蔵国で、国府から豊島駅へのルートを考える時、この、東西方向に流れる神田川とその支流群の存在を無視できないぞ、と、思った次第です。

そう思って陰影図と古地図を見比べながら発見したのが、千川上水ルートと富士街道ルートですが、それらは後日としたいと思います。

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さて、写真的に面白みの無い記事となりましたので、縦のラインも行ってみました。以下にご紹介します。

こうして俯瞰すると一目瞭然ですが、まず延喜式古代東海道(青・赤線)沿いに古寺社が集中してますね。特に浅草。ここまで縮小するとマーカが重なってしまってますが、夥しい古寺社です。その他も、品川、豊島駅周辺など、古寺社集中エリアはあるんですが、杉並区天沼辺りも負けず劣らず集中しているのが分かります。

迅速測図、全体

ズームするとこうなります。

黄色はルート沿いで既に行ったところです。今回は青を行きました。

古寺社が沿った道が3本ありますが、阿佐ヶ谷八幡宮、あるいは源頼義・義家親子の前九年、後三年の役伝承がある宝仙寺旧地である世尊院で合流し、鷺宮八幡神社を経由し赤羽から奥州に向かう、所謂後の鎌倉街道です。

では南から、まずは大宮八幡宮です。

大宮八幡宮、1063年、源頼義凱旋の際、ですから前九年の役の復路ですね。岩清水八幡宮を勧請し創建されたといわれます。復路だけでなく、往路、この地に差し掛かった時、大空に白雲たなびき源氏の白旗の如くとし、奥州を平らげた後は必ずこの地に戻り八幡信を勧請するといった伝承もあります。更に、その子、義家も後三年の役の往復にこの地に寄ったという伝承があります。

撮影は午後夕方近くだったんですが、写真の通り、太陽をを背にしている、つまり、東向きなんですね。これは江戸時代、江戸城守護の為、南向きから変えさせられたとの伝承が残ります。

次は、白山神社です。

諸々、詳らかでないんですが、創建は、大宮八幡宮とほぼ同時期だろうとのことです。

その次は尾崎八幡神社です。

尾崎八幡神社、やはり、詳らかではないんですが、大宮八幡宮と同じ頃ではないかと言われています。

最後に、須賀神社です。

成宗須賀神社、941年に創建、1599年に再建されたと伝えられているといいます。

この4社は全て善福寺川沿いなんですね。川に面した崖上に位置しています。その視点で見ると、ルート沿いにあって、既に訪れた、荻窪八幡神社は善福寺川、天沼熊野神社は桃園川沿いですね。

大宮八幡宮はその典型ですが、縄文・弥生時代の祭祀遺跡が見つかっています。大宮八幡の正門は嘗て北門で、川 = 水を崇拝していた頃から、"天子南面す"の考え方が伝わる前からの聖地であり、何らかの集落があり、だから、頼義・義家親子もこの道を通ったと思われます。

八幡、白山、八幡、須賀と、祭神は異なるように見えますが、それは後の世の人が合祀したのであって、元は、川、あるいは崖地故の湧水を神格化したのではないでしょうか。

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